性善説はコストがかかりません

2026-10-21 mercredi

 学校教育はいかにあるべきかについて、長い間書いてきました。大学の教員を30年勤めてきましたから、ずいぶんたくさんの学校、たくさんの教員たちを見てきました。「素晴らしい学校だな」と思ったところもあるし、「なんだよ、これは」と呆れた学校もありました。いろいろです。
でも、際立った個性のある学校というのはだいたい中高部でした(大学で個性的というところには残念ながらお目にかかったことがありません)。中高では個性的な教育をしている学校がいくつもあります。「個性的」というのは「自由」ということです。どこもその点は同じです。異常に管理が厳しい点で「個性的」という学校もきっとあるのでしょうけれど、さいわい、そういう学校は僕のような人間を講演に呼んだりしません。
 生徒たちが自由に、のびのびと、楽しそうに学校生活を送っているのを見ると、ほんとうにほっとします。生徒たちは先生たちと気楽に話し合い、だいたい一緒に「ものづくり」をしています。文化祭の飾りつけとか、大工仕事とか、畑仕事とか。教室でもみんな「はい」「はい」と手を挙げて発言機会を求める。自由な学校はだいたいそういう感じです。
 どうして自由な学校が成り立つのか。理由はいろいろありそうですけれども、一番基礎にあるのが「性善説」だということではないかと僕は思います。原則として、子どもたちを「その性、善なるもの」と見立てて、その基礎の上に制度が設計されている。
 管理が厳しい学校というのは、言い換えると「性悪説」に基づいて設計されているということです。子どもたちは本性的に「邪悪」である。だから、きびしく枠をはめてその本性的な邪悪さが発動しないように心理的な機制を強制的に刷り込まないと、まともな社会人として生きられない。こういう人間観です。そういう考え方にも一理はあると思います。世の中にはたしかに「ほんとうに邪悪な人間」がいますから。でも、その実数は僕の経験からすると、全体の7%くらいです(あくまで経験値ですから、まったく科学的なエビデンスはありません。でも、だいたい15人に一人くらいの見当だと思ってください)。
 ただし、この人たちの邪悪さは必ずしもつねに表出するわけではありません。世の人々が総じて常識的であったり、遵法的であったり、「人が見てなくても、お天道さまが見てるからね」というような市民的倫理を内面化していたりする社会では、そういう「邪悪な人」の邪悪さは物質化するチャンスが少ない。だから、周りの人も、場合によっては本人さえその人が「邪悪」だということを知らないということが起こ得ります。
 邪悪な人の邪悪さが露出するのは、法律がゆるい社会ではありません。これは勘違いしないでくださいね。邪悪な人の邪悪さが露出するのは、法律の厳しさ緩さとは関係がありません。
 法律が緩くて、それこそ「法三章」というような法的に穴だらけの雑な社会でも、多くの人々が穏やかに心静かに暮らしているということはあり得ます。逆に司法部門に莫大な人員と予算が投じられ、違法行為が峻厳に処罰される社会であるにもかかわらず、権力者たちの犯罪が野放しになっているという社会もあります(歴史上山のようにありました)。
 こんなことを言う人はあまりいませんが、邪悪な人間の邪悪さが露出し易いのは性悪説で制度設計されている社会においてです。
 性悪説に基づく社会では「すべての人間は自己利益を最大化するために、機会さえあれば、公共財を盗み、公権力を私物化し、他人の財物を盗み、他人を手段として利用しようとしている」ということが前提になっています。朝から晩まで「あなたは潜在的な犯罪者である。処罰が怖くて、罪を犯していないだけなのだ」と耳元でささやかれていたら、どうなると思います? そうかな~と思うようになりますよね。そして、ある日ふと周りを見回すと、今なら自分が悪いことをしても、それを目撃する人間も咎める人間もいないという状況であるとしたら、どうなるでしょう。たぶんそうなったら「悪いことをしなきゃ損だ」と思うようになるでしょう。「人間の本性は悪だ」とずっと教え込まれてきたわけですからね。期待に添わなければ。
 性悪説が邪悪さを生み出すとまでは言わなくても、邪悪さの顕在化を助長すること、これは確かです。僕はそれを長い人生でいくたびも見てきました。「今なら処罰されるリスクがない」とわかった瞬間に、邪悪な人はいきなり形相を変えて、その邪悪な本性を露呈します。それまではなかなか人の本性というのはわからないんです。
 戦争のときは、ふだんは穏やかなおじさんや気弱な青年が、人間が変ったように、人を殺し、略奪し、強姦し...ということをしました(これは実際に見たわけではありません。本で読んだり、映画で観たりした話です)。どんな悪いことをしても処罰されるリスクがないという条件が提示されると、人間が変ってしまうという人がたしかにいる。その比率が7%くらい。残り93%のうち7%は「どんなことがあっても悪いことをしない人」です。そして、残る86%は「どうしていいかよくわからないので、とりあえずマジョリティにくっついてゆく人たち」です。ですから、邪悪な7%がいくら悪いことをしても処罰されないという状況では、この86%はその真似をします。僕が戦争というのは怖いものだと思うのは、そのせいです。
 話がずいぶん飛んでしまいましたけれど、僕が「いいな」と思った学校はどこも性善説で運営されているところでした。性善説で制度設計されている学校では、日常のあらゆる活動がすべて「あなたは善良な人である。あなたは誰も見ていなくても、何をしても処罰のリスクがないときでも、決して悪いことはしない。そういう人であってくださいね」と懇請している。制度が人間に向かって懇請するということはあるんです。そして、その力は決して侮れない。
性善説で運営されている学校はだからとても自由だし、風通しがいいです。何より生徒たちの自己肯定感がおのずと高くなる。だって、「あなたはいい人ですよね」と四六時中耳元でささやかれているんですから。
 もちろん性善説で運営されている学校にも悪い人はいます。そして、みんなが性善説で行動しているときに、一人だけ悪いことをする人がいたとすると、その人は大きな利益を得ることができます。「なんだよ、盗み放題じゃん」ということですからね。
 でも、これはとても危険なことなんです。だって、性善説の社会では、「悪いことをする人の数はできるだけ少ない方が利益が大きい」からです。自分以外全員が「性善説のうすのろ」で自分だけが「邪悪でスマートな人間」である時に彼の利益は最大化する。となると、この人は「自分のような人間がこの世に二人といませんように」と日々祈願するようになる。「自分のような人間がこの世界に存在しませんよう」にという祈りは呪いとして機能します。呪いの力も侮ってはなりません。その呪いはその人の生命をゆっくりと削り取ってゆきます。
 性善説のシステムって、そうやって見ると、なかなか悪くないと思いませんか。
(「蛍雪時代」4月号)