東京ツアー “死のロード” 第一日目は築地のスタジオで養老孟司先生と平川君とウェブラジオのための収録。
1時にスタジオにみんな集まる(養老先生は足立さんといっしょ)。
養老先生は日曜にラオス、タイの「虫取りツアー」から帰られたばかりなので、早速「虫」の話となる。
日本人は世界に冠たる虫好きらしく、『月刊虫』という虫好きのための商業誌が刊行されている。昆虫学の学会誌は世界各国に存在するが、「虫屋」(というそうである)のための商業誌が存在しているのは日本だけ。
そのことについて、養老先生はアメリカのメディアに取材をされたことがあるそうである。
どうして日本人は虫好きなんですか?
興味深い問いである。
たしかに欧米の小説に「虫屋」というのは、あまり出てこない。
私たちが思い出したのは『羊たちの沈黙』でスターリング捜査官がもちこんだ蛾の繭の種類を当てるスミソニアン博物館の館員たち(映画ではデブとやぶにらみの二人組で、あきらかに差別的な含意をこめて表象されていた)と『コレクター』の変態男だけ。
虫というのは欧米的基準ではカテゴリー的に「まとめて排除すべきもの」として政治的に処遇されており、その区区たる種別や標本の作成などに知的な人々はあまり興味を示さない。
本邦では養老先生、池田清彦さん、茂木健一郎さんら錚々たる「虫屋」のみなさんが知的イノベーションを担っている。
私の勤務する大学にも「虫屋」「魚屋」「草屋」など、自然を相手にしている方々がおられる。
この人たちはあきらかに知性のフレキシビリティと適用範囲が「人間屋」(私ら人文系の学者)よりも高いように思われる。
震災後の復旧作業のとき、私は「魚屋」である山本先生と「花屋」である中井さんという二人の先達にくっついて土木作業をしていたが、そのとき、この二人が「ノイズをシグナルに聞き取る」きわだった能力をもっていることを知った。
彼らはどこで、誰が、どのような「救難信号」を発信しているのか、わかるのである。
このような能力を彼らは人語を解さぬ魚たちや花たちとの日々の対話を通じて習得せられたのであろうと私は解釈している。
「コミュニケーション能力の開発」というとどうしても私たちは「人語を解する」エリアでの知的活動のことばかり考えてしまうが、むしろ子供たちに花をめでたり、虫をつかまえたり、魚釣りをさせている方が捷径のようである。
養老先生のお話は「なぜ日本には虫屋が多いか」から始まって、地球温暖化の話を経由して、最後は現代文学はどうしてこんなにつまらないのかというところまで疾走。
実際には2時間半しゃべったのだが、録音されたのは1時間半。
残りの1時間は録音の前にご飯を食べながらしゃべっていたのだが、この話が(そういうものだが)いちばん面白かった。
このあと養老先生は講演へ、平川君は朝日新聞の取材、私も取材とそれぞれ次の仕事が待っていたので、ではまた〜とご挨拶してタクシーに乗る。
学士会館で AERA の取材。
お題は「嫌中国気分」の分析。
そのようなものが一部メディアで横溢していることは新聞広告で知ってはいたが、「北京五輪をボイコットせよ」というようなことを言い出す人までいたとは知らなかった。
この倦厭感のよって来るところについて知るところを述べよといわれる。
正直、よくわからない。
日本人の対中国感情は対米感情の関数であり、かつ意識的罪責感と無意識的恐怖感に練り上げられているので、一因一果的な説明は容易にはできぬのである。
対中国感情が「崇敬」から「蔑視」へ、「憎悪」から「友好」へ、「優越感」から「競争心」へとめまぐるしく揺れ動き、「政冷経熱」といわれるように外交的離反と経済的親和がねじれることで安定するという不思議なありようそのものがある本態的な疾患の一症状なのであるが、この疾患の深層構造まで遡及するためには本を一冊書かねばならぬ。
AERA には「不快な隣人」との共生がいよいよ不可避になったことに対する「愚痴」のようなものでしょうという解釈を述べるが、もちろんこのようなシンプルな話型に収まる話ではない。
そのあと内閣情報調査室のお役人たちの訪問を受ける。
別に私にスパイ容疑がかかっているわけではなく、グローバリゼーションで解体しかけた日本社会の中間共同体を再構築するためにはどうすればよいのかについての意見聴取である。
どうすればよいのかと急に言われても。
とりあえず教育のことは現場に任せて、行政府は教育についての政策的関与をただちに停止するようにお願いする。
教育現場から過去10年間文科省に提出されたペーパーの総量はトン単位で数える量のはずだが、これらは実質的にはほとんど「ゴミ」である。
この「ゴミ」を生産するために投じられた人的リソースを教育と研究に向けていたら、教育問題のいくつかは存在していなかったであろうし、日本の知的国力はずいぶん増大していたであろう。
行政が何もしないですむなら何もしない方が「まし」である場合も存在する(経験的にはたいへん多い)ということをそろそろ行政府の諸君も理解されたほうがよろしいのではないかということを申し上げる。
ようやく晩飯の時間となるが、何も食べる気がしない。
学士会館横のカウンターだけの蕎麦屋で「冷やしたぬきそば」を食して、部屋に戻る。
ウイスキーのぬるい水割りをのみながら世界陸上を見る。
私の知らないうちに、女性アスリートは全員「へそだし」ファッションになっていた。
おへそを露出することで記録が向上することが経験的に知られたのであろうか。
ありうることである。
観客に注目されてプレイする場合と、まったく注目されずにプレイする場合ではパフォーマンスには有意な差が生じる。
これはサッカーや野球を見ればわかる。
陸上競技でも露出度がパフォーマンスの向上に資するということが証明された(んだと思うけど)以上、今後、アスリートたちの露出はさらに進行し、おそらく次回の世界陸上あたりで「肩ストラップなし」アスリートが出現することが高い確率で予測される。
30日。午前10時にWEDGEの取材。
若者はどうしてこんなに転職するのかというお尋ねである。
今年4月に就職したリクルートの転職サイトへの登録数は前年度の2倍だそうである。
当今の若い方々は入社してすぐに転職先探しを始める。
「キャリアパス」とか「キャリアデザイン」とかいうことを若い人に吹き込むからこんなことになるのである。
転職者が増えることでリクルートは莫大な利益を上げている。
今働いている場所の「耐えがたさ」に対するコンシャスネスが高まり、一つの職場に長期にわたって就業することに困難を覚える人間が増えれば増えるほど利益が上がる会社が就職について提供する情報をどうして学生たちは「客観的事実」だと信じることができるのか。
私にはそれがよく理解できない。
続いて、アルテス・パブリッシングの鈴木船山のお二人が登場。
『村上春樹にご用心』の装幀ができあがってくる。
とってもラブリーな表紙である。
間髪を入れずに日経BPの取材陣が登場。
経営者はどういうマインドをもって若い社員を育てたらいいのでしょうというお話。
「そんなことウチダに訊いてどうすんだよ」とみなさんは思われたであろう。
当然である。
にもかかわらず、私は2時間半もしゃべってしまった。
取材のお二人はたいへん満足してお帰りになったようであるが、よろしいのであろうか。
シャワーを浴びて着替えると、『ENGINE』のスズキさん(「あのスズキさん」といえば文壇と自動車業界では知らない人のいない「あのスズキさん」である)が迎えに来る。
学士会館ロビーに佇むスズキさんの姿はまことにシュールリアリスティックである。
タクシーをつかまえて六本木へ。
どういうわけか今夕は新潮社のお招きで六本木のフレンチレストランで美味しいワインをスズキさんのワイン解説付きでごちそうになるという企画なのである。
多幸感にふるえていると携帯電話が鳴って、アダチさんがこわばた声で「実は・・・」と切り出す。
あまりにこわばった声であったので、これはきっと訃報であろうと直観する。
アダチさんが私に伝える訃報というと・・・もしかして、それって・・・
心臓が喉から飛び出しそうになると、訃報ではなくて小林秀雄賞の選考委員会が今終わって私の『私家版ユダヤ文化論』が受賞作に決まったけれど、お受けいただけるだろうかというお訊ねであった。
おどかさないでよ。
もちろん下さるものは何でも頂きますとご返事する。
そういえば以前ある学芸賞の候補作になったときに、それを出している出版社から電話があって、「選考された場合には受賞していただけるだろうか」というお訊ねがあった(結局もらえなかったけど)。
「断る人っているんですか?」と訊いたら、実際にいるとのことであった。
サルトルがノーベル賞を断るとか、イチローが国民栄誉賞を断るというのとは違って、そういう固有名を冠した賞の場合は「あの人、好きじゃないから」というような理由で断られることもあるのだそうである。
なるほど。
私も○○賞とか、××賞とかいうのがあって(差し障りがあるので特に名を秘すが)、それに選ばれたら断るかもしれない(副賞が1000万円くらいだと「ちょっと待ってね」と逡巡するであろうが)。
小林秀雄賞は選考委員が養老孟司、加藤典洋、関川夏央、堀江敏幸。そして河合隼雄さんが亡くなったので、ことしから橋本治さん(第一回の受賞者)が加わった。
このメンバーに選んでいただいたのである。
たいへんに光栄なことである。
六本木のレストランから急遽ホテル・オークラの懇親会会場に移動。選考委員の諸先生方とご挨拶をして、ただちに記者会見場へ。
受賞作について述べよといわれるが、だいぶ前に書いた本であるし、半年以上手に取ったこともないので、何が書いてあるのかよく覚えていない。
どういう動機で書かれたものかというような質問を受けるが、思い出せない。
冷汗を三斗ほどかいて逃走。
懇親会場に戻って、関川さんと「ちょうどよかった。連絡しようと思ってたんですよ」と後期の「メディアと知」へのご出講をお願いし、ご快諾いただく。
加藤典洋さんに「選考委員相手に仕事を頼んでいる受賞者を見たのははじめてだ」と言われる。
そうかも。
橋本さんともちくまの仕事の打ち合わせ。加藤さんには早速村上春樹論の売り込み。養老先生には前日会ったばかりである。
色白の美青年堀江さんにははじめてお会いする。
東大仏文なので、加藤さんと私の後輩筋に当たる。
こちらの態度が若干「先輩風」になる。
「あ、そうか10年以上僕らより下なんだ。ふーん、修論の主査は誰だったの?」なんて、タメ口で質問する。
態度わる〜。
二次会まで行って新潮社のおごりでシャンペンをたくさん飲む。
31日はさすがに軽く二日酔い。
早起きして武蔵小金井まで行く。
観世流シテ方の津村禮次郎師のお宅の稽古舞台をお借りして、下掛宝生流ワキ方の安田登さんとの対談セッションがある。
『考える人』のための連載で、私がホストになって、伝統的な身体技法の実践者の方々にお話をうかがうという趣向のものである。
プロデューサーは足立真穂さん、エディターは橋本麻里さんという現在考えらうる最強の女性エディターコンビである。
安田さんとはお会いするのははじめてであるが、ずっと前からいつかはお会いすることになるであろうと思っていた。
安田さんは予想通りまことに面白い方で、話が面白すぎて録音した話のうちいちばん面白い部分(能楽界あっと驚く裏話および「実は別のペンネームで・・・」話)はどれも泣く泣く「カット」されねばならない。
せっかく安田さんにお会いしたので、舞台で能の所作についてワンポイント・レッスンをしていただく。
ついでに首筋の硬いところをほぐしていただく。
安田さんがさくさくとロルフィングで修正して、「はい、ではこの状態で指シ込ミ開キをしてください」となると、可動域に驚くべき変化がある。
話を伺って、舞の稽古をつけていただいて、おまけにロルフィングまでしてもらった。
話があまりに面白かったので、もうワンセッション、今度は10月に京都でやることになる。
これは楽しみである。
神楽坂の新潮社まで戻り、受賞インタビューを1時間ほど。
それから「受賞の挨拶」を原稿用紙に書いて、タクシーに乗って東京駅に向かう。
29日朝からはじまった「死のロード」がようやく終わる。
まことに長い三日間であった。
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(2007-09-01 21:46)