街場の中国論

2007-03-07 mercredi

養老孟司先生との対談本『逆立ち日本論』(仮題)のデータ処理がとりあえず終わり、締め切り3週間遅れで新潮社の足立さんに送信。
一回読んだだけなので、推敲が足りないが、これ以上引き延ばせない。
ただちにこれもベタ遅れの『街場の中国論』の推敲にかかる。
最初の方は去年の夏にブザンソンで書いた。
ブザンソンのホテルに朝から晩まで文字通り二週間「カンヅメ」になって書いていた。
手元に資料が何もないし、ネットも繋いでいなかったので、中国関係の年号や人名の調べものはすべてPCにインストールしたエンカルタ百科事典から。
しかし百科事典というのは便利なものである。
第一に、いろいろなことが書いてある。
「誰でもクリックひとつで知れる情報」が世の中にこれほど多いのか・・・と思わず感嘆するほどである。
それであるにもかかわらず、この「クリックひとつ」を怠る人のなんと多いことであろう。
私はときどき内部記憶装置にほとんどデータをためない人間であり、物忘れの激しいショートメモリー人間である。
だが、私は「辞書、事典を引くこと、引用句のオリジナル出典に当たること」を億劫がらない。
これだけが私にかろうじて残っている「学者らしさ」とも言える。
ブザンソンで中国論を書いているときは、時間だけはたっぷりあるので、百科事典で関連項目を読みふけった。
というわけで、『街場の中国論』は「エンカルタ百科事典だけで書ける中国論」とも言える。
というと、ほとんどの人は勘違いするだろうけれど、それは「誰でも事典で調べればわかること」を書いて本にしたという意味ではない。
そんなものは誰も読まないからね。
「エンカルタ百科事典だけで書ける中国論」というのは、百科事典を引くと、「そこに書いていないこと」がわかるからそう申し上げたのである。
私がたえず百科事典を引くのは、「ふつうの人は知らないこと/ふつうの人は考えないこと」だけを選択的に書くためなのである。
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