予備校が毎年行っている大学入試の「現代文頻出著者」ランキングが今年も発表された(ほんとは発表されていないのだけれど、そこはそれ「蛇の道は蛇」で)。
私はこのランキングに 05 年度入試に初チャートイン(10位)、06 年度は第6位であった。
で、今年は2位。
1位は養老孟司先生。
同率2位が鷲田清一先生で、3位が茂木健一郎さん。
というわけで、1位から3位まで全員「おともだち」でした。
不思議ですね。
ちなみに4位が正高信男、見田宗介。5位が小川洋子、佐藤卓己、夏目漱石。6位が赤瀬川原平、河合隼雄、斎藤孝、堀江敏幸、三浦雅士、山崎正和。7位が青木保、阿部謹也、内山節、梅原猛、大岡信、大庭健、加藤周一、佐伯啓思、村上陽一郎、四方田犬彦(敬称略させていただきました)、と続く。
このランキングには大学の先生が多いけれど、もちろん「学者ランキング」ではない。
学者としては「中の下」である私が入試問題に選択される理由はいろいろ考えられるが、やはり一読して、「ふんふん、そういうことって、あるよな〜。いや、実はオレもそう思っていたんだよ」という共感度の高い読者を入試出題者のうちに得るということがランク入りの条件と拝察されるのである。
しかし、どの執筆者の方も十分に共感度の高い読者をお持ちのようであるにもかかわらず、なぜそこに差ができるのか?
これについては私にひとつ仮説がある。
どうも、養老先生と鷲田先生と茂木さんと私の間にはある「共通点」があるように思われるのである。
それは何でしょう?
一分間考えてください。
・・・・・・・
はい、一分経過しました。
それは「おばさん」だということである。
養老先生とはこの論件については、かなり長い時間お話ししたことがあり、「私たちはおばさんである」ということについては合意に達している(詳細は『逆立ち日本論』を徴せられよ)。
「おばさん」的知性を代表する人物として私がまず思い浮かべるのは内田百閒先生である。
先生は芸術院会員に推されたとき、「いやだ」と答え、理由を問われて「いやなものはいやだ」と言われた。
これこそ「おばさん」の骨法である。
自分自身が行っている推論の構造を本人もよくわかっていない、というのが「おばさん」的知性の特徴である。
「自分の推論形式がよくわかっていない」ということと「デタラメな推論をしている」というのは別のことである。
ある種の秩序がそこに伏流していることは本人にも確信せられているのであるが、とっさには言葉にできないのである。
それを言葉にしてわかりやすく説明するプロセスには手間ひまがかかる。
その「手間ひま」部分が「おばさん的知識人」の場合は「執筆活動」として行われる。
ふつうの知識人は「私は賢い」ということを前提とした上で、「その賢い私はこのように推論する」という記述のかたちを採用する。
それに対して、おばさん的知識人は、「私は自分がどのように賢いのか(あるいは愚鈍なのか)実はよくわかっていないので、それについて吟味するところからはじめたい」という記述のかたちを採るので、話はいきおい長くくどくぐるぐると循環するようになる。
結果的にそこに述べられた命題の当否は措いて、おばさん的なエクリチュールがたいへん「対話的」なものになることはご理解いただけるであろう。
というのは、「私はこれこれしかじかのごとく推論する・・・この推論の仕方にみなさん同意していただけますよね? よろしいですよね?」という確認をくどいほど行うからである。
なにしろ本人でさえ自分の推論形式の妥当性について確信がないのであるからして、せめて読者の同意が得られないことには話にならない。
私はこのような「読者の同意を求めるために、いったんたちどまること」を「コミュニケーション・プラットホームの構築」と呼んでいる。
ヤコブソンは「交話的コミュニケーション」といったけれど、「プラットホーム」といったほうがわかりやすいような気がする。
電車の乗り換えのときの駅の「プラットホーム」のことを想起していただければよい。
みんな、いったん「そこ」に来る。
行き先がそれぞれ違うから乗り込む車両は違う。
でも、誰でも一度は「そこ」に立つ。
「そこ」に立たないことには、そもそも話が始まらないし、たとえ乗り込む列車を間違えても、「そこ」に戻ればやり直しが利く。
そういうプラットホームがコミュニケーションにおいては、必要である。
文章について言うと、「この文に関してだけは、書き手と読み手のあいだに100%の理解が成立している文」のことである。
例えば、かつて松鶴家千とせはこう歌ったことがある。
「オレがむかし夕焼けだったころ、弟は小焼けで、父ちゃんは胸やけで、母ちゃんはしもやけだった。わかるかな〜。わかんね〜だろうな〜」
前半の「オレが」から「しもやけ」までの部分と、「わかるかな〜。わかんね〜だろうな〜」という部分ではコミュニケーションのレベルが変化していることに気づかれたであろうか。
「オレがむかし」以下は聴き手に特段の「理解」を求めていない。というか「すぐには理解できないこと」であることが肝要なのである。
それに対して、「わかるかな〜」以下は聴き手の100%の即座の理解を求めている。
「私の話、わかりますか?」という問いかけは「私の話」には含まれていない。
この問いかけの意味するところが理解できない聴き手は存在することがそもそも想定されていない。
「その意味するところが理解できない聴き手は存在することがそもそも想定されていない(し、現実に存在しない)」ような文のことを「プラットホーム」と呼ぶ。
これをどれほど適切に自分の書く文章のうちに配置できるかで、文章の「読みやすさ」は決定される。
「読みやすさ」というと語弊があるので言い直すと、どれほど「深い」レベルにまで読者を誘うことができるかが決定される。
養老先生も鷲田先生も茂木さんも、決してやさしいことを述べる人ではない。
けれども、この方たちの本はなんとなく「わかりやすい」ような印象を与える。
「ふんふん」と頷きながら最後まで読んでしまって、ぱたりと本を閉じて、中身を「ぜんぜん理解できてない」ことに気づいて愕然とする・・・ということもある。
それはコミュニケーション・プラットホームの構築のされ方が巧みだからである。
例えば養老先生の文章を一つ。
「人々のあいだに共通するものはなにか。それは心だということは、戦中を考えたら、いやでもわかることである。さもなければ特攻隊が許容されるはずがない。まさに一億玉砕なのである。でもあいつが死んでも、私は死なない。身体は別なのである。では心の共通性を保証する身体の基盤とはなにか。脳というしかないであろう。デカルトは西洋人だから、脳によって個を立てようとしたのだが、私は日本人だから、脳で世間を立てようとしたのである。
こうやって書いていても、自分の考えを表現することがいかにむずかしいか、よくわかる。人は一直線に考えるのではない。一直線に考えたように表現するのである。さもなければ、話が面倒になって、相手に伝わらない。」(鎌倉傘張り日記)
たいへんわかりにくいことが書いてあるが、それでも「この話を最後まで読みたい」という欲望は減殺されない。むしろ亢進する。
それは「こうやって書いていても、自分の考えを表現することがいかにむずかしいか、よくわかる」と養老先生ご自身が保証してくれているからである。
「これはわかりにくい話です」と書いた当人が言っている言葉を現に理解できている以上、この「わかりにくい話」も決して理解の埒外ということではないということについて、読者は今しばらく確信を維持することができる。
養老先生があれほどむずかしい話ばかり書きながら、それがすべてベストセラーになりうるのは、この「コミュニケーション・プラットホーム」を差し出す手際がみごとだからである。
それが「リーダーズ・フレンドリー」ということでもある。
話がだいぶ横道にそれてしまったが(この「閑話休題」というフレーズももちろん典型的な「プラットホーム」である)、出題頻度ランキングを私は「コミュニケーション・プラットホーム」の出現頻度ランキングとしておそらくは読み換えが可能であろうということを申し上げたかったのである。
というのは、入試出題者が問題文を選ぶときの条件は「私はこの文章の意味を段階的に理解できた」という実感だからである。
一読してすらすら意味がわかってしまう文章は問題文に向かない。再読三読してもさっぱり意味がわからない文章も向かない。
一読するとよくわからないが、再読するとさきほどよりは理解が進み、三回読むと「おお、なるほど」と膝を打つ、というあたりがよい湯加減である。
そのためには受験生が「これだけは理解できた」と確信がもてる「プラットホーム」が(岩場に打ち込まれたハーケンのように)読解の手がかりとして、適所に配置されていることが必要である。
そういう文章を書く人が「意外に少ない」ということをこのランキングを一瞥して私は知ったのである。
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(2007-05-08 09:50)