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      <title>内田樹の研究室</title>
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      <description>みんなまとめて、面倒みよう – Je m&apos;occupe de tout en bloc</description>
      <language>ja</language>
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         <title>卒業生へのことば</title>
         <description><![CDATA[<p>卒業式、謝恩会が終わる。<br />
これでこの大学の卒業イベントにかかわるのも、あと残すところ一回だけである。<br />
そう思うと、20回も出ている「いつもながらのイベント」も何かしら「かけがえのないもの」に思えてくる。<br />
その意味では、一生に一度だけしかこれを経験しない卒業生たちの感懐に近いものがある。<br />
謝恩会の「締めの挨拶」を学生から頼まれたので、ひとことご挨拶をする。<br />
「教育のアウトカムは卒業時点で考量されるものではなく、卒業生ひとりひとりが卒業後に過ごす時間のなかで形成してゆくものである」と申し上げる。<br />
自分がそこで何を学んだかは、卒業してから長い時間が経たないとわからない。<br />
ひとによっては数十年経ってはじめて受けた教育の意味がわかるということが起きる。<br />
それは、卒業時点で眼に見える知識や技術や資格や免状を持つことよりも、ずっと教育的には意義のあることだと思う。<br />
私はそれを「卒後教育」と呼んでいる。<br />
「卒後教育」の主体は卒業生たち自身である。<br />
ラカンの「分析主体」analysant をまねて言えば「教育主体」éduquant は卒業したひとりひとりである。<br />
私たち教師はその活動については、間接的な支援をすることしかできない。<br />
私たちにできるわずかな支援のひとつは「母港」としてそこに「ある」ということである。<br />
学校はあまり変化しない方がよい。<br />
これは30年余教師をしてきた私の経験的実感である。<br />
学校というのはそれがある場所も、建物も、教育プログラムも、校歌も、制服も、どうでもいいような校則も、できるだけ変えないほうがいい。<br />
「学校制度には惰性がある」ということを私に教えてくれたのは諏訪哲二先生であるが、それは単に事実としてそうであるということにとどまらず、そうあることによって機能している部分があるということである。そのことに、諏訪先生からその言葉を聴いたときには気づかなかった。<br />
今は少しわかる。<br />
それは「変わらない学校」が定点としてあることによって、卒業生たちは、自分が「そこ」からどれくらい離れたところまで来たのか、「そこ」にどれくらい深く繋がっているのかを計測することができるからである。<br />
「教育のアウトカムを考量する」と上に書いたけれど、それができるためには、「定点」が計測の基点として存在しなければならない。<br />
自分の場所を知るためには、定点が存在しなければならない。<br />
学校の、あるいは教師の重要な社会的機能は「定点」として、卒業生たちのために、「そこにいる」ことである。<br />
先週、ある雑誌のインタビュー写真のために図書館本館に入ったとき、三階のギャラリーにゼミの卒業生がいた。<br />
どうして大学に来たのか訊いたら、仕事のことで迷っていたのだが、ふと岡田山の自分の大好きなあの場所に来れば、何か自分にとって正しい判断が何かわかるような気がして、図書館本館のギャラリーまで来たのだと教えてくれた。<br />
そこに戻ると、自分にとって何が正しいのかがわかる場所。自分はこれからどういうふうに生きようとしていたのかがはっきり思い出せる場所。そのような場所であることが学校の責務だと私は思っている。<br />
そのような場所をもてたことが卒業生諸君にとっては大学に通ったことのおそらく最大の成果である。<br />
ご卒業おめでとう。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/20_0748.php</link>
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         <pubDate>Sat, 20 Mar 2010 07:48:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>不安というセンサー</title>
         <description><![CDATA[<p>ひさしぶりのオフ。<br />
何日ぶりだろう・・・カレンダーを見たら、１月２７日以来のオフでした。<br />
極楽スキーとか温泉麻雀とか杖道会合宿とか、そういう「楽しい」系のイベントはオフに数えないのか、というトガリ眼のご指摘もあろうかと思うが、「オフ」というのは「予定がない」という状態のことであって、イベントのときの私はとっても忙しいのである。<br />
だから、オフの日にしか「これまでやる時間がなくて積み残してきた仕事」を処理することがかなわない。<br />
そして、そのような仕事の量はすでに1日や2日のオフでどうこうなるような限界をはるかに超えているのである。<br />
１０週間ほど「オフ」の日をいただければ、おそらく「不良在庫化」しているバックオーダーもことごとく処理され、担当編集者の顔に笑顔が戻ることになるとは思うが、１０週間のオフを私が享受できるのは、おそらく臨終の床について後のことであろう。<br />
私のカレンダーの「To do リスト」には現在１１項目が記載されている（今日の午前中に１コ消した）。<br />
このうちの５項目を今日のうちに消去したいと思う。<br />
その前にまず掃除とアイロンかけしなきゃ。<br />
BGMはツイッターでお知らせしたとおり、Randy Vanwarmer の軽快なI’m in a hurry である。<br />
I’m in a hurry to get things done. <br />
I rush and rush until life’s no fun<br />
And I really got to do is live and die<br />
But I’m in a hurry and don’t know why<br />
「ああ忙しい　やることたくさん<br />
ぼくはひたすら急いでいるばかり<br />
どうせ生まれて死ぬだけなのに<br />
どうしてこんなに忙しい」<br />
ランディくんも私と同じような感懐を抱いた日々があったのであろう(Just when I need you mostがチャートインした頃に)。<br />
気持ちはわかるぞ、ランディ。</p>

<p>ツイッターを見ると、平川くんの父上と江さんが立て続けに体調不良の報。<br />
お父上は集中治療室から出て退院できるそうである。江さんの全身じんましんは原因不明。<br />
リアルタイムで、友人知人の発信する「アラーム」が共有されるのが、もしかすると、このメディアのいちばんすぐれている点かも知れない。</p>

<p>昨日、そういえば『婦人公論』の取材があった。<br />
お題は「不安」。<br />
政治経済の先行きの不安とか、老後の蓄えについての不安とか、結婚生活についての不安とか、子育ての不安とか、そういう不安に囲まれている現代女性はいったいどうしたらいいんでしょうというご下問である。<br />
いつものように「不安をいたずらに持ってはならない」ということをお話する。<br />
不安とか恐怖とか痛みというものは「危機」についてのセンサーである。<br />
「漠然とした不安」というのは「このままの道を進むとたいへん危険なことに遭遇する可能性が高い」という予測シグナルである。<br />
不安を感じたら、立ち止まり、様子を見て、場合によったら針路を変えるというのが生物としての本筋の行動である。<br />
不安を感じないような生物は、無防備に危機の中に突っ込んでしまう。<br />
運が悪ければ死ぬ。<br />
だから不安を感じることは生き延びる上できわめて重要な能力なのである。<br />
けれども、センサーである以上、それはつねに敏感な状態にキープしておかなければならない。<br />
だが、「３６５日２４時間不安である」ような個体において、不安はセンサーとして機能しない。<br />
致死的な危機が接近していても、「いつも不安」である生物はそれを異常事態として分節することができない。<br />
だから、不安というのは、恐怖や嫌悪や痛みと同じように、ふだんは「ニュートラル」にキープしておく必要がある。<br />
私が悲観論者や不安症の人を信用しないのは、彼らが「ほんとうに悲観しなければならない状況」や「ほんとうに不安になるべき場面」に機敏な反応をしないからである。<br />
私はルーティンの厳守とHappy go lucky をつねづね心がけているが、それは危機対応仕様なのである。<br />
「同じルーティンの繰り返し」をしていると、わずかな兆候の変化から、異常事態に気づくことができる。<br />
昭和30年代まで多くのサラリーマンたちは、毎日同じ時間の同じ電車の同じ車両に乗って出勤した。<br />
それはパンクチュアリティということ以上に、「危機」についてのセンサーを高感度に維持する必要を彼らの戦闘経験や空襲経験が要請していたからだと今になると思う。<br />
サラリーマンが通勤電車への固執から解放されたのは、1960年代半ば以後である。戦争が終わって20年経ってからである。<br />
今でも、暗殺の危機にある独裁者は出勤退勤のコースを変えない（複数のコースをランダムに変えるだけである）。<br />
それは毎日同じコースをたどっていると「昨日はなかったもの」の存在と「昨日はあったもの」の不在が際立つからである。<br />
危機はつねにそのどちらかの様態を取る。<br />
そのことを高感度のセンサーを必要とするものは知っている。<br />
イマヌエル・カントは異常にパンクチュアルな散歩者であり、ケーニヒスベルクの人々は彼の通るのを見て、家の時計の狂いを直したと伝説は伝えている。<br />
けれども、これは哲学者としてはある意味当然のことだと私は思う。<br />
毎日判で押したように同じ生活をしている人間の脳内では、暗殺者をスキャンするSPの場合と同じように「昨日はなかったものがある」ことと「昨日はあったものがない」ことが際立つからである。<br />
哲学者の哲学者性とは、畢竟するところ、自己の脳内における無数の考想の消滅と生成を精密にモニターする能力に帰すのである（そういうことを言う人はあまりいないが、実はそうなのである）。<br />
だから、「ルーティンを守る」というのは命を守る上でも、イノベーションを果たすためにも、実はとってもたいせつなことなのである。<br />
ルーティンの最たるものは「儀礼」である。<br />
つねづね申し上げているように、だから家庭は儀礼を基礎に構築されるべきなのである。<br />
家庭を愛情や共感の上に築こうと願ってはならない。<br />
愛情や共感は「儀礼」についている「グリコのおまけ」のようなものである。<br />
あればうれしいが、なくてもどうってことないのである。<br />
Happy go lucky がなぜ危機対応であるかについてもお話したのであるが、そろそろアイロン掛けを始めないといけないので、続きはまた今度ね。</p>

<p><br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/17_1301.php</link>
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         <pubDate>Wed, 17 Mar 2010 13:01:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>井上雄彦最後のマンガ展</title>
         <description><![CDATA[<p>天保山のサントリーミュージアムに井上雄彦「最後のマンガ展・重版・大阪編」を見に行く。<br />
三回目。今日が最終日。<br />
上野、熊本、天保山と回って、次の仙台で終わり。<br />
家から車で天保山までは２０分。海岸線に沿って阪神高速を走るとすぐ。大学より近い。<br />
でも駐車場はいっぱい（当然ですね）。はるか突堤の先の方のパーキングスペースにかろうじて停める。駐車している車のナンバーを見ると名古屋や岐阜や岡山からも来ている。<br />
絵を見る環境を整えるために、1日あたりの入館者を２６００人に制限しているので、１４時に着いたときはもう本日のチケットはソールドアウト（当然ですね）。<br />
小学館の川口さん（『街場のマンガ論』の担当編集者で、高校の先輩クスミさんの姪御さん。もちろんヘビー・リーダーである）と講談社の加藤さんがごいっしょ。<br />
チケットは手配済みだったので、無事入館して、展示を拝見。<br />
それから別室にて井上雄彦さんとお会いする。<br />
『現代霊性論』の装幀をお願いしたお礼のためである。<br />
日本でいちばん忙しいマンガ家に貴重な時間を割いて頂いた作品である。<br />
画法についてお訊ねしてみる。<br />
あれは和紙に墨を塗って、濃淡をつけて、胡粉で「にょろにょろ」を描いたのだそうである。<br />
井上さんもマンガではまだこの手法を使ったことがない。<br />
「はじめての試みだったので、やれて楽しかったです」と言ってくださった（気配りの行き届いた井上さんである）。<br />
温顔に接して、すっかり楽しくなって、この展覧会の企図の話、『バガボンド』の話、『スラムダンク』とその社会的影響について、ちょっとつんのめり気味にいろいろお訊ねする。<br />
この展覧会については当然海外からオッファーが来てますよねとお訊ねすると、「いろいろ来てます」というお答え。<br />
やるならパリのポンピドゥーセンターかニューヨークの近代美術館でしょうねと私が言うと、井上さんも深く頷いて、「ぼくもやるならその二つかなと思ってます」。<br />
というふうに気の合う二人なのである（ニューヨークの近代美術館なんか私は映画でしか見たことないんだけど）。<br />
展覧会の構成とそのもろもろの効果についてもお訊ねする。<br />
暗い部屋（例えば「父」の部屋）では微妙に室温が下がり、明るい部屋（「母」の部屋や「小次郎」の部屋）では室温が上がる。これは偶然空調の関係でそうなったらしい。ライティングのせいもあるけれど、結果的に視覚だけでなく、皮膚感覚も動員して「マンガを読む」ということになった。<br />
最後の「砂」もそうで。これも「踏む触覚」と、じゃりじゃりという人が砂を「踏むのを聴く聴覚」が動員される。<br />
あの砂は「いい音」を出すために、珊瑚の砂を敷き詰めたのだそうである。<br />
ほとんどすべてのアイディア（木刀とか棘とか壁にじか書きにょろにょろとか）は井上さん自身の発案（「砂」は別の人の案で、はじめは「どうかな～」と思っていたけど、やってみたらけっこうよかったとのこと）。<br />
「空間の中を歩きながら、五感を動員して、マンガを読む」というアイディアは私の知る限り、井上雄彦以外に思いついた人はいなかったと思う。<br />
これまでもマンガをアニメ化したり、ノベライズしたり、実写版の映画にしたり、原画を絵画的に展示したり画集にしたりということは多くのマンガ家がやっているけれど、「ジオラマ」で読むというのは井上さんが世界最初だと思う。<br />
井上さんはあくまで「マンガを読む」という行為にこだわっている。<br />
マンガはふつうは書籍のかたちになっているけれど、どんなかたちであってもマンガはマンガであり、マンガ・リテラシーのある読者は「あ、これマンガだ」ということがわかり、ただちに読み始めることができる。<br />
校舎の黒板にチョークで描いても、都市の壁にペンキで描いても、道路に蝋石で描いても、そこに「マンガを描く」という意志があり、読み手にマンガ・リテラシーがあれば、「マンガを読む」という行為は成立する。<br />
今回の展覧会では壁に描かれた３センチほどの「にょろにょろ」から、現代美術館エントランスに置かれた7メートルの武蔵まで、素材も画法もサイズも違うけれど、すべては一篇の「マンガ」に収まる。<br />
もちろんマンガが原理的にそういうふうに自由闊達なジャンルであるということは技法に意識的なマンガ家たちにはわかっていただろうけれど、それを実際に殺人的なスケジュールの中で「やろう」と思って、「やってしまった」マンガ家は井上雄彦の前にはいなかった（そして、たぶん当分後続する人も出てこないだろう）。<br />
「最後のマンガ展」というネーミングにはその自負がすこしだけ透けて見えるような気がする。<br />
どちらにしても、井上さんのこの仕事によって、マンガというジャンルの奥行きと可能性についての私たちの理解は格段に深まった。<br />
井上雄彦はこのプロジェクトによって、マンガ史（日本の、にとどまらず、世界のマンガ史）に巨大な足跡を残したと私は思う。<br />
そのことは私がこんなところで言葉を連ねるより、展覧会に来た若者たちの食い入るようなまなざしと、深いため息から実感されるのである。<br />
いま、このような真率なレスペクトを若者たちから向けられる大人がどれだけ存在するであろう。<br />
同時代に井上雄彦のようなクリエイターを得たことを私は幸運だと思う。<br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/15_0943.php</link>
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         <pubDate>Mon, 15 Mar 2010 09:43:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>雪山から中之島へ</title>
         <description><![CDATA[<p>ずいぶん長いことブログを更新していなかった。<br />
もちろんめちゃめちゃ忙しかったからである。<br />
3月5日会議が６つ。そのあと神戸シェラトンで温情会。<br />
６日朝、三宅接骨院、１１時から１５時まで、岡田山ロッジにて合気道稽古。そのあと下川先生のところでお稽古。帰宅してカレー作成。<br />
7日、下川正謡会新年会。早朝、近くのコンビニから荷物発送。10時から19時まで。舞囃子『野守』、素謡『大原御幸』、地謡は『敦盛』、『放下僧』、『屋島』、『芭蕉』、『鉢木』などなど。<br />
『野守』はちょっと急ぎすぎ。<br />
帰宅してよれよれになってダリオ・アルジェントのホラー映画の二本立て。<br />
8日、極楽スキーの会に出発。６時前に起きて、締め切りの原稿を書き飛ばす。ゲラを駅前のコンビニで送ってから大阪駅へ。<br />
極楽メンバー、今年は１５人。新人が三人参加。<br />
極楽スキーの会はその名のとおり、山海の珍味を食し、温泉に入り、酒を酌み交わし、清談し、あいまにスキーもするという極楽オリエンテッドな集団である。<br />
15名中、専任教員が１１名（あと先輩1名、非常勤１名、おこさま２名）。<br />
教員１１名を擁する規模の結社というのは、本学には極楽スキーの会しかない。<br />
いくつかの学科より構成員数が多いのである。<br />
そこに理事、正副学生部長、入試部長、組合執行委員長がまじっていて、露天風呂で夜空を見上げつつ、また深更「帰山」などを酌み交わしつつ「ここだけの話」をしているのである。<br />
この会のメンバーになるということは、きわめて質の高いclassified informationにアクセスできるということである。<br />
極楽スキーの会が「KCのフリーメーソン」と呼ばれているのは（呼ばれていないが）あながち誇張とは言われぬのである。<br />
今回は幹事交代についての議が凝らされ、年長者に対する節度ある接し方、すがすがしい酒の飲み方などを総合的に勘案して、T中先生が晴れて次期幹事候補に指名された。<br />
思えば、スポーツマンライクで禁欲的な「シーハイルの会」を犯罪的に解体し、ブルジョワ的享楽主義路線への大胆な修正を断行して会名を「極楽スキーの会」として以来、すでに20年近い歳月が経とうとしている。<br />
その間、幹事のたいまつはウチダからワルモノ先生に手渡されたのであるが、それがまた次代の極楽主義者の手に引き継がれようとしているのである。<br />
感無量である。<br />
極楽スキーの二日目にやまびこEコースにて転倒、右足ふくらはぎの筋肉を挫傷。いてて。<br />
筋肉繊維が切れる「ぶつん」という音が聞こえた。<br />
でも、スキーというのはふくらはぎの筋肉を使わないことを今回知った。<br />
この筋肉は上り坂を上がるときには頻用されるのであるが、下り坂を下るときにはぜんぜん使わないのである。<br />
だから、そのままスキーをする。<br />
翌３日目は半日だけお休み。ゲラが三つもスキー場まで追ってきたからである。どうしてこんなところまで来て原稿書かなくちゃいけないんだよと悪態をつきながら、みんながゲレンデに去ったあとの宿の部屋でパソコンを打つ。<br />
でも、午後からは合流。快晴のスカイラインコースを気分よく滑る。<br />
最終日も快晴。雪質も最高のコンディションでした。<br />
最後に「庄平」で大ザルと升酒（水尾）と蕗の天麩羅などを食し、全員サバ眼となって帰路に就く。<br />
１３日朝三宅接骨院にて足をみてもらう。<br />
三宅先生の見たては「それほどたいしたことないです」ということで、湿布薬とサポーターをもらって合気道の稽古へ。<br />
来週から合宿で、昇段級審査があるので、やたら人が多い。<br />
今回の合宿では初段から四段まで受審者が10人もいるので、審査に半日かかりそうである。<br />
忘れずに地謡用の「座椅子」を持っていかないと、足がしびれてしまう。<br />
さらに特訓をするという若者たちを残して帰宅。スーツに着替えて、中之島の朝カルへ。<br />
今回は釈徹宗先生との『現代霊性論』出版記念イベント。<br />
講談社の加藤晴之さんたちがおいでになっている。対談は週刊文春の来週号に掲載されるので文春の方も見えている。<br />
講談社の本の宣伝に文藝春秋の週刊誌を呼び寄せるとは・・・加藤晴之恐るべし。<br />
お客さんたちはいつものみなさん。田村くん親子、黒田くん、慎さん親子、青山さん、かんきちくん、おおさこくん。みなさんどうもありがとう。<br />
話はたいへん面白かったです。<br />
そのあとヒルトンの聘珍樓にて講談社主催の打ち上げ宴会。<br />
最初のプロデューサーだった藤本真美さん、テープ起こしをしてくれたウッキー、朝カルの仕掛け人森本さんと美味しいご飯をいただき、おさべり。<br />
家に戻ってさすがにばたりと倒れる。</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/14_1102.php</link>
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         <pubDate>Sun, 14 Mar 2010 11:02:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ナショナル・ストーリー・プロジェクト・ジャパン</title>
         <description><![CDATA[<p>業務連絡<br />
急ですけど、ポール・オースターの『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』の「日本版」を作成することになりました。<br />
お読みになった方はご存じですよね。<br />
新潮社から訳が出てます。翻訳は柴田元幸さんたち。<br />
（追記：アルクからも出てました。ゼミの卒業生の澤くんから「うちでCD付きの出してますけど・・・」というメールが来ました。それをもらっていたのでした。紹介し忘れてごめんね）<br />
『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』はどういうものかと申しますと、アメリカのいろいろな普通の人たちに寄稿してもらったショート・ストーリーの中から佳作をラジオでポール・オースターが朗読するという、それだけのものです。<br />
でも、これが面白いんです。<br />
ポール・オースターはラジオで、どのような物語を求めているかについてこんなふうに話しました。<br />
「物語を求めているのですと、私は聴取者に呼びかけた。物語は事実でなければならず、短くないといけませんが、内容やスタイルに関しては何ら制限はありません。私が何より惹かれるのは、世界とはこういうものだという私たちの予想をくつがえす物語であり、私たちの家族の歴史のなか、私たちの心や体、私たちの魂のなかで働いている神秘にしてはかりがたいさまざまな力を明かしてくれる逸話なのです。言いかえれば、作り話のように聞こえる実話。大きな事柄でもいいし小さな事柄でもいいし、悲劇的な話、喜劇的な話、とにかく紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験なら何でもいいのです。いままで物語なんか一度も書いたことがなくても心配は要りません。人はみな、面白い話をいくつか知っているものなのですから。」（『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』、ポール・オースター編、柴田元幸他訳、新潮社、２００５年、１０頁）<br />
そうやって集まったショート・ストーリーは４０００通を超えました。<br />
それはあらゆる場所の、あらゆる年齢の、あらゆる職業の語り手による、信じられないほどに多様な「作り話のように聞こえる実話」。それを読んでいるときポール・オースターは「アメリカが物語を語るのが私には聞こえた」（１１頁）と感懐を述べています。<br />
どのような物語が収集されたかは実物を徴していただくとして、このプロジェクトの日本版をやることになったのです。<br />
どういう事情で私がこのプロジェクトにかかわるようになったのかを事細かに話す機会はいずれあると思いますが、とりあえずはお知らせです。<br />
「物語を求めています。」<br />
「本当にあった『嘘みたい』な話」<br />
「長さは２０００字程度」<br />
それだけです。<br />
でも、この「本当にあった嘘みたいな話」という条件がまことに重要なんです。<br />
「嘘みたい」という条件に一般性はないからです。<br />
「オレ、昨日ミック・ジャガーに『ブラウン・シュガーの歌い出しってどんなんだっけ』って訊かれたよ」というような話って、ぼくがすれば「嘘みたいな話」ですけど（嘘ですけど）、話しているのがストーンズがスタジオで録音中のプロデューサーだったら「ミックももう年だねえ」というような感懐を伴う「ごくふつうの話」だということになる。<br />
つまり、ある物語を「嘘みたい」と感じるのは、語り手の固有性なのです。<br />
「嘘みたい」という感懐のうちに、ある個人の余人を以ては代え難い、ぎりぎりの唯一無二性が露出することが、ある。<br />
つねにそうなるとは限りませんけれど、そういうことが起こる確率が高い。<br />
ですから、「その人にとってはあり得ないはずのこと」があり得たという事件を通じて、ポール・オースターは「アメリカが物語るのを聴いた」のでした。<br />
同じようにして、ぼくも、「日本が物語るのを聴いてみたい」と思います。<br />
プロジェクトの全体については、いずれメディアで告知されますので、これは「先行広告」です。<br />
とりあえず、このプロジェクトで「読み手」の仕事をするのはぼくと高橋源一郎さんです（この前パーティで会ったときに頼んじゃいました）。<br />
それから柴田元幸さんにも当然ながらぜひ参加して欲しいと思っています（これから交渉）。<br />
投稿先はこのあとこのブログで告知します（いきなりぼくのところに送らないでくださいね）。<br />
ついては最初に「甲南麻雀連盟会員」全員に一篇ずつ書いてもらいます（もちろん浜松支部もね）。<br />
これは総長命令です。<br />
締め切りは３月18日。<br />
連盟参与の平川くんはすでに「オレもう書いちゃったよ」と言ってくれております。<br />
以上、業務連絡終わり。</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/08_2304.php</link>
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         <pubDate>Mon, 08 Mar 2010 23:04:04 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>新書大賞スピーチが見られます</title>
         <description><![CDATA[<p>新書大賞のことを書く暇がなくて、「また明日」なんて書きましたけれど、ちゃんとそのようすをビデオで撮影していたそうです。<br />
中央公論手回しナイスですね。<br />
明日（３月６日）からアップするそうですので、明日以降こちらにアクセスしてみてください。<br />
最初の方と後の方（フロアからの質疑応答）は採録されていないそうですけれど、私のデタラメトークを見ることができます。<br />
いいのかなあ、こんなの一般公開しちゃって・・・</p>

<p><a href="http://www.chuko.co.jp/special/shinsho2010/">http://www.chuko.co.jp/special/shinsho2010/</a></p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/05_1529.php</link>
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         <pubDate>Fri, 05 Mar 2010 15:29:52 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>グーグルの存在する世界にて</title>
         <description><![CDATA[<p>木曜日、学士会館で目覚めて、ぼんやり窓の外を見ながら朝ごはん。<br />
「学士会館朝ごはん、なう。」とTweetすると、見知らぬ読者から「いま白山通りを歩いています」というreply が入る。<br />
不思議なガジェットだなあ。<br />
ｍｉｘｉとも携帯メールとも、機能がどこか根本的に違うような気がする。<br />
「ダイレクトメッセージ」ではなく、「宛名のないつぶやき」に反応する人がいるということが「広大な共生感」（＠大江健三郎）をもたらすのであろうか。<br />
よくわかんないけど、とりあえずは「精神衛生上よい」機能を果たしていることは間違いない。<br />
だから、Twitter では「反論」とか「事実誤認の指摘」とかは遠慮してほしいですね。<br />
「グーグル問題」について、いろいろ意見を訊かれる。<br />
私の基本的態度は「テクノロジーの進化は止められない」というものである。<br />
とくにグーグルのビジネスモデルは「利用者はサービスに課金されない」というものだから、より実用的な情報環境を求める利用者の不可避的増加を止めることは誰にもできない。<br />
「グーグル以前」の世界標準でデジタル・コンテンツについて考えてももうほとんど意味がない。<br />
どうすればいいのかと凄まれても困るが、「すでにグーグルが存在する世界」に生きている以上、「グーグルを勘定に入れて」暮らすしかない。<br />
私は１０年前から「ネット上に公開した情報は公共物」という方針を貫いている。<br />
コピーフリー、盗用フリーである。<br />
繰り返し言うように、私がネット上に公開したテクストはどなたがどのような仕方で使われてもご自由である。<br />
私の書いたことをそのまま「自分の書いたもの」だと主張して、単行本にされても構わない。<br />
私は「私のような考え方をする人」を一人でも増やしたくて、ネットを利用しているわけであるから、私の意見を「まるで自分の意見のようである」と思ってくれる人がいることは歓迎しこそすれ、非難するいわれはない。<br />
私が書いていないことを「ウチダタツル」という名前で勝手に発表されるのは困るが、私が書いていることを別人の名前で発表することについては「どうぞご自由に」である。<br />
ほんとに。<br />
別に私は博愛主義者でもないし、禁欲主義者でもない。<br />
デジタル・コンテンツについては「お好きにどうぞ」としておいた方が長期的にはprofitable だと思うから、そう申し上げているのである。<br />
コピーライトという「既得権」に固執する人は、「コピーライトがあるがゆえに生じる逸失利益」というものが存在することにたぶん気づいていない。<br />
例えば。<br />
私のテクストは多くの学校で入学試験に採用されている。<br />
理由はいくつかあるが、意外に知られていないのが、「ウチダのテクストはいくら切り貼りしても著作権者から文句が出ない」ということが広く受験関係者に周知されているという理由である。<br />
入試問題は、そのあと過去問集に採録されたり、予備校の教科書に採録されたりするが、それについて「著作権者の許諾を得ないで勝手に使うな」ということを言い出した方がいて、そのおかげもあって、現在では、小さな学習塾まで許諾申請の書類を送ってきて、１０５０円とか２１００円とか（消費税込みね）を振り込んでくださる。<br />
懐手をしていてもちゃかちゃか小銭が口座に入金されることのありがさについては日本文藝家協会をはじめとする関係各位のご努力をまことに多とせねばならない。<br />
しかし、このたいへん手間暇のかかる作業をしているうちに、ある種の「雰囲気」が著作物の複製利用をする方々のあいだに広まっていることにオーサーたちは気づいていないようである。<br />
ご想像いただきたい。<br />
「コピーライトを既得権と考えて、厳密な使用条件を課す物書き」のみなさんと、私のように「入試やら模試にお取り上げいただけるということは、いわば無料で私の本の『宣伝』をしてくださっているということであり、むしろこちらから『使用料』をお払いすべき筋であるにもかかわらずまことに恐懼謹言」的物書きの二種類のオーサーのテクストを前にしたとき、学習塾や予備校の講師たち（さらには入試作問者や国語や小論文の副読本を自作している先生たち）ははたしてどちらを選好するであろうか。<br />
別にクラスの授業で使う分には著作者の許諾なんか要らないよね・・・と思っていても、そのうち私のこの授業のめざましい成果が人の知るところとなり、教科教育のモデルとなり、講演に招かれ、やがて活字化され、ベストセラーになったときに、「私の文章を許諾なしに使われては困る。テクストから削除するか、規定の著作権料を支払いなさい」というような事態になったら、ちょっとめんどくさいなあ・・・という想念が一瞬脳裏をかすめることは避けがたい。<br />
いや、謙遜しなくてもよろしい。<br />
自分が書いたものがいずれ広く人口に膾炙し・・・という夢を持たずにものを書く人間はいない。<br />
「万が一そういうことになったら、わりと面倒」系オーサーと、「万が一そういうことになっても全然ノープロブレム」系オーサーのどちらの書き物を教材に使用しようか迷っている国語教師の最後の決断の背中を押すのはわりと「そういうこと」なのである。<br />
その結果、あたりを見回して「そういうこと」についてまるっとノンシャランな書き手というと、やはりウチダタツルとかは「東がもう四枚場に切れているときのラス牌の西くらいの安全牌」ではないか、と推論するのはきわめて合理的なご判断なのである。<br />
そのような「危険牌」か「安全牌」かのわずかな「匂いの差」の積み重ねが、いつのまにかしばしば「ポジティヴィ・フィードバック」を惹き起すことは技術史においてひろく知られた事実である。<br />
「グーグルがすでに存在する世界」においては「デジタル・コンテンツに課金する」ビジネスモデルは「デジタル・コンテンツそのものには課金せず、無料コンテンツが簡単な操作で簡単にダウンロードできるシステムがデファクト・スタンダードになった結果たまたま生じるバイプロダクツで小銭を稼ぐ」ビジネスモデルに必ずや駆逐される。<br />
ことの「よしあし」ではなく、そういうものなのである。<br />
繰り返し申し上げるか、それはコンテンツの質の優劣とは関係がない。<br />
そうではなくて、そのコンテンツを取り扱うときに心に生じる「これ、うっかり扱うと面倒かな・・・」という思いが、そのコンテンツからゆっくり、しかし確実に人々を遠ざけてゆくのである。<br />
ＪＡＳＲＡＣのようなビジネスモデルは遠からず死滅することになると私は思う。<br />
別にＪＡＳＲＡＣが「悪い」と言っているわけではなく（ちょっとは思っているけど）、それよりは「音楽について言及したり引用したりするとすぐにＪＡＳＲＡＣが飛んでくるから。とりあえず音楽について言及したり、歌詞を引用したりするのは自制しよう」というオーディエンスのわずかな「ためらい」の蓄積が「音楽で金を稼ぐ」というビジネスモデルそのものを壊滅させることもあるということである。<br />
話を戻すけれど、私の若い読者たちの実に多くが「最初にウチダの本を読んだのは、模試の問題においてであった」とカミングアウトしてくれている。<br />
模試の問題だと、そのあと先生が「正解」について解説してくれる。<br />
作問した先生はもちろん私の読者であって、いろいろ底意があってわざと私のテクストを選んでご利用になっているわけであるから、答案を返す段になると、「前回の模試のこの問１ですけど、出来悪かったですね。今日はそういうわけで、ウチダタツルの修辞法や変てこなロジックの構成について、ちょっと集中的に勉強してみましょうか。来年あたりセンター試験に出るかもしれないしね」というようなお話がつい口を衝くのである。<br />
「予備校の教室など言及されても一文にもならぬ」と考えるのはシロートで、大教室の予備校生たちの中に一人くらい「なんか面白そうだな。この人の本、帰りに本屋で探してみようかな」というような展開になるというのはあながち荒誕な夢想とは言い切れぬのである。<br />
ビジネスというのは本質的に「ものがぐるぐる回ること」である。<br />
「もの」の流通を加速する要素には「磁力」のごときものがあり、それを中心にビジネスは展開する。<br />
逆に、流れを阻止する要素があれば、ビジネスはそこから離れてゆく。<br />
「退蔵」とか「私物化」とか「抱え込み」というふるまいは、それが短期的にはどれほど有利に見えても、長期的スパンをとればビジネスとして絶対に失敗する。<br />
ビジネスの要諦は「気分よくパスが通るように環境を整備すること」それだけである。<br />
著作権はそれがあると「著作物の『ぐるぐる回り』がよくなる」という条件でのみ存在価値があり、それがあるせいで「著作物の通りが悪くなる」ときに歴史的意義を失う。<br />
あれ、何の話をしていたんだっけ。<br />
学士会館の窓の外を見ていたのね。<br />
そのあと「いろいろな面白いこと」がありました。<br />
「ボーイズラブは少女たちの抑圧された反米感情の噴出である」という新書大賞の授賞式スピーチの話はまた明日。<br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/05_1307.php</link>
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         <pubDate>Fri, 05 Mar 2010 13:07:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>高橋源一郎さん渋谷陽一さんと乃木坂でイタリアンを食べつつ小沢一郎について語る</title>
         <description><![CDATA[<p>早起きして、何通か手紙を書き、メールに返信し、締切をすぎた原稿を必死で書き（こればっか）、朝ごはんをかき込んで、銀行へ。<br />
土地の登記をするのである。<br />
そう、私はついに道場用地を買ってしまったのである。<br />
ＪＲの駅の北側、８５坪。<br />
「私が買った」というより、「内田家のみなさま」のご支援により「たなぼた」的に手に入ったという方が正しいのであるが、それも私が常日頃から「道場が欲しいなあ」と神経症的につぶやいていたのを、母や兄が憐れに思って、「そこまで言うなら、望みをかなえてやろう」ということになったのである。<br />
お母さん、お兄さん、ありがとう。<br />
道場の本体の方は私の責任で建てなければならないのであるが、土地購入に貯金のほとんどをはたいてしまったので、これからまたこつこつ貯めないといけない。<br />
でも、多田塾甲南合気会の会員たちは餌を、待つひな鳥のように口を開いて「どーじょーどーじょー」とさえずっているので、できるだけ早く建物も手配したい。<br />
というわけで銀行で登記のついでに「道場建設費貸してください」と支店長に頼み込む。<br />
以前にヒラマ支店長に「２億円貸して」といったときは呵々大笑されて相手にしてもらえなかったけど、こんどはなんとかなりそうである。<br />
それにしても、道場がほんとうにできるとは夢のようである。<br />
何度も書いたことだが、多田先生から「強く念じたことは実現する」と教えていただいた。<br />
現に先生はそうやって月窓寺道場を作られた。<br />
私も師の言葉を忘れず、「道場を建てるぞ。道場を建てるぞ」と強く念じていたら、いつのまにか夢が実現しそうになってきた。<br />
言葉の現実変成力を若い人は侮りがちであるが、言葉ほど恐ろしいものはない。<br />
「どうせオレなんか・・・」というような自虐の言葉はまっすぐにその人を「どうせ」的状況に繋縛してしまうのである。<br />
自分の状況を否定的に記述することは「自分に呪いをかける」ことである。<br />
自分にかけた呪いを祓うことはむずかしい。<br />
多田先生がおっしゃった「強く念じる」には「悪いこと」ももちろん含まれる。<br />
「悪いこと」を強く念じても、それは高い確率で実現する（現に、私は「悪いこと」を強く念じて実現させたことが何度かある）。<br />
「悪いこと」を実現するのは、「よいこと」を実現させるよりはるかに容易である、と多田先生はおっしゃっていた。<br />
力の弱い人間が手軽な全能感や達成感を求めると、必ず破壊をめざすようになる。破壊は建設よりずっと容易だからである。<br />
「よいこと」を強く念じるというのは、言うほど簡単なことではないのである。<br />
それから大学へ。<br />
大学院委員会でふたつ「いいこと」がある（ほんとは「みっつ」）。<br />
委員会で「いいこと」があって、にこにこしてしまうというのは珍しいことである。<br />
タクシーで山を下りて、新大阪から新幹線で東京へ。<br />
車内で小バイオをつかって仕事。<br />
東京駅からタクシーで乃木坂。おしゃれなイタリアン・レストラン。<br />
乃木坂なんて来るの４０年ぶりくらい。<br />
三月に一度やっている『Sight』の高橋源一郎・渋谷陽一との鼎談。<br />
今回で４回目（ちょうど一年）。<br />
これをまとめて単行本にするのだそうである。<br />
全部政治の話<br />
高橋さんとぼくがひたすら政治の話「だけ」しているというのは、ずいぶんと奇妙な企画である。<br />
たしかにぼくたちはふたりとも「元・政治少年」であるから、政治思想史的なこと多少わかるけれども、リアルポリティークについては、ほとんど何も知らない。<br />
だから、政治評論の専門家との差別化をはかるなら、「評論家が絶対に言いそうもないこと」だけを選択的にしゃべるしかない。<br />
昨日は「小沢一郎論」だった。<br />
あまり面白そうな論件ではない。<br />
どうすれば面白くなるのか・・・こういうときはまず高橋さんに丸投げ。<br />
高橋さんは、なんとこの鼎談のために、小沢一郎の著書を５冊読んで研究してきたのである。<br />
政治家について語るときに、そのひとの書いた本を読んでくる、というのがいかにも高橋源一郎である。<br />
文は人なり。<br />
本読めばわかる、というのが高橋さんの文学者的確信である。<br />
すごいね。<br />
というわけで、鼎談は小沢一郎の「文体分析」から始まったのである。<br />
結論はツイッターに高橋さんもちょっと書いているとおり、「小沢一郎は日本のナロードニキであり、吉本隆明のアヴァターである」という驚天動地のもの。<br />
小沢さんて「大衆の原像を繰り込みつつ、あらゆる擬制に抗う永久革命者」なんだよねという話に落ち着く。<br />
話している当人たちが思いがけないオチにびっくり。<br />
どうしてそういうことになるのか、その理路は『Sight』でおたしかめください。<br />
タイトルを考えておいてねと渋谷さんに言われたので、考えました。<br />
「ゲンちゃんウッチーのにこにこ床屋政談」<br />
あまりにストレートかしら。</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/04_2159.php</link>
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         <pubDate>Thu, 04 Mar 2010 21:59:57 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>一ノ矢さんと会う</title>
         <description><![CDATA[<p>『考える人』の「日本の身体」、今回の対談のお相手をしてくださったのは、大相撲高砂部屋の松田哲博さん（元・一ノ矢）。<br />
松田さんの相撲歴については、ウィキペディアの記事を貼り付けておきます。<br />
「一ノ矢 充（いちのや みつる、1960年12月28日 - ）は鹿児島県大島郡徳之島町出身で高砂部屋（入門時は若松部屋）所属の元大相撲力士。得意手は押し、出し投げ、肩透かし。2007年11月28日の引退時点で現役最年長力士だった。昭和以降の最高齢力士、初の国立大学出身力士。本名は松田哲博。最高位は東三段目6枚目（1991年7月場所）。<br />
琉球大学理学部物理学科在学中に相撲部を興す。大学卒業後、決まっていた高校の物理の教職を蹴り国立大学出身力士として史上初の角界入りをし、元関脇・房錦の若松部屋に入門した。身長が規定に及ばず新弟子検査を合格することが出来ずに半年ほど過ぎたが、1983年（昭和58年）11月場所の新弟子検査に合格。<br />
40歳になった頃から相撲記者から年齢に関する質問が増えたが、相撲を「武道」と位置づけた上で「年齢に関係なく、筋肉のつけ方や使い方によって強くなる相撲の本質があるはず。それを実践して証明したい。そう考えると年を取るのが楽しみ」と述べている。また、「年齢を競う競技ではない、体が動く限り続けたい」と常々語っている。部屋のちゃんこ長やマネージャーを務めるとともに部屋公式サイトの運営・更新を担当している。<br />
2007年（平成19年）11月21日に1001回目の土俵に上がり（敗れて517敗目）、当11月場所限りで引退の意思と、2004年に取材で知り合った雑誌編集者と2008年2月2日に挙式を行うことを表明、現役引退後も引き続き部屋のマネージャーとして、陰から相撲界を支えるという。」<br />
お会いしてびっくりしたのは、松田さんの奥さんが故・竹信悦夫のJapan Quarterly 編集長時代の部下だったというお話。ちょうど、竹信とJQの話をブログに書いたその翌日に、竹信とJQにゆかりのある方とお会いすることになるとは。<br />
奥さんは学士会館でやった竹信の「送る会」にもおいでになっていて、私と高橋さんの弔辞を聴かれていたそうである。<br />
その高橋さんの御令嬢がこの『考える人』のコーディネイターの橋本麻里さんで、私の隣に座って、そのときに「えええ」とのけぞっていたのである。私はそのご尊父と翌日『Ｓｉｇｈｔ』の鼎談（いつもの高橋さん、渋谷さんとのおしゃべり）が予定されていたのである。<br />
なんと。<br />
死せる竹信のご縁つながりで、こんなところでこんな人とお会いすることになるとは。<br />
そればかりか、松田さんが相撲においてインナーマッスルの重要性を実感したのは、現役のころにロルフィングの治療を受けたことがきっかけで、その施術者は安田登さん。<br />
安田さんは、ご案内のとおり、この『考える人』の第一回の対談相手である。<br />
安田さんが箱根神社の奉納の能楽指導をしていらしたときには、うちの奥さんも時々小鼓のお手伝いに行っていた。<br />
つい数日前も安田さんから私あてにメールが来て、今度いっしょに本出しませんかという話になって、たちまち話がまとまったばかりである。<br />
というふうに糾える縄のごとく絡み合ったご縁であるので、話はいきなり佳境に入る。<br />
双葉山と朝青竜の身体技法の話、シコとテッポウの合理性の話でおおいに盛り上がる。<br />
相撲というのは武術であるような神事であるような伝統芸能であるような見世物であるような、まことに不思議なものである。<br />
だが、その身体技法としての独自性・卓越性について科学的な語法で考究したものは、私の知る限りほとんど存在しない。<br />
松田さんは、物理学徒であり、かつ力士であるという例外的なポジションにいる。<br />
この特権的な立場から相撲の技法について松田さんが語る言葉は、合気道家として聴くと実に興味深いのである。<br />
股関節の使い方と肩甲骨のコントロールというマニアックな論点ですっかり興奮。<br />
「地上最強」のマリちゃん・マホちゃんとともども、神仙閣の壁を相手にテッポウ、床を踏み鳴らしてシコのおけいこ。<br />
シコというのは思いがけずに難しいものである。<br />
これは奥が深いわ。<br />
さっそく合気道の稽古にも取り入れてみることにする。<br />
どれも高橋佳三さんや守伸二郎さんや平尾剛さんが聴いたら大喜びしそうな話である。<br />
というわけでモリモトさんの断りもなく、勝手に次回の大阪の朝カルに「武術的立場」のゲストとしてお呼びすることにした。松田さんをこの四人で囲んで、わいわいとおしゃべりをするのである。<br />
楽しそう。<br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/04_2157.php</link>
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         <pubDate>Thu, 04 Mar 2010 21:57:58 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>合気道兵庫県連盟にて</title>
         <description><![CDATA[<p>合気道兵庫県連盟の稽古会で、姫路の県立武道場へ。<br />
総会があるので、みんなよりちょっとはやめに井上さん谷尾さんの事務方のお二人といっしょに姫路へ。<br />
去年は忙しくて連盟のイベントは一つも参加できなかった(会員諸君は参加してくれたけど)。<br />
濱崎会長、山田理事長、堀井さん、中尾さん、川端さん、松平さんら連盟のみなさんとひさしぶりにお会いして、久闊を叙す。<br />
川端さんは前回の稽古のときに目にひどい怪我をされたと聞いていたが、ご無事の由。武田鉄矢さんがラジオで『日本辺境論』を何日か連続でご紹介してくださったのを仕事中のカーラジオで毎日聴いていたそうである。<br />
武田鉄矢さん、いつもどうもありがとうございます。<br />
帯文も書いてもらったし。一度ご拝顔の上、直接お礼を申し上げなければと思いつつ機会に恵まれない。<br />
本部の金沢師範においでいただいて、２時間稽古。<br />
ふだんは受け身なんかとらないので、若い諸君とばんばん投げ合っていると、１時間ほどで息が上がる。<br />
途中で相手がみつからなかったら、さりげなく休もうかと思ったけれど、次々とお相手が「お願いします」とやってくるので、まあ行けるところまで行こうと肚を括ってばんばんやっていたら、いつのまにか２時間経っていた。<br />
途中で川端さんとひさしぶりに組む。<br />
１９９０年の４月に神戸に来てすぐに入門して、９５年に精武館道場が震災で壊れるまで、川端さんとは実によく稽古した。こちらもまだ若く（最初のころはまだ３０代だった）、いくら稽古しても疲れるということがなかった。<br />
大学の合気道部はまだ出来たばかりで、部員たちには受け身と基礎くらいしか教えられなかったので、精武館で週一回思い切り投げ合い固め合うのがまことに楽しかった。<br />
自由が丘道場から離れて、自分で稽古法を工夫しなければならなかった。技の理合ということがようやくぼんやりとわかりかけて来た頃で、稽古するほどに手応えがあった。<br />
稽古を終えて、いつものように灘菊で懇親会。<br />
樽酒をじゃんじゃん飲んで、ひたすら合気道の話だけする。<br />
これが楽しいの。<br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/03/02_0656.php</link>
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         <pubDate>Tue, 02 Mar 2010 06:56:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>彼は牡蠣のように寡黙な人だ</title>
         <description><![CDATA[<p>Amazonに出ていたので、思い立って山崎貞『新々英文解釈研究』（研究社）と佐々木高政『和文英訳の修業』（文建書房）の復刻版を購入。<br />
高校一年生のとき、１９６７年の四月に買ったのだが、引越を繰り返しているうちになくしてしまった。<br />
『新々』の最初の文例を私は長いこと　He is an oyster of a manだと思い込んでいたが、これは三つめの文例で、最初はA man of learning is not always a man of wisdom.でした。<br />
それにしてもan oyster of a man というのはインパクトのある文である。<br />
意味は「彼は牡蠣のように寡黙な人だ」。<br />
この文例については二つ思い出がある。<br />
一つは大学生の頃、自由が丘のシグナルヒルのカウンターでお酒をのみながら知り合いとおしゃべりをしているときに、『新々英文解釈』の話になったことがあった。<br />
そのときに私が「最初の文例はHe is an oyster of a manだったよね」とうれしげに話したら、かたわらの席にいた、見知らぬ大学生が（KO大学だと言っていた）バカなことを言うなといきなり話に割り込んできて、それはa man of oyster の覚え間違いだと言い出した。<br />
「山のような波」というのはa wave of mountain というではないか。<br />
そう言われると、なんだかあまり自信がなくなって、「いや、でもたしか、そうだったと思うよ」と言ったら、「だったら、オレは首を賭けてもいい」とそいつが言い出した。<br />
こちらは首を賭けるほどに自分の英文法知識に自信がなかったので、「ちょっと、そこまでは・・・」と怖じ気ついたら、そいつは高笑いして、「東大生だと聞いたが、ろくに英語も知らぬくせに酒場でくだらぬ知識をひけらかすな」と捨て台詞を言い残して立ち去った。<br />
あまりの悔しさに死にそうになった。<br />
調べようにも手元に『新々英文解釈』がないので真偽は知れぬままとなった。<br />
そのまま片づかぬ気持ちで３０年ほどが経ち、あるとき故竹信悦夫と馬鹿話をしているときに、たまたまan oyster of a man の話が出た。<br />
そのころ竹信は朝日新聞社の出している英字紙Japan Quarterly の編集長をしていた。<br />
副編集長はネイティブで、日本人の書いた英語をチェックするのが仕事である。<br />
その副編集長があるとき竹信のところに来て、どうもわからぬことがあると言う。<br />
どうして日本人は「彼は寡黙な人間である」というときに he is an oyster of a man というネイティヴでもまず使うことのない古めかしい英語表現を好んで用いるのであるか、というのである。<br />
竹信は呵々大笑して、それはわれわれが受験勉強のときに必須の参考書であった山崎の『新々英文解釈』の最初の頁にある例文だからであり、どんな不勉強な高校生でも、そこまでは覚えたのであると説明したのだそうである。<br />
その話を聞いて、３０年前の屈辱の一夜のことを思い出した。<br />
あれは　He is a man of oyster じゃなくて、He is an oyster of a man だよねと勢い込んで問うと、当たり前じゃないか、知らないやつはいないだろうと竹信が不審な表情をした。<br />
うう、悔しい。<br />
私の方が正しかったのに、さんざんに愚弄された挙げ句に、あの晩シグナルヒルにいた他の常連客たちに、「ウチダは英語の翻訳で飯を食っているとかうそぶいていたが、たいしたことないのね」という不信を扶植してしまったではないか。<br />
そんな懐かしいhe is an oyster of a man なのである。<br />
ぱらりとめくったら、そこにはa mountain of a wave 「山のような波」という類例まで出ていた。<br />
あの野郎、あろうことか、二つまで嘘つきやがって。<br />
今頃どうしているか知らないが、生きていれば私の怨念の電撃を喰らうがよい。３０年分の利子をつけたるわ。<br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/02/27_2350.php</link>
         <guid>http://blog.tatsuru.com/2010/02/27_2350.php</guid>
        
        
         <pubDate>Sat, 27 Feb 2010 23:50:05 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>二泊三日台北ツァー</title>
         <description><![CDATA[<p>台湾ツァー第一目（といっても二泊三日）。<br />
６時起きして、７：３０のリムジンで関空へ。<br />
一行９名。<br />
学生８人と私。<br />
お断りしておくが、これは「ゼミ旅行」ではない。<br />
「ゼミ旅行」というのはあくまで修学目的の旅行であり、教育目的がたかだかと掲げられており、かつ大学によってオーソライズされたものをいう。<br />
今回のツァーはゼミ生諸君の「卒業旅行」にたまたま私が同日、同時刻の飛行機に乗り合わせたというに過ぎない。<br />
「おや、キミたち、どちらへ？」<br />
「ちょっと台北まで」<br />
「おや、これはなんと奇遇な。私もこれから台北に行くのだよ。で、飛行機は？」<br />
「キャセイパシフィックのCX５６５便」<br />
「むむ、いよいよ面妖な。私もそれだ。となるとホテルももしかして・・・」<br />
という幾重にもの偶然が重なって「旅は道連れ世は情け」の一幕なのである。<br />
それゆえ、君もしくは君の仲間が捕らえられようとも、当局は一切関知しないからそのつもりでねフェルプス君の旅なのである。<br />
いったん集合したが、そのまままた搭乗時刻まで自由行動。<br />
私は例のドイツの雑誌の原稿を英訳するという面倒が残っており、搭乗ゲートでも機内でも、和英辞典を片手に黙々と翻訳。<br />
飛行機は飛び立って、わずか２時間半ほどで台北に着く。<br />
おお、蒸し暑い。<br />
私の大好きなエイジアン・モイスチャーである。<br />
空港からすでに空気には微妙に中華料理フレイバー（八角かしら）が漂っている。<br />
ガイドのおばさんは (悪意はないのだが)けたたましく、押しつけがましいトーンでしゃべり続ける。<br />
すべてのことを三回ずつ言う。<br />
この「くどさ」もモイスチャーのうちである。<br />
お茶して、両替してからHotel Leofooにチェックイン。<br />
「こきたない」と「こぎれい」の中間のどこかに位置するホテル。<br />
シャワーを浴びて、お昼寝（朝が早かったからね）。<br />
５：３０にロビー集合。ガイドさんに教わった「欣葉」という台湾料理店へ。<br />
タクシー初乗り７０元（約２１０円）。レストランまで１００元（３００円）。<br />
安。<br />
豚角煮、烏賊団子、切り干し大根の卵とじ、白身魚のフライ、海老チャーハンなどを食べ散らし、ビールと紹興酒を飲んで一人６５０元。<br />
それからタクシーで士林夜市へ。<br />
「夜市」というのは文字通りのNight Market 。<br />
歩いているのは若い人ばかり。<br />
何かおみやげにと蒋介石肖像入りライターを購入。<br />
蒋介石肖像入りTシャツも学生たちに薦められたが、これはパス。<br />
一通りひやかして、ホテルに戻り、シャワーを浴びて、免税店で買ったシーバスを飲みながらテレビを観る。<br />
武侠ドラマをやっている。<br />
字幕付き。<br />
字幕は繁体字なので、なんとなく筋はわかる。<br />
町中の看板もだいたい読める。「請勿吸煙」（煙草を吸ってはいけません）とか「酒後不開車」(飲んだら乗るな)とか「非常時紅色鐵槌敲破玻璃」（緊急時はこの赤いハンマーでガラスを割ってください）とかね。<br />
同種同文。<br />
テレビを観ていたら、いきなり日本語が聞こえてくる。<br />
台湾製の日本酒（玉泉）のCMである。<br />
台湾、ディープです。<br />
二日目。<br />
７時半起床。朝食後、８時半より市内観光。<br />
まず英烈祠。<br />
国民党と共産党の内戦で没した兵士たちの慰霊施設である。<br />
台湾の戦没者については、本邦のような「ねじれ」がない。<br />
辛亥革命から今日まで台湾の「國體」は中華民国として一貫している。<br />
１９１２年を民国元年とするので、今年は民国９９年。<br />
孫文たちが清朝を倒してから今日まで同一の政体を維持している（という物語になっている）。<br />
台湾には「たまたま」寓居しているにすぎず、「大陸反攻」は(現実性がどれほど希薄であろうと)中華民国の譲ることの出来ぬイデオロギー的骨格なのである。<br />
だから、中正紀念堂の蒋介石の銅像はまっすぐ西の中国大陸を睨み付けている。<br />
もちろん、現実には中国と台湾の外交関係はそれほど単純ではない。<br />
しかし、政治的幻想としての「國體」は一貫して揺るがない。<br />
私たちの国はそうではない。<br />
私たちは戦争に負けたあとに、「米英中ソ反攻」を国是に据えなかった。<br />
敗北のあと、かつての敵国と和解するという国民的合意が得られたからではない。<br />
何となくずるずるとアメリカに従属し、ソ連に心を許さず、中国と親疎をはかりかね、韓国とは不仲のままで６５年が経った。<br />
特段「外交戦略」と呼べるようなものはない。<br />
なんとなく「ここまでこう来ちゃった以上、いまさら変えられんでしょう」という過去の事実の惰力に押し流されているだけである。<br />
私たちの国には未来を志向するヴィジョンがない。<br />
台湾にはとりあえず一貫したストーリーがある。<br />
「二つの中国」を認めない国際社会から孤立し、その否定的状況を実力ではね返して、そのプレザンスを認知させるという明確な意志が国民的に共有されている。<br />
国共の戦いでは敗北したが、共産党と戦ったことそのものの意義について疑義を呈する台湾人はほとんどいない。<br />
「無意味な戦いで、無意味な死者を出した」という種類のシニスムはこの英烈祠にはない。<br />
私はそれが「いい」と言っているのではない。<br />
私たちの国は「そうではない」ということを言っているのである。<br />
私たちの国は戦争に負けた後「敵」を失った。<br />
「戦いに負ける」ということと、「敵を失う」ということは別のことである。<br />
日本はアメリカに負けた。<br />
それゆえ、戦後日本人が採用すべきいちばん「ふつう」のストーリーは「来るべき反米攻勢の日を待ちつつ臥薪嘗胆に耐える」というものである。<br />
そのストーリーの上に「アメリカとの歴史的和解」ということが提案されるのであれば、それは少しも困ったことではない。<br />
矛を収めて和解する。結構ではないですか。けだし大人の風儀というべきであろう。<br />
しかし、私たちはそういう「ふつうのストーリー」を採用しなかった。<br />
採用できなかった。<br />
それはあまりに手ひどく負けたからである。<br />
「臥薪嘗胆」というような台詞が冗談でも口にできないほどめちゃくちゃに負けたからである。<br />
「負け方がひどすぎたこと」、これが私たちの国がそれからあと世界戦略を持てずにいる大きな理由だと私は思う。<br />
人々は好んで「原理の問題」を語るが、「程度の問題」を侮ってはいけない。あれほどひどく負けていなかったら、日本はこんな国にはなっていなかったと私は思う。<br />
そういう点で、大日本帝国の戦争指導者の戦争遂行能力の欠如はきびしく糾弾されねばならない。<br />
英烈祠のあと、故宮博物院へ。<br />
「翡翠でできた白菜」と「瑪瑙でできた豚の角煮」（ほんとうにそういう宝物が存在するのである）の前に黒山の人だかりができている。<br />
書画や陶磁器の展示場には人影もまばらである。<br />
中国人の嗜好はよくわからない。<br />
昼食後、市内をバスで巡るが、さすがに疲れてきたので、途中で切り上げて、買い物をしたいという学生たちを台北駅前でおろして、私はぶらぶらとホテルへ帰る。<br />
夜はホテル内の飲茶。<br />
これなら渋谷の麗郷や三宮の蓬莱亭の方がだいぶ美味い。<br />
三日目。<br />
もうすることがないので、日記をつける。<br />
ホテルの隣のマクドナルドで朝マックを食べつつ、ぼんやりと道行く人を眺める。<br />
みなさん忙しそうに、せかせか歩きながら、大きな声でしゃべっている。<br />
たぶん今の日本に欠けているのは、この「アジア的活気」なのであろう。<br />
日本はしだいに静かな国になりつつある。<br />
私は年のせいか、静かな国の方が住み易いと思うけれど。</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/02/27_1943.php</link>
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         <pubDate>Sat, 27 Feb 2010 19:43:18 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>お問い合わせへのお答え</title>
         <description><![CDATA[<p>さきほどお問い合わせのありました「岸田秀」について書いたものを貼り付けておきます。<br />
どうしてこういうものがここに出てくるのか、「文脈がわからん」という読者の方も多々あると思います（ツイッターやってないとわかんないですよね）<br />
う～む、困ったなあ。<br />
でも、ツイッターのダイレクトメールって添付ファイルが送れないんですよ。<br />
鳥取に行く車中で書いて日経に掲載されたものであります。</p>

<p><em>岸田秀『ものぐさ精神分析』（中公文庫） <br />
　<br />
岸田秀がそのまことにオリジナルな「唯幻論」なる思想的利器をひっさげて登場したときの衝撃は今でも忘れることができない。<br />
巻頭の「日本近代を精神分析する」を一読して、読者は驚倒した。そこで岸田は、集団心理学というのは、個人の心理についての知見を集団に拡大適用したものではなく、まず集団心理が存在し、人の心理はそれを内面化したものにすぎないと、いきなり断定したからである。<br />
だから、私たちの日常生活で起きていること―葛藤や抑圧や代理表象―は、ほとんどそのままのかたちで国家レベルでも再演される。<br />
個人が病むように国家も病む。個人が狂うように、国家も狂う。<br />
この仮説を日本近代にあてはめて、岸田は「日本国民は精神分裂病的である」という診断を下した。<br />
「しかし、発病の状態にまで至ったのはごく短期間であって、たいていの期間は、発病の手前の状態にとどまっている。だが、つねに分裂病的な内的葛藤の状態にあり、まだそれを決定的に解決しておらず、将来、再度の発病の危険がないとはいえない。」（１４頁）<br />
日本人をそのような内的葛藤に導いたのは１８５３年のペリー来航である。鎖国という「ナルチシズム的自閉状態」のうちに安住していた日本人は、ことときいきなり「苦労知らずのぼっちゃんが、いやな他人たちとつき合わなければ生きてゆけない状況に突然投げ込まれたのである。（中略）それは日本にとって耐えがたい屈辱であった。」<br />
この葛藤を解決するために、日本人はあえて分裂を病むというソリューションを採択した。外界に適応し、他者の意志に服従する「外的自己」と、そのような外的自己のふるまいを「仮の姿」「偽りの自己」とみなして切り離し、妄想的に自己を美化し、聖化する内的自己に分裂するのである。<br />
ベリー・ショックで外的自己は「開国論」に、内的自己は「尊王攘夷論」に分裂した。<br />
だが、近代日本の悲劇は、分裂したことそのものにあるのではない。分裂することによって、植民地化の危機を回避できたことにある。人格分裂によって現に植民地化をまぬかれたという成功体験ゆえに、日本人はその「人格のうえにぬぐいがたい亀裂と傷痕をきざみこむ」（１９頁）ことになった。<br />
岸田はこの枠組みを用いて、近代日本の国家行動、とりわけ戦争について、洞察にみちた分析を加えた。四半世紀を経ても、岸田の惟幻論は少しも色あせていない。外的自己と内的自己をどう一つの人格の内に統合するかという国民的宿題に答えを出した人はまだいないからである。</em></p>

<p>というものでした。<br />
内容のたいへんアバウトな紹介だけなので、書評というほどのものではないです。</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/02/23_2341.php</link>
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         <pubDate>Tue, 23 Feb 2010 23:41:53 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>剣の理合について考える</title>
         <description><![CDATA[<p>月曜火曜と杖道会の合宿。<br />
合宿は白浜に続いて、二回目。<br />
若さまが忍耐強くクラブ活動を支えて、後継者を育ててくれたので、今は２回生が６人もいる。<br />
若さま、ありがとう。<br />
今回は滝野の日光園という不思議な旅館に泊まる。<br />
お部屋も広いし、お風呂も広いし、道場も広いし・・・全体に「広すぎ？」という点が、私たち都市住民の空間感覚とややずれがあったのかも知れないが、たいへんカンファタブルであった。<br />
初日は１３時から１７時まで杖の稽古。<br />
基本をやってから、着杖（つきづえ）から乱留（みだれどめ）まで。<br />
二日目の今日は９時から１３時まで。<br />
基本をやってから乱合（らんあい）。それから居合。<br />
このところ月曜と金曜に会議や取材や打ち合わせが集中して、二ヶ月ほどお稽古を見ていないのだが、みんな私の留守中もちゃんとお稽古をしていたらしく、ずいぶん上達しているので、うれしくなって、少しむずかしい術理をお教えすることにする。<br />
杖には杖の、剣には剣の、先方の「ご事情」というものがある。<br />
あちらのご事情をできる限り配慮せねばならない。<br />
杖や剣は、初期条件が設定されれば、それ以外にないという唯一無二の最適動線を、最短速度でたどり、障害物に出会ったときに最大エネルギーを発揮する。<br />
こちらの仕事は、先方の「お仕事」の邪魔をしないということに尽くされる。<br />
うっかり、こちらの都合でコースを変えたり、止めたり、曲げたりすると、えらい目にあう。<br />
打突斬撃の力というのは凄まじいもので、肘や肩や膝はすぐに壊れてしまう。<br />
人間にできるのは「初期設定」と「強制終了」の二つだけである。<br />
初期設定でなすべきことは、杖剣を「正しい位置」に置き、「正しい動線」に送り出すこと。<br />
強制終了でなすべきことは、杖剣が急停止する際に、どうすれば当方の肘や肩や腰や膝にダメージを与えないで済むかを思量すること。<br />
この二つである。<br />
私が稽古していたとき、「どうすれば打突や斬撃が強くなるか」についてはさまざまなご指導をたまわったが、「どうすれば身体を壊さないように杖剣を止めるか」という技術的な問いはどうも組織的にニグレクトされていたように思う。<br />
それは現に、多くの高段者が膝や肘を壊していたからである。<br />
そのせいで、杖や居合の講習会場はつねに「エアーサロンパス」の刺激臭で充満していた。<br />
先生方は誰も高齢の先輩がたを指して、「ああいうふうになってはいけないよ」とは言わなかった。<br />
まあ、言いにくいですわな。<br />
結果的に、若い人たちは次々と身体を壊していった。<br />
私も膝を壊した。<br />
外科的診断では「運動厳禁・正座厳禁・革靴厳禁」というところまで壊した。<br />
三軸修正法の三宅安道先生のおかげで奇跡的に復活できたが、三宅先生に出会っていなければ、いまごろは杖にすがってよろよろと歩いていたはずである。<br />
自分自身の失敗が骨身にしみているので、どうやれば打突斬撃の蔵する巨大なエネルギーを解放しつつ、そのダメージを「放電」するかという技術的問題をずっと考えてきた。<br />
断片的にわかったことがいくつかある。<br />
一つは「手の内」が大きく関係していること。<br />
手の内の締めを変えることで、どうやら剣の斬撃のエネルギーは方向を変えるらしい。<br />
剣の場合は「物打ち」という、切っ先から三寸ほど下のところが最大の力を発揮するポイントなのであるが、そこにエネルギーは集中している。<br />
手の内を「斬り手」から「止め手」に変えると、このエネルギーの向きが変わる。<br />
物打ちから刀身を下って、右掌から身体の内側に流れ込み、胴を貫いて、左足裏から地面に「放電」する（ような感じがする）。<br />
よくわからないけど。<br />
というわけで、このところ手の内のことをいろいろ工夫しているのである。<br />
学生たちは非力な女性であるから、身体をうまく使う以外に剣の止めようがない。その点では、臂力にすぐれた男性よりもむしろ「術」を求める気持ちが強い。<br />
あれこれと思いつくことを実験しているうちにあっというまに時間が経って、合宿が終わってしまった。</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/02/23_1817.php</link>
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         <pubDate>Tue, 23 Feb 2010 18:17:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>出口なし</title>
         <description><![CDATA[<p>『日本辺境論』の書評がだいぶ前の「赤旗」に出ていた（昨日、アダチさんがファックスしてくれた）。<br />
いろいろな媒体に取り上げられたけれど、「赤旗」とはね・・・<br />
代々木の（けっこう）えらい党員知識人であるところのワルモノ先生と共著で『若者よ、マルクスを読もう！』（仮題）を執筆中であることは党本部のすでに知るところであろうから、「ウチダ本は代々木的にはOK」というご判断がくだったのかも知れない。<br />
私は右も左もなく、頼まれればほいほい寄稿する。<br />
国民協会でも（ボツになっちゃったけど）、『第三文明』でも、『月刊・社民』でも、『赤旗』でも、身体が空いていれば、取材も寄稿も「いいすよ」と引き受ける。<br />
私は政治イデオロギーによって人を差別しない。<br />
人々が固有の政治イデオロギーを奉ずるに至るには、余人には窺い知れぬ個人的ご事情というものがあって、それはやはりできる限り配慮せねばならないと思うからである。<br />
それに、聴けばたいてい「もっとも」な理由なのである。<br />
人は無動機的に何かをするということはない。<br />
私は人間が「どんなことがあっても主観的には合理的に生きようとする」その努力を「可憐」だと思うのである。<br />
おのれを合理化する努力を止めることができないという人間の根本的趨勢のうちに私は知性の最終的な可能性を見出す。<br />
老師は言われた。<br />
「知は一つの精神がおのれの外部にある別の精神に触れるのに使用しうる唯一の手段である。(Savoir comme unique moyen dont dispose un esprit pour toucher un esprit à lui extérieur)」(Emmanuel Lévinas, Difficile Liberté, Albin Michel, 1963/1976, p.49)<br />
老師の教えに従って、私は「おのれの外部にある精神」に対して、つねに（でもないけど）ささやかな敬意と深い好奇心をもって立ち向かうのである。<br />
というわけで『赤旗』に対してもフレンドリーである。<br />
でも、その書評にはちょっと不満である。<br />
私はふつう書評に対して反論ということをしないのであるが（しても意味ないし）、「そんなこと書いてない」ことを「書いてある」と言われると、ちょっと困る。<br />
評者は『辺境論』の所論をさくさくと紹介したあとに、こう書いている。<br />
「『とことん辺境でいこう』と提案する著者。一番じゃなくていい、ナマケモノでいこう、と。このあたりが売れる理由でしょうか。ただ、著者は辺境国の特徴を『他国との比較を通じてしか自国のめざす国家像を描けない』と指摘していますが、そんな日本のままでいいのか。新年、私たちの国の理想を意気高く考えたいものです。」（『赤旗』、1月10日号）<br />
私はあの本の中で「一番じゃなくていい、ナマケモノでいこう」なんて書いてない。<br />
そのまったく逆のことを書いているのである<br />
「一番二番」とか「怠け者、働き者」というのはすでに誰かが作った基準によって格付けされたランキング表があって、その中で自分のポジションはどこか「きょろきょろする」マインドにとっての主要関心事である。<br />
日本人は辺境民だから、そういうことばかりしている、とたしかに私は書いた。<br />
そして、本の中でも、繰り返し言っているように、「それは変だから、やめろ」と言っているのではない。<br />
「私たちはそういう国民だ」と言っているのである。<br />
「世界標準に照らして変だから、世界標準に合わせて『まとも』になろう」という発想そのものが徹底的に辺境的であると書いたのである。<br />
辺境民は辺境民であることを否定しようとするわずかによけいなみぶりによって、おのれが辺境民であることを露呈する。<br />
辺境民は無反省的に辺境的であることによって辺境的であり、辺境的でなくなろうとじたばたするによって辺境的である。<br />
「辺境民に出口はない」のである。<br />
だったら、もうとことん「それ」でいこうじゃないのと書いたのである。<br />
この十字架を負って生きましょうとご提案したのである。<br />
「『この十字架を負って生きる』というのは、どういうふうにすればいいんですか？」と訊く人に向かって、「あのね、人に訊かずに、自分で何とかすることを『十字架を負う』っていうの」と申し上げたのである（読者に失礼だからそうは書かなかったけど）。<br />
「一番」だとか「ナマケモノ」だとかいうのは、典型的に辺境的なワーディングである。<br />
そんな言葉を使っている限り、「出口がない」という事況そのものは永遠に意識化できない。<br />
その理路について書いたのである。<br />
「そんな日本のままでいいのか」というような<strong>典型的に辺境民的なワーディング</strong>に「いい加減、飽きたらどうですか」と書いたのである。<br />
人間の知性は定型に飽きるところからしか始まらない。<br />
自分が自分でしかないことの常同性に対する嫌悪からしか始まらない。<br />
そこからしか「外部にある精神」に「触れたい」という志向は生まれない。<br />
</p>]]></description>
         <link>http://blog.tatsuru.com/2010/02/20_0939.php</link>
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         <pubDate>Sat, 20 Feb 2010 09:39:13 +0900</pubDate>
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   </channel>
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