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« 4月20日の十大事件 | メイン | ダライ・ラマ畏るべし »

中国が「好き」か「嫌い」かというような話はもう止めませんか

朝刊を広げたら、週刊現代の新聞広告を目に入った。
特集は「中国、『好き』か『嫌い』か」。
なんと。
外交は好き嫌いでやるものではない。
小学生ではないのだから、「好き嫌い」で外交戦略を決するような愚かしいことは止めて欲しいものである。
どのような人がこのような特集に寄稿しているのか一瞥すると、「中華思想の骨法がわかれば中国は御しやすい」などという愚なるタイトルを掲げた文を草しているものがいる。
誰だ、このバカはと思ってみると、私の名前が書いてある。
う?
そんなもの私は書いたのか?
たしか十日ほどまえに「中国との付き合い方」というタイトルで寄稿を依頼された覚えがある。
週刊現代だったかもしれない。
その中に私は「好き嫌いで外交方針を起案するような愚かなことはいい加減やめたらどうか」ということを書いた。
外交戦略は先方がどのような国家像をもち、どのようなコスモロジーのうちにおのれを位置づけているかを理解するところから始まる。
どのように傍目から理不尽に見えるようなふるまいであれ、たいていの場合、先方の政府や国民にとっては「主観的には合理的な根拠」がある。それを「おまえのしていることは私にはよくわからん」といくら大声で言ってみても始まらない。
どうして、「そのようなこと」が先方にとっては「主観的に合理的であり、かつ正義にかなっている」ように思えるのか、その判断の構造を理解しなければ、生産的な対話は始まらない。
私はたしかに中華思想の理解が喫緊の課題であることを寄稿には書いた。
「中国人を動かす工夫」の必要であること、その必要性を理解している方がきわめて少ないことを私は書いたが、どこにも「御しやすい」などということは書いていない。
「御しにくい」から「御し方を研究したらいかがか」ということを書いたのである。
13億の中国人が机上の空論ひとつ聴いただけで「御せる」ものなら誰も苦労はしない。
このタイトルはゲラの段階で見たはずなのだが、そのときは「週刊誌的」なアオリだからしかたがないか・・・と思っていたのであるが、改めて新聞広告で見ると、中身を誤解させるように作為的につけられたタイトルのようないやな気がした。
というわけなので、寄稿した文章をそのままここに採録することにする。
書いていることは『街場の中国論』の焼き直しで、なんの曲もないものだが、とりあえず「中華思想の骨法がわかれば中国は御しやすい」というようなことはどこにも書いていないことを明らかにしておきたいのである。

中国とどう付き合うか。これは日本にとってほとんど二千年来の変わらぬ宿題である。元寇のときと、日清戦争から太平洋戦争までの二回を除き、日中はおおむね良好な関係を取り結んできた。それは私たちの国の先賢たちが「中華思想」というものの様態を理解していたからであると私は思っている。
中華思想というのは一種のコスモロジーである。中央に中華皇帝がおり、その周辺に「王土」が拡がり、中華の光が及ぶ範囲は「王化」されているが、中央から遠ざかると光が薄まり、「化外の民」が跋扈する「蛮地」になる。蛮地は蛮人たちの自治に委ねる。彼らが朝貢するならば、地方の王(漢委奴国王とか親魏倭王とか)の官位を与え、さまざまな下賜品を与えて帰す。だから、中華思想はナショナリズムではない。このことを覚えておこう。中華思想には「国境線」という概念がない。周縁には王土なのか化外の地なのかよくわからない「グレーゾーン」が拡がっている。
近代における日中の確執は「主権の及ぶ範囲の確定を曖昧なままにしておきたい中国」と「主権の及ぶ範囲の確定を求める日本」というスキームで推移した。台湾出兵、琉球処分、日清戦争はいずれも中国と日本が出会う周辺エリアの主権と帰属をめぐる闘争である。日清戦争のときに北京で対中外交の任にあった森有礼は「清国政府は一面に於て、朝鮮は内治外交とも其自主に任す故に朝鮮に起りたる事件に付ては直接に其責任を執らずと云ひながら、他の一面に於ては朝鮮は尚ほ中国の属邦にして決して一個独立の王国と認むる能はずといふが如き前後矛盾の属邦論を主張」したことに非を鳴らしているが、この「前後矛盾」のロジックこそが中華思想の骨法であることを森だって知らなかったはずはない。
同時期に外務卿であった陸奥宗光も「日清両国が朝鮮に於ける関係は従来殆ど氷炭相容れざる主義に基き居たるものあり」と書いている。戦争は地政学的権益の争奪ではなく、国家観の問題なのであるということを陸奥は理解していたのである。
近代における日本と中国の確執は、本質的にはこの「曖昧なる宗属の関係」を分明にせんとする日本と、何があっても分明にしたくない中国の間のコスモロジーの違いから派生している、というのが私の意見である。この違いを勘定に入れないと、どうして中国人は「一国二政府」というような香港の統治形態を「気持ちが悪い」と感じないのか、どうして台湾が独立したら武力侵攻するぞと言いながら、台湾から資金と人間が流入することを「気持ちが悪い」と感じないのか、どうして日中の海底ガス田の帰属について、「決着を棚上げするというソリューションもあり」と言い出すことを「気持ちが悪い」と感じないのかが理解できない。
中国人は、私たち日本人にとってはたいへん気分が悪い「宗属関係の曖昧さ」がまるで気持ち悪くないのである。周辺に広くグレーゾーンが拡がっていることを常態とし、その帰属をはっきりさせようとするすべての企てに反対するのが中華思想の本義なのである。
今、中国政府の政策を批判している方々のロジックは煎じつめると「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない。だが、そんなことを言っても何も始まらないと私は思う。私からのご提案は、「私たちとは違う中国人の考え方を研究し、そこから引き出された法則を利用して、中国人を操作する工夫したらいかがか」ということである。どうして、そういうことを誰もメディアでアナウンスしないのか、その理由が私にはよくわからない。

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コメント (39)

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

今、日本政府の政策を批判している方々のロジックは煎じつめると「日本人は中国人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない。だが、そんなことを言っても何も始まらないと私は思う。

で、わたしからのご提案は、「あなたたちとは違う日本人の考え方を研究し、そこから引き出された法則を利用して、日本人を操作する工夫をしたらいかがか」ということである。どうして、そういうことを誰もメディアでアナウンスしないのか、その理由が私にはよくわからない。

raincoatcrowd [TypeKey Profile Page]:

好きか嫌いか、と言われたら福田さんも小沢さんも中国は好きなんじゃないですか。それなりによろしく(曖昧外交を)やっている感じがしますけれど。

>そういうことを誰もメディアでアナウンスしないのか、その理由が私にはよくわからない。

それこそ、中国の性格を知っての上で気を利かして黙っているのでは。大々的に言っちゃったら身も蓋もないでしょう。

mktn [TypeKey Profile Page]:

雑誌の記事は記事であって、外交ではないと思いますが。

雑誌にはこのような記事を作る「主観的には合理的な根拠」があるわけで、そこは理解してあげなくてもいいのでしょうか?

茶々 [TypeKey Profile Page]:

最終回『愚よ愚よ汝をイカに戦記』by 茶々 (あらかじめご注意申し上げておきますが、ここは本当に危険ですので、しばらくの間、善意の方以外は書き込みをしないでください。その理由を知りたい方は、宮崎駿のコミック版『風の谷のナウシカ』第7巻をどうぞ!)


え? もう終わりかよ。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

きょうの夕方のテレビにチベット留学日本人学生の暴動目撃譚と、かれによる詳しい暴動の記録日記がとりあげられていた。
それによると「暴動」に加担したチベット人は建物の陰に連行され中国人警官たちからスコップで殴られるなどの暴行を受けていたという。
それを中国人たちはニタニタ笑っていたので、こういうことが日常的に行われているのだなと日本人留学は思ったという。
チベット人を日常的にスコップで殴り、半殺しにする中国人警官と中国人の行為を

“どのように傍目から理不尽に見えるようなふるまいであれ、たいていの場合、先方の政府や国民にとっては「主観的には合理的な根拠」がある。それを「おまえのしていることは私にはよくわからん」といくら大声で言ってみても始まらない。”(内田樹)

というのはどうでしょうか。
そうかもしれない。でも、たとえ「はじまら」なくとも、そういう行為には嫌悪感を表明することは大事であるとわたしは思う。
そういう行為を感情的に非難しないで、政治的に有効利用しようなどということとは別に、わたしたちはハッキリ、そういうことを許している中国人および中国政府に嫌悪を表明すべきであるとわたしは思う。

KEN [TypeKey Profile Page]:

私も雑誌の記事は雑誌の記事である、と思います。

「外交、国家戦略」と人権問題などは一緒くたには論じられないんじゃないかなと思います。

中国は、清の最盛期の領土を「取り戻そう」と毛沢東の時代から一貫していろいろやっていますが、日本は東シナ海も放置、もうこれは国家戦略をもって動いている国、なんも考えていない国の違いですね。

このあたり、このままでは結構やばいと思うので、確かに感情論なんかは抜きにして日本は海洋国家としてのロードマップをきちんと作ってほしいと思います。

一方で、人権問題、虐殺、宗教弾圧、このあたりの問題に身を削るようにして運動している人らは国内にも世界にもたくさんいて、これは考えるまでもなく人間としてまっとうな行為です。

もともと外交はこういうヒューマニズムの部分を切り落としていろいろやっています。一方、ヒューマニズムの部分を担うのは民間の役割だと思います。たとえば、善光寺がリレーボイコットしたり、ハリウッドの人らがキャンペーンしたり辞退したり、民衆がデモしたりですね。

そもそも新聞をはじめとする民間は外交を論じる場であるのか?という疑問があります。中国にせよアメリカにせよ、おおかたの一般人は結構、国のプロパガンダ垂れ流しのTVのニュース見ていてぼーっとしているような感じを受けますが、国は国で戦略を持っています。日本はそういうのがまったく感じられないのが異常ですね。この国はどうなりたいんだろう?

PIYO [TypeKey Profile Page]:

私は内田先生の意見に賛成です。
外交を感情論ですべきではないと思います。
と言っても、人は完全に物事を客観的に見るのは不可能かもしれませんが、そうしようとする努力は必要だと思います。

なぜなら、感情論で話し合っていたとしたらそれは永遠に前に進まないし、解決など到底できないと思うからです。
つまり、感情とは理論を越えたものだと思うのです。
理論を越えたもので話し合おうとしたところでそれは、よほど同じようなことを考える人同士あるいは国同士でなければ、どちらか一方が譲歩するか、話は平行線をたどるしかないと思うのです。

話が平行線をたどらずに、どちらか一方だけが譲歩するわけでもなく、話し合いを進め、何か一つのことの解決を導こうとする時に必要なのは感情を抑えた理性的な部分だと思います。
つまり、話し合いをスムーズに進めそこから何らかの解決を求めるのならば、内田先生がおっしゃっていたように、互いに理解しようと努めることが必要なのです。

私が小学校の頃にもらった学年便りに「自分が相手を理解しようと努めること、相手が自分を理解しようと努めてくれることによって良い人間関係が生まれる」というようなことが書いてあったことがあります。

そうなのです。
互いに互いを理解しようと努めることによって良い関係が生まれるのです。人は相手が考えていることを完全に理解することはできないかもしれません。しかし、関係を続けていく上で、相手のことを理解しようと努めることは必要だと思います。感情をむき出しにして、相手の言うことなんてすべて嫌だと否定して、相手の話も聞かない、相手の文化も性格もすべてを理解することさえ拒否してしまったら、そこから何かが生まれることはないでしょう。
互いに互いが嫌だ、相手の話なんて聞きたくないで、終わってそこで行き止まりになってしまいます。
中国が嫌いなら嫌いでいいと思います。
それは、それぞれの好みや倫理観の問題です。しかし、嫌いだからと言って無視したり相手の言うことを理解しようとしないというのは、はっきりいってあまりにも幼稚です。
私は、日本の外交政策を変えろ、中国の外交政策を変えろなどという偉そうなことは言うつもりはありません。
ただ、相手がどんな歴史の上でどんな思想と目的をもってそのような態度を示すのか理解しようと努めた上で外交を行ってほしいと思いますし、メディアにしても、それを見る人にしても、相手を理解しようとした上で大人な態度で色々と議論していただきたい願っております。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

細かい字で書かれた寄せ書きに一色の真っ白なペンキをぶちまけるようなことはやめたほうがいい。それですべては消えてしまう。
PIYOさんのいうようなことはいわば前提で、人が何かを書く前の真っ白なキャンパスなんです。大事なことはそこに一人一人が何を書くかという事ではないのかな。
世間をよくわきまえた優等生発言だとおもいますが、わたしが教師なら良はあげられない。

なぜなら、あなた自身が〈大河〉に押し流されているからです。
世間という大河がある。あるいは真理という大河がある。人が何かを語るということは、その大河を横切るような細い小川の流れを見出すということです。
大河に巻き込まれては、もともこもない。小さな真実はそこで埋没して死んでしまう。

だからあなたの意見がいくら言葉上正しく響こうとも、わたしはそれを人の意見とは思わない。
同じく内田さんの今回の記事には実は大きな問題がある。

>私からのご提案は、「私たちとは違う中国人の考え方を研究し、そこから引き出された法則を利用して、中国人を操作する工夫をしたらいかがか」ということである。

↑言っていること自体は正しい。
しかし、それはたとえば「水泳の上達法」なる本を読んでこう書いてあるのに似ている。
「速く泳ぐには、速く泳ぐことです」
あるいは、「作文の書き方」にこう書いてあるのに似ている。
「いい文章を書くには、いい文章を書くことです」
ハウツーものに特徴的な自己言及的問題解決処方。それは具体的な問題と解決法を個別に何もいわないで、こうあるべきだという概念だけを示すことです。

上の内田さんの例でいうならば「中国人の考え方」「引き出された法則」「操作する工夫」については何ひとつ語られていない。
よって言っていることは一見正論だが、実は何も言っていないのである。

困ったことにこのような言い方は自分が何ひとつ困難に巻き込まれないで、なにひとつ傷つくことなく、優等生的な正論が言えることだ。利口な人たちのなかには、それに追従する人たちも出てくる。
そういう利口な人たちがじつは世の中をいつまでも曖昧模糊としたデタラメなものにしているような気がしてしょうがないのだが。

PIYO [TypeKey Profile Page]:

イカフライさんの意見もまたある意味で正しいと私は思います。
と言ってしまったらやはり優等生発言なのかな?

つまり
<細かい字で書かれた寄せ書きに一色の真っ白なペンキをぶちまけるようなことはやめたほうがいい。それですべては消えてしまう。
PIYOさんのいうようなことはいわば前提で、人が何かを書く前の真っ白なキャンパスなんです。大事なことはそこに一人一人が何を書くかという事ではないのかな。

と、私の文を見て言いたくなる気持ちも、いま改めて自分の文とその前のほかの方々の文を見て、分かる気がする、ということです。

そうですね。
言論の自由がある以上、人は何を言ってもいい、どのように考えてもいい、と思います。
そして、そのような自分と違う意見を持つ人と本音をぶつけ合うことによって、人の意見というのは鍛えられていくのでしょう。
だから、誰も何も言えないような雰囲気を作ってしまうのは良くない、かもしれない。
つまり、イカフライさんの言うところの大河を堂々と語っては、他の小川の流れを断ち切ってしまうのかもしれない。
しかし、大河の流れがそこに大きくあろうとも、坦々と流れていくのが、小川の流れです。
つまり、わたしが言いたいのはもし、そのような大河の流れを堂々と語る人がいたとしても、そこでめげないで、やっぱりその意見に反対だと述べてくだい、ということです。

しかし、もし私の文章にその小川のながれを止めてしまうような強さや高慢さ、あるいは人の考えを平気で止めてしまうような配慮に欠けた部分があるのならば(実際にあると思います)それは私のこれから直していくべき課題だと、自分に言い聞かせましょう。

しかし、イカフライさんの意見は、はっきりいって私の意見をそんなに分かって言ってるとも思いませんよ。
なぜなら、内田先生はどうかはわかりませんが、少なくとも私は、それが大河と分かった上で、そこに流されるのではなく、あえてそれに乗っているつもりだからです。
あるいは、どこか自分の気付かないところで、流されているだけかもしれませんが、少なくとも自分自身の今ある意識の中では、大河に自分自身、自覚したうえで乗っているつもりです。

私は、私の意見を人の意見として聞かない人がいたとしてもそれはそれでかまわないです。
しかし、かまわないと言いながらも、それを堂々と言われたら、私も何か言わずには居られません。
つまり、私はそれが現実に実現するのが難しいことも、自分が概念だけ語っていることも無自覚のまま、何かを言っているわけではないつもりだ、ということです。
私はまだ、完全に自分がその物事を実現することの困難さを知っているわけでも、自分が概念だけを言っているということの愚かさを知っているわけではないかもしれません。
しかし、自分では少しは理解しているつもりです。
その上でやはり、概念もまた必要だと思うから述べたまでです。

そんなに概念だけを語ることが悪いことでしょうか?
概念を語り、そのしっかりとした概念いうしっかりとした土台を作った上で、また具体的な対処方法をみんなで考えていけばいいのではないか、と私は思うのですが。

raincoatcrowd [TypeKey Profile Page]:

PIYOさん

>内田先生がおっしゃっていたように、互いに理解しようと努めることが必要なのです。

内田先生はそんなこと言っていませんよ。コミュニケーションというのはお互いの差異を認識することで機能するのであって相手を理解することではありません。理解などしたつもりになったところで、相手からは鬱陶しいと思われるだけでしょう。今回、内田先生が書いていることは、そこに横たわる差異の政治的利用価値の話。だから、そんなことはメディアで触れ回る種類の話ではない。しかるべき立場の人たちがオフレコで粛々と戦略として練ればよい話。内田先生が、メディアでアナウンスされないことをなんで不思議がっているのか、それが私には不思議です。

内田先生は、記事の最後に、
>私からのご提案は、「私たちとは違う中国人の考え方を研究し、そこから引き出された法則を利用して、中国人を操作する工夫したらいかがか」ということである。
と、お書きになっています。

>私たちとは違う中国人の考え方を研究
というのは、理解しようと努めるということだと思うんですが。
理解すること、共感すること、同情することはそれぞれ違います。
相手の行動原理を理解して、なおかつ理解したことを相手に悟られないようにして行動することも、相手を操作するためには戦略上有効です。

ただ相手に対して、間違っている!お前の方が悪い!
と糾弾するのではなく、どうして、そのような行動原理を持つにいたったか?
どのような思考回路でそういう発言がなされるのか、考えてみてはどうですかという提案だと思います。

今回の記事に関して私は、
頑なに善悪正誤で行動、発言するのではなく、目的を達成するための方法としては何が適切か考えてみようというお話と受け取りました。
道徳の話ではないような気がします。

マキバコ [TypeKey Profile Page]:

国同士と人同士の付き合いは本当に別物です。
国同士では「友好」は利益を生む手段ですが、
人同士ならば本物になる可能性がある。
中国人がニュースに映っているような人ばかりというわけでもありませんし、常にあんな感じというわけでもありません。
個人的に中国人と仲良くなったら、つきあいの中で中国観も変化していくでしょう。
さて個人同士の交流が今より増えて、お互いのことを知るようになれば国交も深まると思いたいところですが、そう簡単にはいかないかと。国同士の利害が一致したら話は別ですが。
好き嫌いは人によって違って結構なのですが、
国同士だと下手に喧嘩がこじれると大変なことになります。
ものの考え方が違うのだから驚く事、呆れる事はあっても、
「そういう国だから」と思って付き合うぐらいでよいのでは。
変えようと思うというのは期待しすぎに思えます。
それはお互い様です。かえって関係がこじれます。
変えるとしたら何か彼らが得心できる理由が要るでしょう。
干渉されれば巧くかわし、譲れない事はきちんと言い、
他は形よりも結果的に実利がとれていれば上等です。
そんなバランス感覚のある人、政界にいるだろうか?
商売人的センスが要求されるように思います。

PIYO [TypeKey Profile Page]:

イカフライさん。
大河の流れを語ってはいけないのでしょうか?
そして、概念を語ってはいけないのでしょうか?

イカフライさんの言うことも一理あるでしょう。
「幼稚だ」と書いた後で私はそう書いた自分が一番幼稚だと思いましたから…。
つまり、私は、イカフライさんのコメントを読んで少し反省しました。
もし私が―そんなつもりは自分ではなかったにしろ―小川の流れのことを否定したように聞こえる文章を書いていたのならば、それは私が自分が伝えたかったことをうまく文章にできたとは言えないからです。

しかし、私は――少なくとも自分では――自分が優等生的な世間体に甘んじた理想論を述べようとは思っておりません。
あるいは、私の言うことが実は――自分ではそう思っていないだけで――世間体に甘んじた理想論かもしれませんが、それならそれで、悪いとは思っておりません。
それが、人の意見だと思われなかろうが、なんであろうが、私が言いたかったのは、「他をただ否定し、嫌い、受け入れないのではなくて、例え嫌いであろうとも、これからも付き合いを続けていかなければいけない状態なのならば、相手の言うことも耳を傾け、その意見にも一理あるのかもしれない、或いは、それでも相手の意見が気に入らないのならば、なぜ相手は自分がこんなにも嫌だと思うことを平気で語れるのかということを考えてみることが必要ではないか?」ということです。もちろんそれは簡単なことではないでしょう。さらに現実的な実用的な話でもないかもしれません。しかし、そのような観念のしっかりとした土台をつくることが現実的なそして実用的な方法を考える前提として必要なのではないでしょうか。

そしてraincoatcrowd さん。
まず、私は謝らなければいけません。
それは、やはり私の表現があまりうまかったとは言えないからです。
理解するというのは非常に難しく限りなく不可能に近い行為だと私は思います。
つまり、私は「内田先生がおっしゃたように」と言いました
が、私が本当に内田先生の言わんとしていることが分かるか、と言われれば分からないです。ただ自分でこういうことを言わんとしているのではないかと解釈したことを「おっしゃたように」と書いてしまったのです。
そして、もうひとつ言うならば、「理解する」という言葉の定義が私とraincoatcrowdさんでは違う気がします。
私が言いたかった「理解する」ということは相手の言うことを分かったと思い込むことではなく、相手のことが分からないが分かりたい、理解したいと思う過程で互いの差を認識し、その差を埋めようと努力するということです。
だから、私は「理解したほうがいい」とは述べずに「(理解できないかもしれないけれど)理解しようと務めるべきだ」と述べたつもりだったのですが…。

そして、今回の皆さんのコメントを読んでの私の感想は、人は相手の話をどのようにでも判断できるのですね、ということです。
本当に、内田先生の述べたかったことは何なのかは私には分からない、きっと皆さんにも分からない、私たちにできるのは今ある情報をどのように解釈するか、ということです。

今回の内田先生の話は湧泉堂さんやマキバコさんがおっしゃっていらしたように、道徳の話ではないのかもしれない。
しかし、もしかしたら道徳の話でもあるのかもしれない…。
言葉や観念の定義はとても曖昧で、私は必ずしも道徳とビジネス的な話が相容れないものだとは思いません。
つまり、それが商業的な話であろうともやはりどこかで道徳的な話とつながっているのかもしれない…。
そうやって、コレはこの話アレはあの話と区切りを入れてしまうことが――必要なこともありますが――必ずしも必要だとはわたしは思えないのです。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

>イカフライさん。
大河の流れを語ってはいけないのでしょうか?
そして、概念を語ってはいけないのでしょうか?

↑中国人が好きか嫌いかというハナシはもともと「お遊び」です。
いわば現実的な政治にタッチできない庶民の息抜きのようなハナシです。
いわば地平でのことばの寄せ集めです。
そこへ天上から物申すなといったのです。
天上からのことばは確かに正しいけれど地平においては傲慢だからですよ。

>「他をただ否定し、嫌い、受け入れないのではなくて、例え嫌いであろうとも、これからも付き合いを続けていかなければいけない状態なのならば、相手の言うことも耳を傾け、その意見にも一理あるのかもしれない、或いは、それでも相手の意見が気に入らないのならば、なぜ相手は自分がこんなにも嫌だと思うことを平気で語れるのかということを考えてみることが必要ではないか?」

↑これ、中国人警官からスコップで殴られて耳や鼻をそがれ、眼をつぶされたチベット人の若者やその恋人に語ってごらん? 
はいはい、ごもっとも、あなたの仰るとおりです、というだろうか?
あるいはクラスター爆弾をうけて両手脚を奪われた幼児の母親に語ってごらん?
はいはい、あなたの仰るとおり。こういうことをするのにはそれなりの理由があってのこと。相手の立場に立って考えましょう、と返事しますか?
あなたや内田さんのような寝とぼけたことをいうヒマがあったら、わたしは天上からではなく、ちゃんと地上に降り立って痛みを感じている人間と同じ地平から物申しますね。

「いや、じつをいうとわたしは神戸に住んでいる。神戸には中華街もあるのをご存知だとおもうが、なかんずく中国人が多い。わたしの勤める大学にも在日中国人の子弟がたくさん入学している。友人や知人もいる。だからあまり中国人の悪口を言って欲しくないないのだ。好きだとか嫌いだとかそういうことをマスコミが煽ると、反中国感情が高まり、中国人への差別や嫌がらせにつながるもしれないからだ。わたしはそれを憂慮するのだ」

こういえば誰しも、さもありなんと頷かないではいられないでしょう。
それをなんですか。だれしもが否といえない天上からの道徳律で現実に痛みを感じていたり抑圧を感じている人たちの気持ちの表明を押さえ込もうとする。
あるいは政治的な外交手法のハナシに問題をシフトする。
あなたたちのそれがいけないというのだ。
この、いまどきに、雑誌で「中国人が好きか嫌いか」というお話がそれこそ控えめに出てくるということは、どういうことか。
よく考えてみることですね。
居間で紅茶とケーキを用意して葉巻をくゆらしながらする政治談議や道徳のお話をしているのではないのではないはずですがね?

inouetaichi [TypeKey Profile Page]:

この記事を読んで中国が気持ち悪くなくなりました。
場合によっては、内実はどうあれ、中華皇帝の蛮地を名乗るという選択肢もアリなのではないかとさえ思えました。人権問題は別として。
現時点でさえアメリカの属州なのですから。

weezer [TypeKey Profile Page]:

もともと内田氏のこの記事は、中国との政治的な外交手段について書かれたものであるが、コメント欄が長くなるに従って論点が逸れていき、いつの間にか相手を見下したような傲慢な意見が目につくようになってきましたね。

外交の場というのはいわば鉄火場であり、相手の手札を読んで自分のカードを切るタイミングを計ったり、相手のクセを読んで次の一手を考えたりという「やったりとったり」の場である。これは、そこで隣に座ってる中国と付き合うのがより合理的か、というテーマの短い論考であって、もちろん完全に論じきるにはほど遠いものであるが、一つのフレームを提示したことに一定の意義があると思う。これ以上のことを掘り下げて書くとなると、一日のブログで一冊の本と同程度の分量を書く事になり、読むのも大変であろう。ましてやそこに、それ以上のテーマを上からおっかぶせていい気になるのは勘違いだと私は思います。

現在、地球上で飢餓の危機にさらされている人が、約8億人。
一年間に餓死する人が、1500万人です。
殴られて死ぬのと、餓死するのと、どちらがつらいのでしょうか?
私には、答えられません。
チベットの人口が、2004年度の統計で237万人。

繰り返します。
地球上で、餓死する人が、年間1500万人で、チベットの人口が237万人です。

で、どうしましょうか?
全財産を、慈善団体に寄付しますか?

家族を捨て、海外に飛び出してボランティア活動しますか?

どうしたらいいのでしょう?
私には、答えられません。

私は、イカフライさんに、
「そんなお前は、お気楽に『居間で紅茶とケーキを用意して葉巻をくゆらしながらする政治談議や道徳のお話をしている』
と責められても、反論できません。
申し訳ない。
謝ります。

一年間に、地球上で餓死する人間が、1500万人もいるというのに、自分は、何もすることが出来ない。
本当に、申し訳ない。
で、イカフライさんは、どうするんですか?

孔子様が、従者を連れて、諸国を旅していました。
あるとき、飢えた馬が、孔子様一行の目の前で倒れました。
孔子様が従者に言いました。
「この馬に、餌を与えてください」
従者は、問いました。
「飢えた馬は、国中に何万頭といます。なぜ、この馬に餌を与えよと?」
孔子様は答えました。
「なぜ?それは、この馬が、今、私の目の前で、倒れているからだ」

イカフライさん

内田さんにいちいち各論で反論されても、わかりづらいです。

今のままでは、内田さんの言説がなければ、あなたの
存在価値は無いように感じます。

つまり、内田さんが記事を書く→イカフライさんが
反駁する、という順序では、イカフライさんは、
常に内田さんの後手にまわっているだけです。

あなたの存在は、内田さんありきではないですか。
要するに内田さんに依存(寄生)している状態です。
常に後手にまわっているが故に、内田さんがいなければ
あなたは存在することができないのです。
まるで、内田さんの掌から出られないイカのようです。

ご自分も本名でブログを書いて、トラックバックという形で
反論されるのが、正当な反論の仕方だと思います。

そうして初めて、後手ではなく同じ立場に立てると思い
ます。それができないなら、ほとんどの方は、それでは
あなたは永遠に内田さんの先手を打つことは無い、とお感じ
になるかと思います。

私は内田さんの信者ではありませんが、彼の文章の質感は
嫌いではありません。
一方で、イカフライさんの「馬鹿」とか「低能w」などの
言葉遣いには辟易します。

あなたと違って、内田さんはそのような言葉遣いを決して
しないように感じます。

tonsoku [TypeKey Profile Page]:

PIYOさん
イカフライさんは、概念を語るなとは言っていないと
思いますよ。現実を、事実を見よ、そして事実を土台に
概念を語れ、と言っているのではないでしょうか。
概念の上に現実があるのではなく、現実の上に概念が
存在するということ。現実に基づかない概念など、
砂上の楼閣に等しい。正直言って、私もPIYOさんの言葉に
優等生的な響きを感じました。

マキバコ [TypeKey Profile Page]:

>もともと内田氏のこの記事は、中国との政治的な外交手段について書かれたものであるが、コメント欄が長くなるに従って論点が逸れていき、いつの間にか相手を見下したような傲慢な意見が目につくようになってきましたね。

確かに内田さんの文章の主旨は「外交における中国との付き合い方」であって、そこから話が広がってしまいましたね。
個人的には脱線や余談は嫌いではないので、つい。

同じ文章を読んでも、各々違う考え方をして然りと思っています。
見下す意図はありませんでした。どうかお気になさらずに。

先の大戦の頃中国で活躍した、山口淑子という中国育ちの日本人女優がいました。
彼女の父親は北京で中国人に日本語を教えていて、
中国人の教え子や友人も多かったのですが、
終戦後は財産を中国政府に没収され、失意のうちに帰国しました。
想像ですが、国策や保身のため、教え子や友人達にはどうすることもできなかったのでしょう。
恩義や友情、心の交流はあったでしょうが、
日本占領下で中国人が全く濁りの無い感情で日本人と向かい合えていたかもわかりません。
淑子自身も拘束され審議されたり、いろいろあったのですが、
帰国の途上「それでも中国はわたしの故郷」と懐かしむのです。
ここに個人レベルの交流と国同士の外交との関係性を見ることができました。
生きて帰ることの出来た多くの日本人がそれぞれに複雑な思いを抱いたことと思います。

他国との付き合いには、好き嫌いや良い悪いでは割り切れないものが、個人レベルでも国レベルでもあります。
個人レベルならば好き嫌いもありですが、
外交と好き嫌いというものさしは馴染まないのでは?
というところで内田さんの文章の主旨に近づけて結びます。

Mr.変 [TypeKey Profile Page]:

イカさんが「好き」か「嫌い」かというような話はもう止めませんか?

イリオモテ高専 [TypeKey Profile Page]:

タコフライさん

先ず、内田さんの記事が存在しなければ、それに対するイカフライさんのコメントが存在しないのと同様に、先に、イカフライさんのコメントが存在しなければ、タコフライさんがお書きになられた上記のコメントもまた存在しません。
内田さんの記事がなければ、それに寄生したイカフライさんのコメントや多くの読者の皆様のコメントも、そして、それに寄生したタコフライさんや僕のコメントもまた存在し得ません。
先に旧約聖書が存在しなければ、新約聖書も、それらを参照して生み出された現代に至るまでのおよそさまざまな文化・芸術の存在もあり得ないのと同じことです。よくもわるくも。


>あなたの存在は、内田さんありきではないですか。
要するに内田さんに依存(寄生)している状態です。
常に後手にまわっているが故に、内田さんがいなければ
あなたは存在することができないのです。


おっしゃる通りかもしれませんが、だからといって存在価値がないと一蹴するのは、あまり意味があることとは思えません。

あらまあ [TypeKey Profile Page]:

きちんと読めば、わかるはずですが、「一蹴」していませんよね。
と、短くコメントしておきます。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

weezerさん、時間がないのでとりあえずささと書きますね。

>もともと内田氏のこの記事は、中国との政治的な外交手段について書かれたものであるが、

ちがいますね。
週刊現代の記事はもともと文字通り「中国が好きか嫌いか」を識者に尋ねたものです。
それに対して内田さんの記事は、
週刊現代のテーマを①全否定し←否定の根拠として→②自前の対中国外交手法を述べる
という経路をたどっている。
つまり真ん中をはさんで二つのテーマは天秤にかけられているわけです。
だから内田さんの理路に対して否定されたもとのほうから批判なり批評はできるわけです。

これは以前から何度も指摘していることですが、たいへん失礼なんがら内田さん、ある意味で精神の統合が失調しているかのごとき書き方がとても多い方なのですよ。
少なくとも文章の指し示す最初のテーマなりモチーフなりが際限なくスライスしてゆく傾向がある。
いつもそのへんが、わたしにとっては?だった。
今回のコメンターのなかにはそのことをリアルに注意している方もいらっしゃった。weezerさんはそこが読めていないのでは?

そもそも最初に内田さんは冒頭で、

>朝刊を広げたら、週刊現代の新聞広告が目に入った。
>特集は「中国、『好き』か『嫌い』か」。

と記述を導入してきている。
題名からもあきらかなように、当然論点は中国に対する好き嫌いを論じる風潮への警告ないしは批判であるとだれしもが考える。
ところが、あら不思議、ここで急に論点が手のひらを返すように翻るのである。
ハナシは、その週刊誌に内田さんご本人が書いた記事の内容へと移行する。
まさしくその内容ならば「外交のハナシ」である。
中国との付き合い方の外交戦略のハナシである。すると内田さんの脳内では、ここで最初の分裂が起こっていることになる。
外交戦略を語りたかったのなら最初の導入部なり冒頭の題名なりはいったい何なのか?
ここでこれらを分裂ととらえたくないのならばこう読むしかない。
「中国に対する好き嫌いなんか語るな」なぜならそういう感情的な井戸端会議より「外交戦略の方が大事なのだから」。
これが今回の記事の全体的な俯瞰図ですよ。
つまり内田さんは「中国との政治的な外交手段について」語っているのみではなく一枚の紙の裏表のように「中国に対する好き嫌いを語るな」とも語っている。
だから当然、中国に対する好き嫌いを庶民は自由に語るべきだ、少なくとも語りたい人には語らせろという反論は成り立つ。
違いますか?

>ある意味で精神の統合が失調しているかのごとき

拝見するとイカフライさんは、いつもこのように揶揄している
だけに見えます。

「役割理論」のように人にはいくつもの面があるはずですが、
イカフライさんは内田さんと共約可能な面を全く無くそうと
しています。

つまり、批評ではなく、批判がしたいだけなんだろうと感じ
ます。まず、内田さんに対する否定の感情があって、
コメント欄には否定的、批判的コメントしか書けないの
でしょう。

イカフライさんの本音は、「自分の嫌いな内田さんのブログで、読者または内田さんに(頭がいい)と思われたい、
言われたい。論破したい。」ということでしょう。
その気持ちというか欲望については、私はわからなくもない。
いやむしろ、わかります。

そうでなければ、書き込まずに、「ああ、内田さんはまた
馬鹿なことを言ってるなぁ」と一人で思っていればいいの
ですから。他人の間違っている箇所には墨を塗ればいいの
です。
それをあえて書き込むのは、自分の存在を誇示したいだけ
のように見えます。

イカフライさんの本音が上記のようであれば、いつも
後だしのままでは、その目的は達成されないのでは
ないでしょうか。

それを「寄生」と申し上げただけで、存在価値が無いとは
申しておりません。

何を書き込んでもいいという状態は、異質なもの同士が
ぶつかり合っている「動的平衡」を生み出します。
その「状態」こそが歓迎すべきものであって、誤解の総体から
立ち現れる何か、が真実をぼんやりと浮かび上がらせるに
すぎないのですから。

weezer [TypeKey Profile Page]:

ちがいます。


「週刊現代online」より

『日本の対中関係の議論は、しばしば媚中か、親中か、あるいは嫌中かなどの極端な意見に分けられます。しかし結局そのような意見は、建設的ではありません。これからの対中外交は、日本の国益につながる「実」を取る外交が必要なのです。』

これが雑誌のテーマです。つまり単なる「好き・嫌い」ではなく、その価値観を軸に「対中外交」を論じることの是非をテーマにしているわけです。それについて内田氏は非を唱えた上で、その論拠(あ、また怒られるかな?)として、完全とは言えないけれど違う思考による対中外交のフレームを示したわけです。

少なくともどこをどう読んでも「中国に対する好き嫌いを語るな」などとは書かれていません。私がもし教師なら良はあげられないな。

茶々 [TypeKey Profile Page]:

ここコメント欄は現在〈KEEP OUT〉です。大変危険ですので、善意のかたはご協力ください。

Mr.変 [TypeKey Profile Page]:

>>タコフライさん
それを言うなら、あなたもイカさんを墨で塗ればいいじゃないですか、となりますよね。イカだけに。
それができないなら同じ穴のなんとかでしょう。そう、きっと僕も。
それに、仮にあなたの言うように、イカさんが自己顕示欲を書き込みの主な動機にしているというのなら、そうして反応するのは思う壺だと思いませんか?

bun [TypeKey Profile Page]:

こんばんは。

この間中国人の友人に
「1億ちょいくらいどってことないから
全員うち(中国本土)に来い」
と誘われましたよ。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

weezer さん、大丈夫ですか?
春先は頭がぼーっとするようですからお気をつけてね。

>「週刊現代online」より

>『日本の対中関係の議論は、しばしば媚中か、親中か、あるいは嫌中かなどの極端な意見に分けられます。しかし結局そのような意見は、建設的ではありません。これからの対中外交は、日本の国益につながる「実」を取る外交が必要なのです。』


これが雑誌のテーマなら内田さんの言っていることとまったく同じじゃないの。w
「好き嫌い」は建設的ではない。国益につながる役をとれ。内田さんの意見とまったくぴったり重なる。

>それについて(雑誌のテーマについて)内田氏は非を唱えた上で、その論拠(あ、また怒られるかな?)として、完全とは言えないけれど違う思考による対中外交のフレームを示したわけです。

なにを頓馬なことをいってるの。
小学生だって、内田さんの意見が雑誌のテーマにそって、雑誌の意図と同じことを言っていることがわかる。

ところが内田さんの記事だけを読めば雑誌がそのような「好き嫌い」を識者に求めたように受け取れる。
これは内田さんの作為によるものだ。
こういうことを平然とするから統合がとれていないとわたしは申し上げているのですよ。

weezer [TypeKey Profile Page]:

東本願寺くん、いいちこの呑み過ぎですか?
アル中には気をつけた方が良いですよ。

>ところが内田さんの記事だけを読めば雑誌がそのような「好き嫌い」を識者に求めたように受け取れる。
これは内田さんの作為によるものだ。

本気でそう読めるなら、一度カウンセリングでも受けたらいいんじゃないの?それとも日本語が読めないのかな?

まあ、そうキナキナ思い詰めんと、お寺の本堂で座禅でも組んでごらん。すっきりするよ。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

はぁ~。
weezerさん、内田さんの記事の冒頭を読んでごらん。

>朝刊を広げたら、週刊現代の新聞広告を目に入った。
特集は「中国、『好き』か『嫌い』か」。
なんと。
外交は好き嫌いでやるものではない。
小学生ではないのだから、「好き嫌い」で外交戦略を決するような愚かしいことは止めて欲しいものである。

皆がみな週刊現代の当該記事にコンタクトできないのだから、語り手がそこに記述したテキストからのみ全体の思想を斟酌してわたしたちはコメントする。
あなたのように後だしジャンケンのような真似をするのなら、最初から、雑誌のテーマは、じつはこうだったと書けばいいことだ。
それに、あなたの後だしにようれば、雑誌の意図はなにも内田さんのいうように「好きか嫌いか」ではなくそのような感情で外交がおこなわれることの是非である。だったら内田さんの冒頭の書き方はおかしい。
このことのどこが「日本語が読めない」ことになるのか?
週間現代は感情的に好きか嫌いかで外交をやることの是非を問うているが...
とやるべきだ。

日本語が読めるとか読めないとか以前に、内田さんが自分の書いていることの全体をちゃんと把握できていないことは歴然。
カウンセリングを受けてもムダかもしれませんが。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

それにどうやら内田さんご自身、新聞を読んでいて、広告欄の大見出しから内容を想像したことが伺える。
かのような書き方をしている。
つまり weezer さんのように当該雑誌のテーマをちゃんと読んでいなかった。
大見出しからだれもが想像する「好き嫌い」で識者が何か言っていると思ったらしいと読める。

ところが、なんと、
内田さんはその雑誌にコメントを寄稿していた。ならば、雑誌の特集の意図はちゃんとわかっていたことになる。

つまり、
それなら「わたしは週刊現代からこれこれのテーマでコメントを求められ、このようなことを書いた」といえばいい。
ところがそうは書かない。

そうではなく、このブログの記事では「新聞を読んでいて...」となる。
どうみても「分裂」している。
それが作為的なものであれば、このおっさんはどうしょうもないくずだってことだし、
そうでないのなら一度カウンセリングでも受けるべきだということになる。
weezer さん、一緒に行ってはどうですか?

weezer [TypeKey Profile Page]:

はぁ〜。東本願寺くん。

>あなたの後だしにようれば
ひょっとして、「よれば」ですか?

などと東本願寺くんのイヤミの真似事は置いとくとして。

>週間(週刊?あ、またやってもうた)現代は感情的に好きか嫌いかで外交をやることの是非を問うているが...
とやるべきだ。

などという前提はあなた以外の誰もが「記述したテキストからのみ全体の思想を斟酌して」わかってることにすぎない。

そもそも、外交と「好き嫌い」を勝手に対立させてケチを付けたのは東本願寺くんだ。それに対するツッコミに、微妙に論点をずらして勝手なことをのたまう。何をどう説明しようと、これ以上は無駄のようですな。

まあ、いつもの手ですな。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

>>「週刊現代は感情的に好きか嫌いかで外交をやることの是非を問うているが...」
とやるべきだ。(イカフライ)
>などという前提はあなた以外の誰もが「記述したテキストからのみ全体の思想を斟酌して」わかってることにすぎない。( weezer )


↑それはわからないと思いますよ。
少なくとも貴殿のような空想狂でなければ。w
今一度、内田さんの記事の冒頭を読んで下さい。再録しますね。

>朝刊を広げたら、週刊現代の新聞広告が目に入った。
特集は「中国、『好き』か『嫌い』か」。
なんと。
外交は好き嫌いでやるものではない。
小学生ではないのだから、「好き嫌い」で外交戦略を決するような愚かしいことは止めて欲しいものである。

↑これは内田さんが、
中国が「好きか嫌いか」を識者に問うている週刊誌の記事を見つけたとしか読めない。
それを見て「好き嫌い」で外交をするな! と内田さんが批判しているとしか読めない。

これが「好き嫌いで外交をすることの〈是非を問うている〉記事」(事実はそうであったらしいが)なのならば、冒頭にこの引用をもってきた内田さんの手法には作為がある。
あたりまえの解釈じゃないの。
どこがおかしいの?

妄想狂のweezerさんのいうように、週刊誌が最初から「好き嫌いで外交をやることの〈是非を問うている〉のなら」それを誤魔化して、「好き嫌い」だけを冒頭にもってきた内田さんの引用のしかたがおかしいに決まっている。
(何度も言うように内田さんの精神的スタンスが微妙にズレているのを無視すればのハナシだが)
内田さんは「週刊誌は好き嫌いで外交することの〈是非を問うているが〉...わたしは○○と思う」とちゃんと書くべきだった。
なぜなら読者が冒頭の引用を錯誤するからです。
あたりまえの批判じゃないの。
そして内田さんのこのような発言が作為でないのなら、精神のどこかが微妙に失調しているとしか思えないのですよ。

たしか精神科医で元ミミュージシャンの北山修と吉本隆明の対談『こころから言葉へ』で北山修が読者にこう警告していますよね。
「あの、気をつけていただきたいのです。有名な大学の優秀な教授で、それもたいへん鋭い分析力もあり、優秀な発言をされる方でも精神が病んでいる方が多くいらっしゃるんです。ごくふつうに。精神の病というのはそういうものなんです」


前のめりのもんばん [TypeKey Profile Page]: