シティボーイは『LOST』的状況を生き延びられるか?

2008-01-02 mercredi

あけましておめでとうございます。
旧年中はいろいろとお世話になりました。本年もどうぞよろしくお願い致します。

年末に届いた卒論を大晦日にまとめて読む。
どれもなかなか面白い。
学生諸君のアンテナにヒットした「最近なんとなく変なもの」についての分析である。
どんな主題でもかまわない。好きなものを選んでいいよと言ってあるのだが、やはり全体的趨向性というものはあって、「家族」と「日本の若者」がこれからどうなるのか・・・というのが彼女たちの多くにとっては焦眉の論件のようである。
家族論は大学院の今期のテーマでもある。
社会を再構築するために、いろいろなアイディアは提出されてはいるけれども、やはり家族を住み心地のもう少しよい場所に再構築することがもっともコスト・パフォーマンスのよいソリューションであろうと私は思う。
「おひとりさま」論も卒論にあったが、「おひとりさま」というライフスタイルが成り立つのは養老先生風に言えば「脳化・都市化・情報化」された社会においてだけである。もちろん現代日本社会はその方向に驀進しているのだから、その趨勢に棹差す生き方としてはそれでよろしいのである。
けれども、それは生きてゆく上に必要なすべてのリソースが「すでにパッケージされ、商品化され、値札がついた」状態でしか可能ではない。
脳だけでは人間は生きてゆけない。
身体が必要である。
身体はいわば「脳から見た自然」、「なまもの」である。
同じように、「おひとりさま」というのはルールを熟知した人が都市を生きる限りはきわめて効率的でスマートな生き方だけれど、いささかでも自然的なものが介入してきたときにはきわめてリスキーで非効率な生き方になる可能性がある。
社会が完全に脳化・都市化・情報化した状態だけを選択して生きたいという人にとって「おひとりさま」はクレバーな選択である。
そして、自慢じゃないけど、私もまた「そういう人」である。
美山町のコバヤシ家に行くと、いつも私の「シティボーイ」的脆弱性は失笑の対象となる。
ワイルドライフはぜんぜんダメなのである。
「ワイルドライフはぜんぜんダメ」であるという点について、私は適切な自己評価を下している。
私は脳化・都市化・情報化した社会以外では「まるでつぶしの利かない」人間である。
できるだけ、自分の生存によって有利な環境だけを選択して生きてゆきたいとは思うけれど、人生そうそう思い通りにはゆかない。
だから、私は「保険をかける」。
つまり、「脳化・都市化・情報化」されていない環境において適切に生きる術を知っているみなさんと「コラボレーションする」のである。
『LOST』を見るとわかるけれど、無人島に漂着した場合に、私のような脆弱なシティボーイは何の役にも立たない。
そこであわてて漁撈やら狩猟やら銃器の扱いやら内燃機関の修繕の技術やらをにわか勉強しても追いつかない。
サバイバル上手のみなさんのご温情におすがりするしかない。
でも、こちらも何かのお役に立たねば相済まない。
そこで、彼らが補填できない種類の「ニッチ」を探すことになる。
まあ、私なら役どころとしては「カウンセリング」とか「物語作家」か、うまくゆけば「宗教家」あたりのニッチを狙う。
『十五少年漂流記』的状況でも人間関係に苦しむ人はちゃんといるし、ファンタジックでおおぶりの「物語」に対するニーズはなくならないし、もちろん霊的飢餓は必ず訪れる。
カウンセリングやストーリーテリングの代価としてお魚一匹とか椰子の実一個とかと交換すれば露命をつなぐことは可能であろう。
教祖になれれば、『蝿の王』的状況でも王侯暮らしだって夢ではない。
とまあ、そのような状況の到来を勘案しつつですね、都市生活者としても日々研鑽しているわけである。
しかし、無人島にみんな「私みたい」なやつばかりでは困る。
やはり漁撈やら狩猟やら内燃機関の修繕やらに特技を発揮するかたがたがおられて、そのみなさんとの信頼関係というか、共依存関係を取り結ばねば、生きてはゆけぬのである。
そして、そのようなかたがたとの信頼関係というか共依存関係というものは都市生活のさなかにおいて万一に備えてつねづね育成してゆくことが必要ではないかと私は考えているのである。
「お多人数さま」というのが私の基本的な生存戦略である。
これなら脳化・都市化・情報化社会でも生きていけるし、それが破綻してもまあなんとかやりくりできる、と。
これをして私は「保険をかける」と申し上げたのである。
家族というのは、この共生戦略のきわめてプリミティヴな訓練の場ではないかと私は考えている。
というのは、家族というのはある程度の同一性が担保されており、かつ年齢・性別・社会的立場・政治意識・価値観・美意識などにおいて構造的に異なる個体が共生することを強いられている場だからである。
共生の訓練場としてこれ以上のものはあるまい。
子どもはここで親子関係を通じてある程度コラボレーションの基礎テクを身につけ、その上でさらに同一性の低いむずかしいコラボレーションである「結婚」にグレードを上げる。
家族が現在の社会問題の焦眉の論件であるのは、そこが「脳化・都市化・情報化」されることに最後まで抵抗する「都市の中の荒野」だからである。
「荒野を生き延びるための能力を涵養する類的装置」であるところの家族が都市生活になじむはずがない。
都市生活は家族の成員が全員「すでにパッケージされて、スペックが明記されて、値札がついた状態」であることを要求する。
そのような成員の均質化がある程度以上進行すると、家族は共生の訓練の場ではなく、ヘゲモニー闘争とリソースの競争的争奪の場になるほかない。
そのような場ならないほうがよほどましである。
けれども、それを「家族なんかないほうがましだ」という結論に短絡させてはならないと私は思う。
ある歴史的条件の下では「家族なんかないほうがまし」であり、他の条件下ではそうではない。
そして、「家族があり、相互支援するほうがよい」状態というのはさきほど私が例に挙げたように「ワイルドライフ」ということであり、私たちの文明が全力を挙げてそこから遠ざかろうとしている当のものなのである。
ここがさじ加減のむずかしいところである。
何度も書いていることであるが、「ひとりでも生きられる社会」というのは人類史的に例外的に安全でフェアな社会であり、そのような社会に生きられることは幸福なことである。
けれども、それが「例外的に幸福なことである」ということを忘れない方がいいと思う。
それを忘れるとやがて私たちのうちでもっとも都市化した個体は「ひとりでも生きられる」から「ひとりでなくては生きられない」に移行するだろう(すでにその傾向は徴候化している)。すでに私たちの社会は「ひとりでなくては生きられない(他者との共生が苦痛である)」という人々を構造的に生み出し始めている。
というわけなので、私としてはもう一度「ひとりでは生きてゆけない」という(安全でフェアな社会においては無意味というよりむしろ不利な)「無能力を育てる」ことが必要ではないかと考えているのである。(注:この箇所オリジナルでは「ひとりでなくては生きていけない」とありましたが、これは誤記ですね。バンクーバーのタタラさんからご指摘をいただきましたので、あわてて訂正をしておきます。でも、こういう間違いはフロイトによると「抑圧された無意識の効果」なわけで、このあたりにウチダの本質的な「シティボーイ的脆弱性」が露出しておるとご理解いただければ、本稿はますます滋味深いものとなるでありましょう。タタラさん、どうもありがとうございました)。
「無能力を育てる」というのは奇妙な言い方だが、そういうことはたしかにある。
これについては『女は何を欲望するか』新書版の「あとがき」に詳述したので、そちらを徴されたい。
というわけで、今月末に出る文藝春秋からの新刊のタイトルはあ『ひとりでは生きられないのも芸のうち』と定まったのである(後知恵だけど)。
はい、新年早々お騒がせいたしました。今年もどうぞよろしく。
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