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めちゃモテ日本

CanCamの「ひとり勝ち」状態について、これまでメディア関係者から何度か訊かれたことがある。
「どうしてなんでしょうね」
そんなこと私に訊かれても。
しかし、ありがたいことに本学の学生諸君には多くのCanCam読者がおり、彼女たちは当該雑誌と競合誌『JJ』や『ViVi』との記号論的差異について、世界でいちばん詳しい。
その中のひとりであるM村くんが、CanCam系ファッションの究極の目的であるところの「めちゃモテ」とはどういう状態を指すのか、というたいへん大胆にしてラディカルな問題提起をゼミでしてくれた。
こういうおいしい「現場ネタ」を寝ころんだまま拾えるのが女子大教師の特権である。
同僚の教師諸君の多くは教室で「学生に知識を教える」ということをされているが、私はできるだけ「学生から知識を教わる」ようにしている。
お給料をいただいてそれでは「やらずぶったくり」というか「盗人に追い銭」ではないかというご批判もあろうと思うが、現にメディア関係者諸氏でさえその答えを出せない喫緊にして難解なる出版戦略上の問題点について、学生があちらから「先生、答えを教えてあげる」と言ってくれているのに、断る法はあるまい。
ぜひ教えてください。
M村くんによると、CanCamのひとり勝ち状態は2004年に42万部から51万部への「V字回復」をきっかけに定着し、現在CanCamの62万部に対して競合誌JJは51万部と、大きく水をあけている。
5月号の総頁数はCanCamが644頁(うち広告60%)、JJが466頁(うち広告51%)。
「5冊あれば漬物石の代わりになる」日本出版史上最重量雑誌の令名をほしいままにしている。
そのCanCamのコンセプトは「めちゃモテ」。
ただの「モテ」ではない。
「めちゃモテ」である。
「めちゃ」という副詞部分にオリジナリティはある。
JJのファッション戦略が「本命男性一人にとことん愛されること」であるのに対して、CanCamのめざすところは「万人にちょっとずつ愛されること」なのである。
だから、「めちゃモテのターゲットは必ずしも結婚対象の男性だけとは限らない。例えば女子アナがみなCanCam系『めちゃモテ』ファッションなのは子供からお年寄りまで幅広く受け入れられるからではないか」
とM村くんは書く。
なるほど。
では、CanCam読者諸姉はこの「万人から愛されること」のうちにどのような生存戦略上の利点を見出しているのか?
興味深い主題である。
現代の若者たちの一部は依然として「オレはオレ的にオレがすごく好き」という自閉傾向のうちにとどまっているが、トレンドのメインストリームはどうやら「みんなにちょっとずつ愛されたい」方向にゆっくりと舵を切っている。
これは社会的態度としてはある種の「ゆきすぎ」に対する補正が働いている徴候とみなしてよろしいであろう。
「めちゃモテ」が補正しようとしているのはおそらくあの「わたし的」路線である。
「わたし的には、これがいい」という自己決定を断固として貫くことが個人にとって最優先する、という考え方が生存戦略上かならずしも有利ではない、ということについての国民的合意が今形成されつつある。
「CanCamひとり勝ちシンドローム」はその徴候である。
社会的リソースを競争の「勝者」に優先的に分配する「グローバリゼーション・システム」においては、自己責任でシティライフを享受できるのは、「強い個人」に限られた。
「親方日の丸・護送船団方式」の廃棄、家族の解体によるセーフティネットの破綻、終身雇用制の崩壊、非正規雇用の拡大、教育崩壊、医療崩壊、年金不安、ネットカフェ難民・・・といった一連の「グローバリゼーションの暗部」は「弱い個人」たちを標的にその生存をリアルに脅かしつつある。
グローバリゼーションに国民が拍手を送ったのは「自分もいずれ勝者になれる」という(根拠のない)夢を国民の過半が自分に許したからである。
もちろん、そんな夢は実現しなかった。
この種の競争ゲームでは「勝ものは勝ち続け、負けるものは負け続ける」というポジティヴ・フィードバックがつよく働くので、短期的にひとにぎりの勝者と圧倒的多数の敗者に社会は二極化する。
結果的に「自分程度の才能では、いくらじたばたしても社会的勝者になる見通しは薄い・・・」という痛苦な事実を先行世代の「負け」ぶりから学習したより若い世代は、「強者が総取りする」競争システムよりも、「弱者であっても生きられる」共生型社会の方が自分自身の生き残りのためには有利だろうという判断を下した。
合理的なご判断であると思う。
弱者が生き残る道はあまり多くない。
論理的に導かれる回答は二つしかない。
一、「強い個人の庇護下にはいる」。
いわゆる「玉の輿狙い」戦略だが、「乗ったつもりの玉の輿」の意外な信頼性の低さに人々は気づき始めている。JJが退けられ、CanCamが選ばれたのは、「玉の輿」戦略のリスクの高さがしだいに知られてきたからであろう。
二、「周囲のみんなからちょっとずつ愛される」
結果的に選ばれたのが、このCanCam的「めちゃモテ」戦略である。
みんなに愛される、ラブリーな女の子になること。
若い人々はさしあたりもっとも有利なオプションとしてこの方向を採択した。
もちろん、いまだに「わたし的にきもちいいいから」ということだけを根拠に傍若無人、ひたすらエゴイスティックにふるまう若者たちも少なくない。
けれども、彼らはリソースの配分においても、相互支援ネットワーク構築によるリスクヘッジにおいても、すでに大きく遅れをとっているから、遠からず社会最下層に吹き寄せられることになるだろう。
就職活動の面接においては「私服で来てください」という条件を課す企業が最近は多いそうである。
そういうときに女子学生たちは迷わずCanCamで決める。
白いスカートにパステルカラーのニット、薄めの茶髪に毛先くるくるで「人事のおじさま」たちは日向のアイスクリームのように籠絡される。
こういうことについて、女子学生たちの情報伝達は光より速い。
私はCanCam型の「みんなに愛されるラブリーな女の子」志向は、そのふやけた外見とはうらはらに、実は私たちの社会がより生きることがむずかしい社会になりつつあるという痛ましい現実をシビアに映し出していると思う。
「オレはオレの好きに生きるぜ」とか「美しい国へ」とか「国家の品格」とかというようなお気楽なことが言えるのは、社会が豊かで、どう転んでも飢える心配がないときだけである。
逆に、「みんなに愛されたい」というようなプリティなことが繰り返し表明されるのは、そうでもしないと生き残れないというくらいに私たちの社会がリスキーなものになりつつあることの現れである。
そして、私はこの「めちゃモテ」戦略は実は深いところで日本人の本態的メンタリティに親和するものではないかと思っている。
例えば、「九条」である。
あれは、よく考えたら、国際関係における「めちゃモテぷっくり唇」なのである。
「私はみなさんにぜえ~ったい危害を加えることはありません。うふ♡」
というあれは意思表示になっているのではないか。
私は以前、どうして日本ではイスラム原理主義者のテロが起こらないかについて考察したときに、日本でテロをしたら「テロリスト仲間から村八分にされる」からではないかという推理を行ったことがある。
だって、日本でテロをするなんて、「赤子の手をひねる」ようなものだからだ。
私がテロリストだったら、そんなやつが手柄顔をすることは決して認めない。
日本がそのナショナル・セキュリティを維持できているのは、「とってもラブリーな」国だからである。
例えばの話、テロリストだって、たまには息抜きしたい。
そのときに家族旅行をするとして、どこに行くだろう。
水と安全がただで、道ばたに置き忘れた荷物が交番に届けられていて、ご飯が美味しくて、温泉が出て、接客サービスが世界一で、どこでも「プライスレス」の笑顔がふるまわれるところがあるとしたら、「そういう場所」は戦士たちの心身の休息のためにもできれば温存しておいたほうがいい、と考えるのではないか。
それはテロリストたちが(自分たちの闘争資金を預けてある)スイスの銀行を襲わないのと同じ理由である。
日本人は「ラブリー」であることによってリスクをヘッジしている。
おそらくこれは1500年来「中華の属国」として生きてきた日本人のDNAに含まれる種族的なマインドなのである。
アメリカにもラブリー、中国にもラブリー、韓国にもラブリー、台湾にもラブリー、ロシアにもラブリー。
みんなにちょっとずつ愛されるそんな「CanCamな日本」であることが21世紀の国際社会を最小のコスト、最低のリスクで生き抜く戦略だということを無意識のうちに日本人たちは気づき始めている。
そんな気がする。

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2007年06月27日 10:49 に投稿されたエントリーのページです。

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