文科省は学習指導要領を改訂し、小学校五年六年から英語を必修化することを決めた。
愚かなことである。
日本語がこれだけできなくなっている知的状況で二カ国語を学ばせる意味がどれほどあるのか。
特にオーラル中心の語学教育の子どものメンタリティへの影響については、もうすこし真剣に考えた方がよろしいのではないか。
英語運用能力を重視する教育機関で何が起きているか、みなさんはご存じであろうか。
論理的には当たり前のことであるが、それは「英語運用能力の高さにもとづく人間的価値のランキング」である。
「英語が他の教科に比較して際だってよくできる」という条件をクリアーしてその教育機関に入学した学生は、当然ながら、「英語ができることは、きわだってすぐれた人間的能力である」というイデオロギーのかたくなな信奉者になる。
これはごく自然なことであるから非とするには当たらない。
けれども、そのような学生たちの教場でのふるまいは場合によっては、いささか常軌を逸してくる。
東京の某一流私学は「英語だけで授業をする学部」を新設した。
国際人を育てるためである。
ところがこの学部では授業がうまく成立しない。
というのはここの学生たちは「一番英語がうまい人間」を知的位階の最上位に置いてしまうことを習慣づけられているので、教壇に立っている日本人教師よりもフロアにいるネイティヴの留学生や帰国子女の方が英語が流暢な場合には、教師よりも「発音のいい人間」の意見に従う傾向があるからである。
それも無理はない。
現に私自身の教壇における知的威信の80%くらいは私の日本語話者としての語彙の豊富さと落語に学んだ滑舌のよさによって担保されているからである。
同一のコンテンツであっても、私が仮に外国人であり、学習した日本語で論じた場合には、どれほど文法的に正確な日本語で講じても、学生たちはそれほどには聞き入ってはくれぬであろう。
というわけで、そういうところを卒業した学生たちは「英語がぺらぺらしゃべれる人の告げる情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を刷り込まれて実社会に登場する。
これはもちろんゴールドマンサックスとかウォルマートとかの日本支社のマネージャーからすればたいへん雇用することの楽な労働者であるが、そうではない会社ではあまり役に立たない。
なにしろ、そういう会社では彼または彼女より英語がうまい人間があまりいないからである。
しかるに彼らは「英語がうまい人間の発信する情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を血肉化しているので、いきおい上司や先輩やクライアントよりも「自分の言うことの重要性と客観性を過大評価する」人間となる。
こういう人間は私どもの社会では総じて「バカ」というふうに呼称される傾向にあるので、彼らの企業内部的身分はあまりプロミシングなものとはならない。
けにゃらら大学の総合政策学部はたいへんに英語のよくできる学生を世に送り出したのであるが、あまりに英語運用能力がすぐれ上司に経営学の講義をしてくれたりするのでそれほど英語もできないしMBAも持っていない上司たちからは「使いにくい」ということで現在では企業サイドからは「できれば採用したくない学部」にランクされてしまった。
りにゃらら大学の総合政策学部はそのあとを追って創設されたのであるが、今年の志願者数を見るとなんと前年比39%という悲惨な数値であった。
たにゃらら大学も英語運用能力と国際性の育成を謳って創設されたが、その卒業生の事績として最初に新聞に出たのは放火犯であった(それ以後彼以外の卒業生についてメディアで報じられた例を私は知らないので、その大学は私にとっては今のところ「第一期生で放火犯を出した大学」のままである)。
わにゃらら大学では英語能力だけで人間を価値づける学生を組織的に輩出しそうな気配で、その学部で現に教鞭を執っている先生から「このままではどうなるか心配です」とうかがったことがある。
ともあれ、外国語運用能力をあまり重視することに私はひさしく外国語で飯を食ってきた人間(ほんとに食っていたのよ)の一人として懐疑的である。
外国語なんて大きくなってからで十分である。
子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。
外国語は「私がそのような考え方や感じ方があることを想像だにできなかった人」に出会うための特権的な回路である。
それは「私が今住んでいるこの社会の価値観や美意識やイデオロギーや信教」から逃れ出る数少ない道筋の一つである。
その意味で外国語をひとつ知っているということは「タイムマシン」や「宇宙船」を所有するのに匹敵する豊かさを意味する。
けれども、それはあくまで「外部」とつながるための回路であって、「内部」における威信や年収や情報や文化資本にカウントされるために学習するものではない。
外国語は「檻から出る」ための装置であって、「檻の中にとどまる」ための装置ではない。
役人たちは国民を「檻の中に閉じ込める」ことを本務としている。
その人々が外国語学習の本義を理解していると私は考えることができないのである。

コメント (29)
これホントの話なんですか?!
てことは、その学部の人たちは、意味ないこと言ってたとしても、英語の発音がうまければ発言者の言うことに賛成するってことですか?
投稿者: minardi
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2008年02月17日 13:16
日時: 2008年02月17日 13:16
小さいころから外国語をやる最大のメリットは音声が身に付くことだと思います。
別に発音がネイティブっぽくなくても恥じることはないですが、聴く方が対応していないのと口語表現の場では役に立ちません。
小さいときに覚えた外国語はそれだけでは全然使えませんが、音を認識する力だけは残っていて、それが言語学習を格段にスムーズにするというのが実感です。
小学生から外国語に接することに反対はしませんが、週に1回一時間という方法では意味がないと思います。
知的に高度な内容を学習させるのではなく、簡単な内容を毎日10分、経のように繰り返すことで音声は身に付くと思う。それに、国際的視野とやらに立つならば英語限定もおかしなはなしで、せめて中国語もやっておけばいいのにと思います。
投稿者: 晶子
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2008年02月17日 16:53
日時: 2008年02月17日 16:53
某市役所では、TOEICの点数やら、英検有資格者に、人事考課上のポイントを与えるそうです。
区役所の業務も国際的にはなっているとは思うのですが、実にばかばかしい考課ですね。そういう風に評価しろという声が強くなったということなのでしょうかね。
投稿者: paris2004
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2008年02月17日 17:23
日時: 2008年02月17日 17:23
何の目的意識も与えず、ただ漠然と外国語や音楽や数学を柔軟な頭脳につめこむように教える今の日本の義務教育の在り方には
子供のころから不快極まりなかった。
たとえば英語なら、ある種のゲームを与えてくれて、それを楽しむには英語が出来なければほんとには愉しめないとか、そういうアプローチの仕方をしてもらえず、
ただなんだか知らないが「試験」なるもののために英語や算数や音楽をやらされることの不快をいまだに記憶している。
とにかくさ、子供ころはまず「面白い」ことでなければ頭に入らないし身に付くわけが無いと思うのよね。
わたしが中学時代に、ほぼオール1という(惨憺たる)成績の結果、高校に進めなかったのは、たぶん、わたしから学ぶことの面白さ、楽しみをあらかじめ奪った文部省のせいなのだろうと思っている。
もちろんわたしの頭の悪さが八分であるとしても。
ただ、よかったこともある。
漫画や推理小説はともかくとして、できるだけ最小限しか、むつかしい本を読まなかったお陰で、自分の頭で考えることを学んだ。
これは、何よりうれしい収穫だ。
その中卒の無学な頭でいえば、企業は日本人の外国語使いを雇うより、日本語のできる外国人を雇えばいいだろう。
そうすると一方通行ではなく双通行になる。雇い主は外国人の日本語の面倒をみてやることになり、双方に人間的な関係が生まれる素地ができる。
これが「通訳」という「関係」の第一歩なのではないでしょうか。
通訳士と翻訳士を同じに考えるから間違う。
投稿者: イカフライ
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2008年02月17日 21:06
日時: 2008年02月17日 21:06
2008年1月18日付けの船井幸雄.comの記事で、こんなのがありました。抜粋です。
『2000年のG7でこんなことがあった。とき蔵相・宮沢喜一がルービンの後任ローレンス・サマーズに申し入れる。
「日本の金利を4%に引き上げたいんですが・・・」
サマーズはこれを一喝のもとに斥(しりぞ)ける。スゴスゴ引き下がる宮沢を見送り、サマーズは言う。
「オイ、見ろ。あいつはオレのいうことなら何でも聞くんだ」』
真偽のほどは分かりませんが、こういったものが、日本人の西洋人・アメリカ人への対し方の根底にあるのでしょうね。既にして負けているかんじというか。
日本語を軽んじるのも同じ現象の別な表れのような気がします。
英語に早く接っしたとしても、かつて白洲次郎が『従順ならざる唯一の日本人』と呼ばれたような、そんな気概を持つ人が多く排出されるといいんですが…。しかし、『気概』なんぞというものを教えられる親も教師もほぼ絶滅完了という状態でしょうか…?
ま、他人事にしないで、俺は、自分が気概を持った人間として生きられるように頑張るしかないですね。
投稿者: momomo
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2008年02月17日 21:11
日時: 2008年02月17日 21:11
英語を必修化したい人たちが理解していないのは,英語は極めて特殊な言語であって,そんなに血道をあげて勉強する必要はないってことです。本当はローマ帝国が続いて,近代でもラテン語が話されていたり,せめてイタリア語が共通語となってくれれば良かったのにねえ。そうすれば西洋文化の理解がより簡単だったんだけど。英語なんてそんなに大騒ぎする問題じゃあないよ。要するに「出来れば」いいんです。
日本人にとっての英語ってのは,シェイクスピア時代のラテン語と同じですよ。かの時代にはグラマースクールってえのがあって,ラテン語教育をしていたんですが,それってえのは,ラテン語の読み書きが出来ないと社会的なプロモーションができないからでね,ホラティウスやオヴィディウスを読みたいとか,トマスの神学大全を理解したいとかいう高尚な目的のものではありません。いまの英語だっておなじことで,たかが日本国内での社会的階層の上昇とか,要するに初めからどうでもいいことのため。そんなことなら,必要なだけ適当につきあって,あとは他の好き勝手なことに力をついやした方がいいだけのことです。
それともう一つは,現在までの英語教育は少なくとも大変効率的に日本人全員に英語コンプレックスを植え付けることだけは成功したんですね。けれど,冷静に考えれば分かるように,日本人全員が英語を理解する必要なんかまるでないわけで,英語を必要としない人間が,胸を張って英語なんか必要ないと言えるような教育をすべきではないですかねえ。
投稿者: 遅れてきた少年
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2008年02月17日 23:25
日時: 2008年02月17日 23:25
僕は小学生の時に日本国内のある地方から東京に転校するとき「自分はこのイナカ性によって東京で恐るべき失敗を犯し、その恥ずかしさの炎で焼け死ぬであろう」と予測していました。実際、主に方言が原因でいくつかの火傷を負い、その体験がもとで落ち込んだ孤独が非常にこたえるものだったという記憶があります。だから想像するのですが、いわゆる帰国子女たちが日本に帰ってくるとき、彼らが「日本社会で暮らす」ということに対して子供心に感じるプレッシャーというのは相当なものがあるのではないでしょうか。ただし、僕の場合とは反対に、彼らは日本で「英語ぺらぺらなんでしょ? すごいねー、いいわねー!」という賞賛を浴び続けることになる。この状況で「自分の人間としての価値は英語能力にある」とすり込まれないほど強い人間は少ないと思いますし、いつのまにか「自分の価値は英語しかない」と信じるよう追い込まれてしまう人がいても不思議ではないと僕は思います。そして実際、英語のおかげで、彼らは「わにゃらら大学」などの、日本社会で生きていくうえで多いに役立つであろう肩書きを手にすることができたわけですし。
> 彼らは「英語がうまい人間の発信する情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を血肉化しているので
そのような価値観を血肉化せざるを得なかった若者たちの精神史というものを想像してみる必要もあるのではないかと思いました。「世の中で何がいちばん人を深く損なうかというと、それは見当違いな褒め方をされることだ(@ 村上春樹)」。重い言葉ですよね。
投稿者: ブルー
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2008年02月17日 23:43
日時: 2008年02月17日 23:43
子供たちにお絵かきを教えている、keicocoです。今日の記事の中の、
『ともあれ、外国語運用能力をあまり重視することに私はひさしく外国語で飯を食ってきた人間(ほんとに食っていたのよ)の一人として懐疑的である。
外国語なんて大きくなってからで十分である。
子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。』
この箇所をコピーして私のブログ、あとりえ・チビッコに載せましたので、ご報告いたします。またお気に入りにリンクさせていただきましたので、これからもよろしくお願いいたします。
投稿者: keicoco
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2008年02月18日 11:39
日時: 2008年02月18日 11:39
僕も英語は小さい頃から苦手でした。
「語学」とは言いますが、「語学力」は「学力」ではないと思っています。ネットの氾濫で、「日本語をしゃべる」ことすらおぼつかない今日日の若者を見ていると、先生のおっしゃるとおりに、「小学生の内に学ぶべき事」をみんなで考え直してみる必要があります。日本が栄えようが落ちぶれようが、ちっぽけな僕の考えの及ぶところではありませんが、「転んだだけで骨折」とか身体能力の落ちている子供たちは、純粋に可哀想だと思います。
「ネットも英語も単なるツール」という事を常に念頭に置かないと、「英語がしゃべれてITにも強い」人間だけが出世する、世知辛い世の中になってしまいますよね(なりつつありますけど)。これらのツールは、事故中毒に陥りやすいので、「使える」人は多いけど、「使いこなせている」人は少ないですよね。って思うんですが。僭越っす\(__ )
投稿者: LINUS
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2008年02月18日 12:16
日時: 2008年02月18日 12:16
帰国子女が多く、英語で授業が開講される東京の小さな某私学に通っていた経験を持つものです。小学生に英語を必修化することが如何にバカバカしいかについてはまったく同意見でありますが、
>というのはここの学生たちは「一番英語がうまい人間」を知的位階の最上位に置いてしまうことを習慣づけられているので、教壇に立っている日本人教師よりもフロアにいるネイティヴの留学生や帰国子女の方が英語が流暢な場合には、教師よりも「発音のいい人間」の意見に従う傾向があるからである。
というくだりは、あくまで僕一個人の体験からではありますが、実態と大きくかけ離れているなあ、と思います。たまたま僕の友人には帰国子女が多いのですが、彼らと交わり、英語が準日常的な環境ですごすことによって生じてくるのは、「一番英語がうまい人間を知的位階の最上位に置いてしまうこと」と、むしろ逆の現象で、それは語学ができることと、他の学術的に有能な能力、たとえば論理的思考力などとはそんなに相関がない(強く言えば独立)という実感です。こうした英語環境にいて得られた最大の収穫は、極端に表現すれば、英語ができるということはたいしたことではない、ということを肌で感じ取れた点にあります。TOEIC900点以上とか、TOEFL満点という人たちが周囲にいましたが、知的怪物でもなんでもなくて、まったく普通の人たちです。こうした人たちが実は普通の人たちなんだ、ということを知ることができたのはとても大きな経験でした。
そういう事情から、
>というわけで、そういうところを卒業した学生たちは「英語がぺらぺらしゃべれる人の告げる情報の重要性と客観性を過大評価する傾向」を刷り込まれて実社会に登場する。
という内田先生の見解には疑問があります。再三くり返しになりますが、そういうところを卒業した一般的日本人学生はむしろ、英語がぺらぺらしゃべれるというそれだけの理由でその人を特別視したり、その人の判断に唯々諾々と従うようにはむしろなりません。
日本社会に蔓延する悪しき英語コンプレックスは幻想的なものだと思います。そして今回の内田先生のエントリの一部は、そうした英語コンプレックス、英語ルサンチマンを再生産するように思われ、長くなりましたがコメントさせていただきました。
投稿者: sheaf
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2008年02月18日 12:36
日時: 2008年02月18日 12:36
翻訳する技術というのはたしかにあって、
全く異なる価値体系を、母国語に移し帰すというのは
確かに日本語がしっかり出来なければいけません。
ただ、英語が話せるようになりたいなら相応の
努力をすべきですね。いずれも、ある程度の基礎学力
が身についてからでも、遅くはない話だと
私も思います。
投稿者: 二代目三代目
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2008年02月18日 14:23
日時: 2008年02月18日 14:23
いつも興味深く拝見させていただいております。
現在のリンガ・フランカとしての英語を習得することが必要なことは認めますが,その開始時期を前倒しすることに意味はないと思います。
また,現在の日本では英語での会話にのみ焦点が置かれていますが,コミュニケーションという点だけに限れば,英会話よりも会話以前のコミュニケーション能力の向上が必要でしょう。
また,英語を母語とする英・米でも外国語の習得が奨励されます。それは,外国語の習得が,自分の思考のメタ認知に有効だからです。
私の母語は日本語ですが,自分を表現する新しい言語を身につけることが出来て,幸運だと思います。
コミュニケーション能力としての英会話と,外国語習得を分けて考えることが必要だと思います。
投稿者: nomuyuka
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2008年02月18日 17:06
日時: 2008年02月18日 17:06
小学校で「能楽ワーク」を企画しました(講師はプロの能楽師です)。5年生の社会科の授業になりました。その後俳句ができたようです。「能を見て声としせいにおどろきが」「お能での手先の表現素晴らしい」、などなど。
投稿者: プリオン
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2008年02月18日 20:47
日時: 2008年02月18日 20:47
外国語は必要とかくだんない外国人もいるとか塾は幼児教育・大歓迎とか他の外国語もいるとか勉強は頭イタかったとか、文科省の暇人たちが書いた作文に踊るの止めません? 言いふるされてるか当たり前で、話題からズッコケたコメがひかる不思議。それとも「指導要領」をゴロゴロ変えたって子どもたちの能力は世界標準で落ちまくり、「改革を止めるな!」にGDPも落ちまくり、金利あげてデフレに棹をさし、もう上からじゃ日本(人)が見えなくなってるってのに今でも「お代官さまァ」の気分?
敗戦いらいの再建国家の牽引力が失われてるじゃないですか。時代じゃない。参院選で民主が勝って自民が妙に国民にリップ・サービスしだしたのもね(だけど地方じゃ神話がまだ残ってる)。牽引力を失うと抑止力、つか日本のエネルギーに邪魔。この典型が「指導要領」とか「当用漢字」ついでに「放送禁止用語」とか教育委員会の姿では。貧乏人よ、税金が思いっきり節約できますぜ。ムン!
投稿者: 誤読しらず
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2008年02月18日 23:42
日時: 2008年02月18日 23:42
私も「子どものときはそれよりも浴びるように本を読んで、音楽を聴いて、身体を動かして、お絵かきをして、自然の中を走り回り、家のかたづけやら皿洗いやら廊下の雑巾がけなどをすることの方がはるかにはるかにたいせつである。」という箇所がいいな!!と思いました。
なぜってこのとおりの子ども時代を過ごしましたから、でもね正義感があって勇気があってまじめでやさしくてという君子的女性に育ちましたから生きていくのが大変でした。もう中年になりかけて私が言っていることを友人が理解し始めたので少し楽になりました。後は夫の教育です。これが一番大変です。
投稿者: .おきつひめ
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2008年02月19日 00:05
日時: 2008年02月19日 00:05
かくしてわにゃらら大学のその学部では入るなりサイードを読まされる
ようになったとかいう噂を聞きましたが真偽の程はよくわかりません(笑)
が、この場も言ってみれば英語の上に日本語が張り付いているような
ものですしプログラムが英語で組まれる以上は英語は後回し、という
わけにもいかないのが実情という気もいたしますね。万人がプログラムを
書く必要があるというわけではないにせよ、今後ソフトウェア産業が
この国の原資と成り得るかどうかを握っている要素であるとも言えるわけ
ですから。英語はいらないと言ってしまうとWindowsおよびAdobeないしGoogleによる世界支配の構図を所与のものとしてしまう危険性があると
日々ひしひしと感じております(笑)
英語を学べばバカになる、という本もありましたがまあわかるに越した
ことはないです。Wikipediaだけとってみても所詮Wikiとはいえ英語、
フランス語等の学術情報の充実度が日本語のそれと比較にならないこと
はちょっと見ただけでも明らかなことですし。個人的な感想を言わせて
いただくならば、英語だけではなくその他の言語も、特に仏語を学んだ
ことはとても幸福なことだった、とは思いますが。
Ce qui n'est pas clair n'est pas francais.
というのは、嘘ではなかったか、な。
まあ、もう少しぐらいアラビア語とかも学んでみるのもいいんじゃない
でしょうか。
投稿者: mallarme
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2008年02月19日 07:08
日時: 2008年02月19日 07:08
二代目三代目さんに全面同意。海外にいるとニホンジンの日本語の下手さ加減に驚くことが多いです。母語を第二、第三言語が上回ることはないですから、英語を上達させたければ、日本語ももっと上手くならなくてはなりません。日本語上達のために英語(外国語)を習うのは小5ならいい時期です。言語というコミュニケーションツールの奥深さに開眼するはずです。外国語を習うということは、最終的にその言語を使用している人の思考回路を知ることなので、外国語の勉強を通して「世の中にこういう考え方があったんだ」と知るのは特にニホンジンには必要でしょう。日本語は言語構造がマイノリティで、その上鎖国までしていた極東島国日本なのですから、世界の視野を知るべく外国語に触れるのは、話せるようになるとかならないとかは問題ではなく、インターネット時代の21世紀には必要です。でも、政府がそういう目論みでやらない限り、効果は薄いでしょう。結局はソフトの問題で、英語というハード以前にニホンジンは語る中身を持っていないことが多い、ということに危機感をもっと持ってほしい。ある、といってもニホンジンにしかわからない価値観をそのまま英訳しているのでは、通用しません。そのためにも子供達は本を読み、野を駆けまわり、ぞうきんがけもするべきであって、そういう子供達は英語だけでなくお勉強も、生き延びる能力にも長けていくでしょう。
投稿者: sbarros
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2008年02月19日 10:21
日時: 2008年02月19日 10:21
黙って聞いておれば「日本語は言語構造がマイノリティ」だの「英語というハード以前にニホンジンは語る中身を持っていないことが多い」だの「ニホンジンにしかわからない価値観をそのまま英訳しているのでは、通用しません。」だのとわたしの祖国日本をいいように侮辱してくれている方がいますが、そういう考え方こそ洋化された家畜人の妄想であると腹にすえかねた日本人の一人としていっておきます。
まず、アメリカならアメリカって国では「外国語」を知っている人たちは人口の何パーセントを占めていますかいね。
ものの本によるとアメリカの大学生の外国語履修率は6%だとか。まあ、そんなものでしょう。
まさか、アメリカやフランスの人たちは外国語を知らなくとも国際化がはかられており、日本だけが外国語を知らなければ国際化から置去りにされるというのなら、それはかの国の奴隷根性をわたしの祖国に押し付ける奴隷思想というものでしょう。そこまで自らに奴隷根性を植えつけるというのもどんなものでしょうか。
そもそも内田さんのいう外国語がタイムマシンや宇宙船に匹敵するなんて言い方は大げさもいいところであって、わたしは中卒で外国語は何一つだめだけど翻訳ロシア小説から十分にロシア民族のおおらかな魂や精神に触れることができるし、翻訳もののフランス文学から十分にフランスの退廃文化や文学的爛熟に触れることもできる。
それに第一、翻訳や通訳だけのことなら近い将来、IT機器が解消してくれる問題だ。
それよりも日本の地霊の問題でもそうだったが、あれはあくまでも経験知が過剰に蓄えられたところで、知がこらえられなくなって飛翔をはじめたときの「イメージ」の話であってそれをまるで実際にリアルな「力」として押し出すと、それは文学的な鼎談を外れてしまう。
まるでリアルな力が地霊にあるかのように語るとすれば、人はそれを「カルト」と呼ぶわけだが、どうも内田さんの周辺にはそのようなおかしな方々が取り巻きつつあるようであまりぞっとしないですなあ。
投稿者: イカフライ
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2008年02月19日 23:50
日時: 2008年02月19日 23:50
今、中学1年から英語教育が始まるので、
それを2年ほど早めようということですね。
「英語ができるのがすごいことではない」という主題にはまったく同感なのですが、それは英語の重要性を否定する事と等価ではないし、今のように限定された学生だけじゃなくて、みんな英語もっとできるようになれば、そもそも誰も「英語できるのがすごいことだ」って思う問題なんて発生しなくなるんじゃないか?と思います。
まず、現行の中学英語教育の価値、メリット、必要性を否定できる人はあまりいないと思います。ごく普通の人でも小学校のときに習った自分のローマ字表記の書き方がどれだけ役にたつか、とか中学程度の英語で十分行けました、という最低限のツールとしての重要性はあります。
これを大きくなってから、大人になってから習得すれば良いとするのは少々楽観的で、大きくなってから必須ツールをオプションでやらせるというのは、結構なハンディというか負担になると考えます。
国際競争力ということで考えると、やっぱり日本人の外国語運用能力といっても、主に英語ですが、かなり低いわけで、ここを底上げするには、2年くらい義務教育のカリキュラムを早めるのはまあ妥当な線かなと思います。
本文にある、一部の英語エリート学生のことですが、これも、今まで平均的な学生、そして学業終って社会に出ている人たちの英語力が低すぎるので、そういういびつな状態、エリート意識が生まれやすいのであって、英語早期義務教育化によって、ああそんな程度の英語ならできる人いっぱいいるよね、となれば問題ないのではないでしょうか?
投稿者: KEN
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2008年02月20日 03:31
日時: 2008年02月20日 03:31
たとえば饂飩(うどん)とカレーライスでもいいし、南仏料理の代表であるコンフィットと和食の鯛の刺身を比べて、饂飩や鯛の刺身の料理のほうが手間ひまかけた外国料理より劣っているなどという人はまずいないだろう。
比べ物にならないのだ。
いくらフランス料理が手間ひまかけた凝ったつくりになっており、和食のメインが単に鯛をさばいてその身をそのまま適度に切り分けただけといえども、そのことで料理を比較することはできない。
なぜならそれぞれがひとつの宇宙をつくっており、その限りにおいて輪を閉じているからだ。
なんどもいうように外国料理と和食の優劣なんて論じるだけ愚かなことだ。
それと同じように日本語と外国語を比較してもはじまらない。
両者ともある環境、習俗、歴史に最適なように形つくられ引きつがれたものであり、その「宇宙」においては、それぞれ最高の言語である。
「日本語の構造はマイノリティ」などという発言は、いわば民族的な差別発言の最たるもので、わたしが外国人からそのようなことをいわれたら、その場で論争を始めるだろう。
最終的には決闘までいくことは間違いない。
しかしそのような辱めの、最低の差別発言を日本人自らがやることのこの異常さとおかしさ。
たんに国家的な意味においてだけではなく頭や心まで奴隷化された日本人が増殖している。
怒りを通り越して恥ずかしい。
ましてや内田氏の周りにそういう人たちが集まることを氏自身はどのように考えているのだろう。
イラクやベトナムやアフガニスタンや中国の人たちに、日本人は自分たちの言語すら自ら侮蔑する哀れな連中かと笑われることだろう。
自尊心と引き換えに繁栄を選んだとはいえ、わたしたちの言葉までドブに捨てて唾をはくような愚かで醜い民族も少ないでしょうねえ。
こうはなりたくないものだ。
投稿者: イカフライ
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2008年02月20日 09:47
日時: 2008年02月20日 09:47
英語力を売りにしようとして大失敗。
天下に恥をさらしたと言えば、
よこはましにゃらら大学でしょう。
国際総合科学部の2年生の半数以上が留年の危機にひんしている。
学生の英語力を就職時の売りにしたい大学が、TOEFLで500点以上取ることを3年進級の必修単位にしたが、それが大きな壁として立ちはだかってしまった。
「TOEIC600点以上」「英検準1級」でも進級を認めているが、
1期生の2年生約740人のうち、到達した学生はまだ357人。
続報によれば、
3年次へ仮進級していた国際総合科学部1期生のうち、TOEFL500点の進級条件のため58%が2年次に戻る事となった。仮進級が取り消された学生は、引き続き必修の英語授業Practical Englishを履修する他、3年次以上配当科目を履修することが出来ず、仮進級時(平成19年度前期)に習得した3年次以上配当科目の単位を取り消される。
http://ycu-press.jpn.org/modules/news/article.php?storyid=17
http://myoshida64.hp.infoseek.co.jp/ycu/ycu2004.html
http://www.geocities.jp/ycu_press/reform/kyoinsyukai.html
投稿者: haimo
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2008年02月20日 09:57
日時: 2008年02月20日 09:57
例えば2010年から国際的な政治・経済・学問などの活動はすべて日本語で行うべしという国際的決定が下されたとしたらどうなるか、ということを想像してみると、現在と比べて日本人がはるかに活躍しやすくなることは間違いないでしょうが、それでも僕はどうしても、外国人によって簡単に説得されたり、あるいは納得はしてないけど言いくるめられて沈黙してしまったりする(自分を含めた)多くの日本人の姿を思い描いてしまいます。日本語ネイティブよりもはるかに高度に論理的に日本語を操る外国人や、日本人が使わないような巧みなレトリックを行使する外国人、あるいは単に大量にしゃべりまくって相手を押し切る外国人などがたくさん現れるような気がする。偏見かもしれませんが、日本人は日本語を自己表現のために使う傾向が強く、外国人は、そもそも彼らの母語を、普段から戦略的に使う傾向が(日本人と比較して)ずっと強いという認識を僕が抱いているからです。母語でそういうことができなければ、おそらく第二言語でもできないでしょう。
戦略的に言語を使う能力(というのは必ずしもずるがしこい使い方ということではなくて、身内ではない他者との間で言語を使用する能力という意味です)の獲得を視野に入れた日本語教育はすでに多くの国語の先生たちによって行われていると思いますが、残念ながら、まだ目に見える成果が現れているとは言えないと僕は思います。小学校の授業時間が限られたものである以上、少なくとも現時点では、優先順位は(上の世代が受けたものと同じではない)母語の教育にあると僕は考えます。
投稿者: ブルー
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2008年02月20日 13:38
日時: 2008年02月20日 13:38
>>KENさん、取り急ぎごめん。いまから仕事。
>これを大きくなってから、大人になってから習得すれば良いとするのは少々楽観的で、
だけど、米兵や証券関係者たちの日本語会話は十分だし、なんといっても聞いて理解する能力に驚きます。多分だけど、日本語のマスター方法が優れていると考えられます。これも多分だけど、終戦時の日本占領経験が大きかったかなと。なにかノウハウの積み重ねがあるんじゃない?
語学研究じゃなくて会話程度の習得なら、大人になってから(それも短期間)で十分なんだと、日々ペラペラ外人から日本語で話しかけられているタクドラは目をパチパチさせて思っています。では~。
投稿者: 誤読しらず
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2008年02月20日 18:39
日時: 2008年02月20日 18:39
>「日本語の構造はマイノリティ」などという発言は、いわば民族的な差別発言の最たるもので、わたしが外国人からそのようなことをいわれたら、その場で論争を始めるだろう。
はあ、そうですか。どうして差別になるのかよく分かりませんが。
ま、しかし、
『日本語は系統において様々に議論があるものの、比較言語学的にいずれかの他言語と共通の語族に属すことは証明されておらず、孤立言語とされる。
ただし、琉球諸島の言葉を別の言語として琉球語とする考えもあり、その論をとれば日本語の同系言語が存在することになる。(略)日本語派と琉球語派に分けるのが妥当とされる。』(ウィキペディアより)
…マイノリティどころか孤立言語ですってよ、奥さん。
投稿者: mamodolian
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2008年02月21日 16:46
日時: 2008年02月21日 16:46
mamodolianさん、「孤立言語」の意味も知らないで、
《(日本語は)…マイノリティどころか孤立言語ですってよ、奥さん。》
なんてやっちゃってはまずいのではないですか?
愛と憎悪の信徒aikagamiさんのいうところの公開処刑(公開恥さらし)になりますよ。w
「孤立言語」というのはべつに言語構造に瑕疵があるとか、だれかさんのいうところの「構造上マイノリティ」?だとかいう珍説と関係する問題ではないのですよ。はい。
↓
【〈孤立した言語〉とは現存する他の言語と明確な関係性をもたない自然言語を指す。】
あなたの好きなウィキペディアにそう書いております。
単に言語分類上の一呼称にすぎないのですよ。
日本語の構造がマイノリティだのという、聞いたこともない珍論とは何の関連性もないどころか、
もし、そのような言語分類上の呼称が言語構造のマイノリティ? と関連するのなら、
あなたの好きなウィキペディアに次のような記述があるのですが、はてどうなるのでござーましょう?
奥さん。
【英語は基本的には屈折語である印欧語の中で最も孤立語的性格が強まったものとみることができる。】
さて、これで日米が仲良く手をそろえて国際的に孤立する下準備はできたということになりますねえ。
それとも、もう孤立してますかな。(爆笑)
投稿者: イカフライ
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2008年02月21日 17:41
日時: 2008年02月21日 17:41
KEN 様、いつ頃中学生でいらっしゃいましたか?
私は内田先生よりちょこっと下ですがあなた様のおっしゃる
>ごく普通の人でも小学校のときに習った自分のローマ字表記の書き方がどれだけ役にたつか、とか中学程度の英語で十分行けました、という最低限のツールとしての重要性はあります。
というのはすごくよく解ります。私は結局中学の英語でしのいでるなあという会話力です。
でも今の中学の英語にはそれは期待できないのです。今の中学校の英語の教科書を御覧になったことがありますか。授業の勧め方や宿題のワークとかを御存知ですか。読む書くということよりも会話です。息子が入学そうそう辞書を買いにいったら英語の辞書は各学校の指示に従ってくださいと売ってくれませんでした。学校の指示は「買わなくても良い」でした。生徒には教科書を小さくしたような単語帳が渡されます。かくしてアルファベットの順番もよく分からないまま中学を卒業する子が出てくるのです。
小学校で誰が英語を教えるのでしょうか?今の中学の英語のやり方を持ち込むのであれば、何年生から始めても無駄だと思います。それよりは色々な日本語をただ黙って読ませていたほうがいいと思います。主人公の気持ちだとか場の情景だとかを質問したりしないでただ黙って。
アルバニア出身の人がアルバニア語はとても難しいから英語を習ったときになんて簡単なんだろうと思ったと言っていました。ラテン語から始めるといいかもしれませんね。
投稿者: 雪国のTT
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2008年02月23日 09:18
日時: 2008年02月23日 09:18
いやはや絶対議論がかみ合わないからこれっきりにしますがね。
イカフライさんが「少数派だの多数派だのは、何の意味もない一呼称にすぎねえ。簡単な日本特殊論はヤメロ」って話だったら私は諸手を挙げて賛同するんですよ。
ただ、そーゆー論ではなくて、「日本語は構造的には少数派ではない(多数派だ?)」ってえ展開をしているから「ちょっと待てよ」と横槍を入れたわけです。
そもそも日本語は他の語族とは「構造」が違うから日本語族になっているわけで、「日本語が構造的に多数派だ」という証明が無い限り俺は自分の常識を翻すわけには行きませんやネ。
いや、母語にしている人間の数では確かに多数派ですが。
あと英語はコピペしてある部分にも「印欧語族」の仲間である。って書いてあるじゃありませんか
ま、とりあえず「中卒は知的エリート」と言う態度はやめれ。
マイノリティに差別的な意味は無いよ。
投稿者: mamodolian
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2008年02月23日 13:08
日時: 2008年02月23日 13:08
>(イカフライさんが)「日本語は構造的には少数派ではない(多数派だ?)」ってえ展開をしている。
あの~、mamodorianさん。
まことに申し訳ないのですが、
わたしは、冒頭のようなタワゴトは一語一句たりとも、どこにも書いておりません。(苦笑)
かってにわたしのコメントを捏造してもらっては困りますね。
わたしは、日本語の構造が少数派であるとか多数派であるとかを問題にしたのではなく、
各国の料理をたとえにとって以下のような意味のことを述べたのです。
各国の言語というものは、その国の歴史、習俗、環境に最適なものが、そこに住む人たちによって長い年月の積み重ねの末に生み出されたものだから、ひとつひとつが完成した〈宇宙〉をもっている。
そのようなものの優劣を比較することはできないし、比較して、どの国の言語が「構造的にマイノリティ」だの、上等だのといった馬鹿げた格付けをすることはできないと。
そうコメントしたはずです。
マイナーな言語というのは有り得ても「〈構造〉がマイノリティな言語」なんてありえない。それは民族差別につながる迷妄の一種だからやめたほうがいいといったのです。
【そもそも日本語は他の語族とは「構造」が違うから日本語族になっているわけで、「日本語が構造的に多数派だ」という証明が無い限り俺は自分の常識を翻すわけには行きませんやネ。】(mamodorianさん)
あなたは前のコメントで「日本語はマイノリティどころか孤立言語ですってよ、奥さん。」
と言い放った。
そこに含まれるニュアンスは「(日本語は)構造的にマイノリティどころか、世界中でも珍しい孤立した言語ですってよ、奥さん」だ。
そのニュアンスをあなたは今更、意味ごと変更しようとしている。
「マイノリティ」ということば自体に差別的な意味がないのはあたりまえのことです。ことばはそれがどんな当たり前のものでも文脈と結び付けられたときはじめて差別になるのでしょ?
前もってたとえば、以下のような文脈のなかにあるときにです。
「英語というハード以前にニホンジンは語る中身を持っていないことが多い」
国籍に関係なく語る中身を持たない人は持たないし、国籍に関係なく語る中身を持つ人は持っている。
そのようなばかばかしい偏見につづいて、あるいはその前に「日本語の構造はマイノリティ」などというわけのわからない差別意識が語られたから、マイノリティということばは差別になったのですよ。
ばかばかしくなってきたのでこの辺にしますが、
恥をかくだけだからもうやめたほうがいいですよamodolianさん。
愛と憎悪の信徒が来る前にトンズラこいたほうがいいと思いますよ。(笑)
投稿者: イカフライ
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2008年02月23日 15:25
日時: 2008年02月23日 15:25
某人気受験漫画風にいうと英語は中学から「よ~い、ドン!」でスタートするのが良いのだとか。
実際、受験勉強を始めるのが遅かった受験生が他の科目を捨て、英語に特化した受験勉強をして大学受験における逆転を狙うケースや、中学→高校→大学という学校化社会における正規のルートを外れてしまった人が英会話を勉強するケースは非常に多いですね。
英語はアメリカの建国理念である「自由・平等」の理念とイメージ的に分かち難く結びついており、日本社会における不自由・不平等を体感し、憎悪している人達が社会に出るための武器として好んで選択する傾向にあるのでしょうね。
努力することよりも、不自由・不平等を受け入れ安寧することを選んだ人間は英語に魅力を感じないのでしょうね。
日本社会における不自由・不平等に対する怨念から英語を勉強した人達は、日本社会における正規のルートで成功した人間から見れば、英語を話す度にどうしてもある種の「臭み」を放つことになり、文化資本としての英語の地位を貶めることになるのではないでしょうか。
竹中平蔵氏の著作に度々登場する「ソフトパワー」という概念と先生の著作に登場する文化資本の概念を比較してみると面白いものがあります。
投稿者: naritoku
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2008年02月25日 21:38
日時: 2008年02月25日 21:38