三島君とはずいぶん長い付き合いである。まだ彼が最初の会社につとめていた二十代後半の頃にお会いしたのだから、今から20年くらい前のことである。
その時に自己紹介の言葉として『僕は旅人です』といったのがとても印象的だった。仕事の話は何もしないで、三島君はそれまで旅した世界のあちこちの話を聞かせてくれた。おもしろい青年だなと思った。
おもしろい人とはまた会いたくなる。
本を書いて欲しいと言われたので「うん書くよ」と答えた。一緒に仕事をすれば、彼にときどき会える。この青年がどんなふうに成長してゆくのかを見届けたい気がした。
最初の共同制作の作品として大学院ゼミでの一年間のやりとりを録音して、それを三島君がまとめることになった。それが『街場のアメリカ論』(2005年)である。
その次の学期は大学院ゼミで教育をテーマに授業をしたので、それを素材にして『街場の教育論』を仕上げた。それが書き上がる頃に三島君は独立してミシマ社を立ち上げることになったので、この本はミシマ社の最初期のラインナップに並ぶことになった。
日本の出版界に「革命」を引き起こすことになったミシマ社のスタートにかかわれたことは僕にとっては「物書きとしての光栄」である。
それから長いおつきあいが続いた。『街場の文体論』、『街場の中国論』、『日本習合論』、『日本宗教のクセ』(釈徹宗先生との共著)など忘れがたい本をたくさんミシマ社から出して頂いた。これからもきっと三島君は「先生、ぜひ書いてほしいテーマを思いついたんです」と言って、いきなりやってくると思う。
ミシマ社の社是は本書でも書かれている通り「小商い」である。本を作ることはたしかに「商売」ではあるけれども、商売にも節度がなければならないと三島君は考えている。利益を追求したり、会社を大きくしたりすることは彼がミシマ社を始めた理由ではない。彼が作らなければ、他に作る人がいないような本を作ること。彼が発掘しなければ、他に見出す人がいないような才能を掘り出すこと。この方向性において、三島君は創業以来揺らぎがない。
方向性には揺らぎがないが(本書を読めばわかるとおり)三島君の会社経営のやり方はつねに揺らいでいる。一度決めたことでも、なんとなく気が乗らないと「あれはなし」と撤回する。どうして変更したのか、そのときにはうまく説明できない。
中心にある柱に揺るぎない人は、周辺の細かいことについては、どうしてそうなるのか、あまり説明してくれない。本人もよくわからないからだと思う。
僕は三島君をわりと近くからずっと観察してきた。劇的な方針転換がいくどかあったけれど、それについてご本人から「納得のゆく説明」を聴いた覚えがない。でも、僕はそんなことぜんぜん気にしない。端からみると「劇的な方針転換」なのかも知れないけれど、三島君自身はまっすぐ自分の道を歩いているからである。
「旅人」がどこで何をしているのかは、僕たちにはよくわからないけれど、彼が「旅人」であることは決して変わらない。
彼の旅に豊かな祝福がありますように。God speed you!
私見を述べるなら、「道徳」というのは「人として」ものごとにどう適切に対処するかという「行動知」のことであって、教科書的な知識として理解するものではないように思う。むろん「行動知」も、多くの場合は言葉を経由して入って来る。だが、その言葉は子どもたちの頭に入るのではなく、身体に浸み込む。
どうして、ある行為は適切で、ある行為は不適切なのか、その基準を子どもは知らない。知らないから「子ども」なのである。言葉で説明してもわからない。頭ではわからないことをわからせるためには身体に浸み込ませるしかない。
子どもにも子どもなりのこだわりがあり、良否の判断基準があり、好悪がある。それをいったん「棚上げ」にしてくれないと、他人の言葉は身体に入ってこない。子どもに「自分を開いて」もらうためには、「自己防衛システムを解除しても、君には不利益がない」と保証してあげなければならない。
かつて一度自分を開いて、他者の言葉を身に受け入れたことがあったが、そのときに特段の苦痛や不安を覚えなかった子どもはそれ以後「自分を開く」ということにそれほどこだわりをもたなくなる。でも、そのときに「自分を開いた」せいで、なんらかの傷を負わされた子どもは、それからあと「自分を開く」ことに恐怖を感じるようになる。
「学ぶ」というのは「自分を開く」ということである。自分を開くこと、自分にまとわりついていた「臆断(ドクサ)」を古い衣を脱ぎ捨てるように惜しげなく捨てること、それが「自己刷新」ということであり、学校教育で子どもたちが学ぶべきはこれに尽くされる。
他者の言葉に対して、防衛的に構えない機制を「無防備・無邪気(innocence)」と呼ぶ。
私が経験的に言えることは、この世の中を住みやすいものにする上で最も大きな貢献を果たすのは、「イノセントな大人」たちだということである。長じても、子どものような柔らかさ、無垢を失わず、笑顔で周囲の人たちをなごませ、人の言葉に耳を傾け、決して敵を作らない人たち、そのような大人たちが集団が生き延び「よきもの」を生み出すためには絶対に必要である。
だから、どうやって子どもがその「イノセンス」を失うことなく成長できるか。教育に携わる者が何よりも配慮すべきはこのことだと私は思う。
とりあえず私たちにできるのは子どもたちに学校にいる限り「無防備になっても大丈夫だ」と確約することである。「君がどれほど脆く、傷つきやすい状態になっても、誰も君を傷つけない。だから、臆せずに自己防衛の殻を脱ぎ捨てて、自分を開いてよいのだ。」教師が子どもたちに贈ることのできる最もたいせつなメッセージはこれだろうと私は思う。
でも、その言葉の意味は子どもにはわからない。だから、情理を尽くして語りかけるしかない。頭では理解できなくても、私たちが身を乗り出して話しかける言葉は子どもの身体には浸み込むはずだ。身体に浸み込んだら、今は理解できなくても、あるいは死ぬまで理解できなくても、その言葉は生き続ける。「理解できる言葉」と「共に生きる言葉」は違う。
もし道徳というのが子どもの倫理的成熟をめざす教科なのだとしたら(そうであることを願うが)、教師がなすべきは子どもたちに「自分を開く」仕方を教えることである。そして、それは、恫喝によっても利益誘導によっても査定の恐怖によっても教えることはできない。
成長への階段に続く扉のノブは内側にしかついていない。外から扉を開けて、子どもを連れ出すことはできない。子どもたちに内側から開けてもらうしかない。そのためには、子どもたちの中に「この人の話をもっとクリアーな音声で聴きたい」という願いが兆すまで、私たちはひたすら情理を尽くして子どもたちに語りかけるしかない。
寺子屋ゼミはあくまで「ゼミ」ですから、発表者に求められるのは「モノグラフ(monograph)」の提示です。論点は一つに限定すること。問題を提起し、それについて聴講生たちに十分な情報提供を行い、その論点について私見を述べること。
この間のゼミ発表を見ていると、最後の「私見を述べる」という点の詰めが甘いように思います。
この場合の「私見」というのは別にきわだってオリジナルな意見のことではありません。「私が言わないとたぶん誰も言いそうもないこと」です。必死で頭を絞らなくても、これは出てきます。ふだんだってそれと気づかぬうちにやっていることなんです。
自分が選んだテーマについて、あれこれ調べたり、考えたりしているうちに「ふと思ったこと(たぶん自分以外にはあまり思いつかないこと)」が「私見」です。
もしかすると、みなさんの中には「客観的な事実の摘示にとどめて、私見を述べないこと」が知的に抑制的なふるまいで、「よいこと」だと勘違いしている人がいるかも知れません。それ、違いますよ。「自分以外には誰も言いそうもないこと」だけが学術的な「贈り物」になります。学術というのは集団的な営みです。あらゆる時代のあらゆる人たちがこつこつと積み上げた「煉瓦」でエンドレスに建物を作るようなものです。大きな岩を運んでくる人もいるし、岩と岩の間の「隙間」にぴったりはまる小石を持って来る人もいます。岩の大小はさしあたりどうでもいいんです。自分にしかできない贈り物をすること。それが学術的営為ということです。僕はみなさんに、みなさんだけの「小石」を見つけて欲しいと思います。
知性の活動とは何かということについて、多くの賢人は同じことを言っています。それは「一見何の関係もなさそうな事象の間の関係性を発見すること」です。ある出来事やある言明に触れたときに、「ふと、あることを思い出して、『これって、あれじゃん』と思うこと」。それが人間知性の働きです。
That reminds me of a story 「そういえば、こんな話を思い出した」
これが人間知性の本質だとグレゴリー・ベイトソンは『精神と自然』の中で言っております(そうは言ってないけど、たぶんそう言いたかったんだと思います)
みなさんが、調べものをしているうちに、何かが「ヒット」して、「そういえば・・・」と一つお話を思いつくこと、それが知性の活動です。そのとき思いついた「お話」が「私見」です。
問題はこの主語の that なんです。これが曲者です。
文法的にはこのthat は「それまで前段で述べられたことのうちの何か」なんですけれど、それが「何」であるかは明示されない(本人にもわからない)。それでいいんです。というか、それがいいんです。
あるテーマについて調べようと思った。いろいろ資料を調べているうちに、ふと「これって、あれじゃん」と思った。それを発表してくれればいいんです。いったい何がトリガーになってそんなことを思いついたか、本人にさえよくわからないこと、それが「誰も言いそうもないこと」であり、実は余人を以ては代え難いみなさんの「オリジナルな知見」なんです。
来季も寺子屋ゼミで楽しくやりましょう。
]]> みなさん、こんにちは。内田樹です。
今回の本も、コンピレーション本です。あちこちの媒体に書いたものをエディットしてもらって一冊にしました。タイトルをどうしようか考えました。最初編集者からは「仮題」というもの(『不思議の国、ニッポン』というのです)が提示されたのですが、なんだかぴったり来ないなあ・・・と思って、「ちょっと考えさせてね」と言ってお待ち頂きました。この「まえがき」を書いている段階でも、実はまだ正式タイトルが決まっていないのです。
タイトルに必要な条件とは何でしょうか。今ちょうどそれについて考えているところですから、「まえがき」に代えて、それについて考察してみたいと思います。そして、この「まえがき」を書き終える前に、タイトルを思いついたら、それを採用することにします。作品の生成過程そのものを作品化するって、なんだか懐かしい「60年代」みたいですね。
そういえば、このところ僕のところに来る仕事って、あの「懐かしい60年代、70年代」を回顧するインタビューが多いんです。
つい先ほども「1972年の時代の空気についてインタビューしたい」というオファーがありました。その年に『木枯らし紋次郎』と『必殺仕事人』の放映が始まったんだそうです。そういうアウトローをヒーロー視する時代の空気があったんでしょうかという質問が書かれていました。企画書を書いているのは40歳くらいの人なので、もちろん52年前の時代の空気なんか知りません。僕が40歳の時(1990年です)の52年前というと1938年です。盧溝橋事件があり、日本軍が上海に侵攻し、暮れには南京大虐殺があった年です。もし、その頃の「空気」を知っている73歳の古老に40歳の僕がインタビューする企画があったとしたら、どうなったでしょう。「その頃の日本人て、いったいどんな気分だったんですか?」と僕が訊くと、「戦後生まれの若い人にはわからんじゃろうがのう・・・」というふうに古老は語るんでしょうけれど、彼が何を語るか僕には想像もつきません。
ともかく、僕ももうそういう年回りになってきたようです。ここ数年は「現代史の生き証人は語る」というタイプのインタビューが増えました。1969年の三島由紀夫vs東大全共闘の時代の駒場の空気はどんなでしたかとか、羽田闘争で山崎博昭君が亡くなった時に何を感じましたかとか、早稲田大学で川口大三郎君が殺された時にはどう思いましたかとか、いろいろ訊かれます。
もちろん、僕に同時代を代表して発言する資格なんかないのですが、その頃の政治のことについて、僕の同世代の人たちはわりと口が重いんです。その中にあって「何を訊いても機嫌よくインタビューに応じてくれる古老リスト」みたいなものがメディア業界にはひそかに流布されていて、そのリストの上の方に僕の名前が書いてあるんじゃないかという気がします。
この本に収録されているのはだいたいが時事的なトピックについての僕の私見ですけれども、僕の年齢を考えると、これらも「同時代人のコモンセンス」とはほど遠いものではないかという気がします。きっと読者も「へえ、そうなんだ。昔の人は同じものを見ても、ずいぶん違う感想を持つんだなあ」という意外性を求めて僕の本を手に取っているんじゃないでしょうか。
僕が子どもの頃に『時事放談』というテレビ番組が日曜朝にありました(山下達郎さんと大瀧詠一さんが20年以上にわたってラジオで続けていた『新春放談』はそのパロディなんです)。僕が観ていたのは小汀(おばま)利得さんと細川隆元さんのお二人がやっていた時です(ビートルズを「乞食芸人」と呼んで、「日本武道館なんか貸すな、夢の島でやれ」という発言で大炎上した頃のことです)。僕は中学生で、もちろんビートルズの大ファンでしたけれど、番組を見て、げらげら笑っていました。「お爺さんたちって、ほんとに世界の見え方が違うんだな」と思ったのです。
でも、それから半世紀以上経っても、この番組のことはずっと覚えているんです(山下達郎さんたちも)。それはこのような「世界の見え方が違うお爺さん」たちの言葉のうちに、何か少年の心に刺さるものがあったからだと思います。
僕の物書きとしての立ち位置も、たぶんぼちぼち「時事放談」的なところに収まりつつあるのではないかという気がします。時事的なトピックを扱うけれども、切り取り方がまったく「現代的」ではない、という。別にそんなことを意図しなくても、気がついたら同時代から「浮いて」しまっている。だって、先ほどからいくつか事例を引きましたけれど(『木枯らし紋次郎』から『時事放談』まで)、若い読者はどれ一つとして知らないでしょう? 読者に何かを説明しようとして具体的な「喩え」を探してきても、そのほとんどが「誰も知らない話」になる。これがどうも現在における僕の物書きとしてのきわだった個性ではないか、そんな気がしてきました。それならそれで、肚を括って、「古老の語り」に徹しようじゃないか。
この本と同時期に並行して、やはり新聞や雑誌に寄稿した短文を集めたコンピレーション本を作りました。そちらは『凱風館日乗』というタイトルにしました(永井荷風先生の『断腸亭日乗』を借用いたしました)。古老の語りですから、それくらい古臭い方がつきづきしいのではないかと思いまして。
さて、本題に戻って、タイトルの条件ですけれど、一番たいせつなのは「覚えやすい」ということですね。本屋に行って探す時にタイトルを思い出せないと困ります。昔、どういうタイトルが覚えやすいか考えた結果、「五七調」が覚えやすいのではないかと思い至りました。『ひとりでは生きられないのも芸のうち』とか『私家版・ユダヤ文化論』とか『村上春樹にご用心』とか、実は五七調なんです。
あと、書店員さんに訊く時に、あまり言いにくいタイトルは困ります。昔、林真理子さんの『花より結婚きびダンゴ』という本が出た時に書店に買いに行ったんですけれど、周りにお客さんがいて、書店員さんに向かってなかなかそのタイトルが言い出せなかったことがありました(ちゃんと買えましたけど)。
もちろん本の内容を一言で言い表しているようなタイトルでなければなりません。でも、タイトルを見ただけで中身が想像がついてしまっては、それはそれで困る。謎めいていた方がいい。中沢新一さんの『チベットのモーツァルト』なんて、インパクトありましたよね。どんな中身か想像もつかない。トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』もそうですね。どうやってティファニーで朝ご飯を食べられるのか・・・つい考え込んでしまう。矢作俊彦さんの『マイク・ハマーに伝言』も素敵なタイトルでしたね。誰がどうやってマイク・ハマーに伝言を伝えるんでしょう。高橋源一郎さんの『ジョン・レノン対火星人』もすばらしいタイトルですね。いったい、ジョン・レノンと火星人は何で対決するのか。囲碁かじゃんけんかにらめっこか・・・想像もつきません。やはりタイトルは「アイ・キャッチング」であり、かつミステリアスでなければならない。
難しい条件ですが、これでだいたいタイトルの条件は揃いました。あとは思いつくだけです。こういうのはぱっと頭に浮かんだのがいいのです。はい、決まりました。「だからあれほど言ったのに」です。とりあえず五七調という条件はクリアーしました。どういう意味ですかとか、そういう硬いことは訊かないでください。「なるほど、そうですか」と静かに笑って受け入れてください。
では、「あとがき」でまたお会いしましょう。
「あとがき」
最後までお読みくださって、ありがとうございました。いかがでしたか。
素材はいろいろな媒体に書いたり、講演録を文字起こししたりしたものです。文体も想定読者も違うテクストをまとめたので、読みやすく整えるために、だいぶ加筆しましたので、3分の1くらいは「オリジナル書き下ろし」です。
ただ、時事的なもの(ウクライナ戦争やガザの虐殺、あるいは人口問題)については初出のままにしてなるべく手を入れないようにしました。ですから、数値的データその時点のままになっています(GDPもまだドイツに抜かれる前で「世界三位」です)。その時点での情報に基づいて考えたことなので、後知恵で手を入れると、話の筋目が通らなくなるかも知れませんから、そのままにしてあります。「なんだよ、ずいぶん古い話してるなあ」という感想を持たれたかも知れませんが、そういう事情なのでご海容ください。
いろいろな媒体に二年くらいの間に書き散らしたものですけれども、通読してみると、中心的なテーマは「日本の未来を担う人たち」をどうやって支援するか、ということに尽くされているように思いました。とくに子どもたちを「決して傷つけず、『無垢な大人』に育て上げる」ということが今の日本人にとって最優先の課題ではないかと思います。
でも、今の日本の大人たちは(家庭でも学校でも)、子どもたちを怯えさせ、萎縮させ、硬直させることに熱中しているように僕には見えます。どうして、そんなことをするんでしょう。
権力の側にいて、管理する人たちがそうするのはわかります。でも、「政治的に正しいこと」を訴える人たちも、しばしば人々を「怯えさせ、萎縮させ、硬直させる」ことに熱中しています。
でも、声を大にして申し上げますけれども、処罰されることの恐怖からは「よきもの」は何も生まれません。創造のためにはある種の無防備さがどうしても必要です。「アジール」というのは、「無防備であっても傷つけられるリスクのない場」のことです。社会全体が「アジール」である必要はありません。でも、あちこちの片隅にそのような「ミステリアスな暗がり」がある社会の方がみなさんだってきっと暮らしやすいと思います。
2024年2月
みなさん、こんにちは。内田樹です。
『本の本』は僕があちこちに書いた書物と図書館についてのエッセイを朴東燮先生が選び出して、訳してくださった「コンピレーション」です。
素材になったものには書き下ろしもありますし、講演録もありますし、ブログに書いた身辺雑記もあります。出自はいろいろです。でも、全部「本の話」です。
まず、これだけの素材を集めて、一冊の本にまとめてくださった朴先生のご尽力に感謝申し上げます。ほんとうにいつもお世話になっております。
この本は出版危機と電子書籍をめぐる話から始まって、図書館の話、学校教育の話で終わります。そして、ご一読して頂ければわかったと思いますが、僕の本についての考え方は、かなり変わっています。
僕は「本を買う人」と「本を読む人」を分別して、用事があるのは「本を読む人」であると断言しておりますが、こういう立場を公言する人は、たぶん日本の職業的な物書きの中にはほとんどいないと思います。韓国ではどうなんでしょう。たぶん事情はそれほど変わらないと思います。
僕は中学生の時にSFの同人誌をガリ版刷りして出版した時から一貫して、道行く人の袖を引いて「お願い、読んで」と懇請するという姿勢を通してきました。大学生の時は、政治的なアジビラやパンフレットをやはりガリ版刷りで作ってキャンパスで配布していました。学者になった後も、最初の頃の著作はどれも自費出版です。
僕の場合、「市場のニーズ」がものを書く動機になったことはありません。だって、僕の書くものについての「ニーズ」なんてないんですから。誰も「書いてくれ」とは言ってくれない。でも、こちらにはどうしても言いたいことがある。だから、自分で書いて、刷って、配る。それが僕の基本姿勢です。
ですから、僕はこれまでずっと市場原理とは原理的には無縁でした。
市場原理に従うならば、「こういうものを読みたい」と思っている読者の需要がまずあって、それに見合うような商品が供給されるという図式になります。
でも、僕はそんなのは「嘘」だと思います。
いや、嘘というのは言い過ぎでした。たしかに、出版にはそういう需給関係という側面もあるかも知れない。
でも、本が書かれる前に、その内容を先取りして、「こういうものが読みたい」と思う読者の側の潜在的需要なんてほんとうにあるんでしょうか。
僕は「ない」と思う。
そうではなくて、まず本が書かれて、それを読んだ読者が「こういうものが読みたかったんだよ!」と歓声を上げるというのがほんとうの順序なのではないでしょうか。
そして、もちろん「こういうものが読みたかった」という読者のリアクションは読んだ後に読者自身が作った「物語」です。自分がひさしく求めていた「読みたいもの」の条件をぴたりと満たす書物についに出会った...という「物語」ほど僕たちを高揚させるものはありませんからね。僕たちは本に出合った後に、「その本を久しく待望していた私」というものを造形するのです。事後における記憶の改造をしているんです。
もちろん、あわてて言い添えますけれど、それはぜんぜん悪いことじゃないんですよ。人間はそうやって記憶を書き換えながら生きてゆく生き物なんですから、それでいいんです。
「こんな本が読みたかった」というのは、読んだ後にしか出てこない言葉なんです。だから、市場原理主義者であるところの出版人たちがまるで「木」や「石」のような自然物であるかのように「読者のニーズ」という言葉を口にすることに、つよい違和感を覚えていたのです。
それは書物が書かれるより前に自存するものではなく、書物が書かれた後に創り出されるものなんですから。
僕は自分の執筆活動のことを「伝道」だと思っています。誰も頼んでないのに、その辺の路上で「道行くみなさん、私の話を聴いてください」と呼ばわるあの「伝道師」です。誰にも頼まれていないし、誰にも求められていないのに、身銭を切って、「申し上げたいこと」を申し上げる人です。
僕は自分のことを「伝道師」だと思っています。
僕はあるときはレヴィナスの伝道師であり、あるときはカミュの伝道師であり、また村上春樹の伝道師であったり、橋本治の伝道師であったり、大瀧詠一の伝道師であったり、小津安二郎の伝道師であったり、伝道することはさまざまですが、どれも誰かに頼まれて「お金を払うから、書いてください」と言われたものではありません。読む人がいようがいまいが、この人たちの偉大さについて、私にはぜひ申し上げたいことがある。だから書く。
僕の場合、たまたま結果的に書いたものが商品としても流通して、お金を稼ぐことができるようになりました。でも、僕は生計を立てるために本を書いたのではありません。本を書いて、それだけで暮らしていけたらどれほど楽しいだろうと夢想したことはありますけれど、それはただの「そうなったらいいな」という夢に過ぎません。生計が立とうが立つまいが、そんなことは関係ない。誰も買ってくれないなら、自分で身銭を切ってお配りする。
だって「伝道」なんですから。
使徒たちが、キリストに向かって「あの、僕たちも生活というものがあるんで、先生の教えを伝道するに際して、先生からも少しバイト代を出してもらえませんか」と言ったり、会堂で聴衆に「はい、これから伝道を始めますが、僕たちにも生活というものがあるので、教えを説くに際してですね、お聴きになる方には事前に課金させて頂きたいと思います」と言ったりする風景を想像できますか。
伝道には市場もないし需要もないし対価もない。そういうものなんです。僕はそういうつもりで半世紀以上「物書き」をしております。
これはそういう「変な人」の書いた本についての本です。
もし、この本を読んだ人が「こういうものが読みたかったんだ!」と言ってくださったとしたら、僕にとって、それほどうれしい言葉はありません。
A:割りと切実なご質問でした。
他者からの救難信号を聴き取る人のところにじゃんじゃん「助けて」という支援要請が集まってきて、キャパシティーを超えた場合はどうしたらいいんでしょう。
これはまさに僕の現状みたいですね。いろいろな人から「ちょっと手を貸してください」ということを言われます。「頼まれたらいやとはいわない」ことを信条としていますので、だんだん仕事が増えます。
頼まれたことを「ほいほい」やるというのも、ある種の「贈与」ですから、これは「頼んだ方」には「反対給付義務」が生じます(その話は「贈与」のときにしましたよね)。この「反対給付義務」を怠るとその人の身には「悪いこと」が起きる、とひろく信じられている。だから、ふつうは反対給付義務を果たします。それは「お返しに、なにかこちらの負担を軽減してくれる」というかたちをとるのが「ふつう」です。
「こちらの負担を軽減してくれる」というのは「僕がしなくちゃいけない面倒ごと」を代わりにやってくれるということです。実際に、僕のためにたくさんの人が「面倒ごと」を代わりにやってくれています。道場のお掃除も、IT環境の管理も、さまざまな年中行事の企画や実行も、人間関係の悩み相談も、仕事の紹介も、商品やサービスの「マルシェ的交換」も、僕がぼおっとしている間にみんながやってくれています。
ですから、僕のところに来る救難信号は「僕宛て」で、たぶん「他の人では引き受けられないもの」だと思います。ですから、基本的には「はい」と返事をすることにしています。
たしかに仕事は増えるんですけれども、それでも引き受けてしまうのは、なんというか、仕事をしていると、自分がちょっとずつ豊かになっていると感じるからです。
「贈り物」をすると、すこしずつ自分が豊かになる。ただ、僕を豊かにする「富」は贈ったものと同じ種類のものじゃないんです。まったく別の種類の「富」です。
僕は人間が生きてゆくためには相互支援共同体というものがどうしても必要だと考えています。そのような共同体に帰属していないと、個人では人は生きて行けません。
その共同体の制度設計の基本ルールは「最も弱い人が自尊感情を持ってメンバーでいられること」です。
ですから、そういう共同体では「フリーライダー」というものは概念上存在しません。
フリーライダーというのは「共同体のリソースを分配されるだけ分配されるけれど、自分からは何も差し出さない人」のことです。
「フリーライダーはいない方がいい」というふうに、多くの人が思っています。
思っているどころか、「フリーライダーを根絶する」ことが政治的正しさだと信じて、「生活保護受給者」をいじめたり、undocumented な在留外国人を「国に返せ」と言ったりする人の方があるいは多数派かも知れません。
でも、僕はこれは端的に間違っていると思います。共同体は、「標準的な個体」ではなく、「最も弱い個体」を基本に制度設計されるべきだと思っているからです。最も弱い個体でも気持ちよく暮らしてゆけるように制度を調える。その方が共同体は強靭なものになるからです。
だって、フリーライダーがもたらす損失なんて、たかが知れているんです。
企業の場合だったら、「給料分の働きをしない」くらいのことです。測定可能ですし、実際はわずかな金額なんです。
生活保護の不正受給だって、金額ベースで0.38%です。
これをゼロにするために制度をいじる方がはるかにコストがかかります。
日本育英会の奨学金は、返還しない滞納者が5%いるという理由で2005年に廃止になりました。95%の奨学生はきちんと返還していたのに、「奨学生は潜在的なドロボーである」と言い出した人がいて、「そうだそうだ」と唱和する人がいて、制度そのものがなくなりました。その結果、日本の学生たちは在学中から勉強する時間を削って必死でバイトをし、卒業後も奨学金返還のために自分のしたい仕事にも就けず、結婚もできず、子どもも作れず・・・というかたちで日本全体が貧しくなり、学術的生産力も激減しました。
フリーライダーが得たわずかな金銭を奪還しようとしたせいで、システム全体が傾くことになったのです。それより奨学金の返還義務そのものをなくした方が、日本社会全体ははるかに大きな「富」を得たはずです。
どんな組織も10%程度の「フリーライダー」を含んでいます。「分け前分働かない人たち」です。これは減らしようがない。でも、同じように10%程度の「オーバーアチーバー」も含んでいます。「分け前分を超えた利益を集団にもたらす人たち」です。この人たちのオーバーアチーブメントはしばしば彼らに分配される「富」の何倍、何十倍にも達します。
だったら、「フリーライダーをゼロにする」制度改革に血道を上げる暇があったら、「オーバーアチーバーに気分よく仕事をしてもらう環境を整備する」方が、費用対効果は圧倒的によい。
「フリーライダーを組織のフルメンバーとしてにこやかに迎え入れ、オーバーアチーバーには好きにさせておく」という「メンバー全員が気分よく過ごせる」組織を設計するのが、いちばん賢いということになります。
僕はそう考えています。これは頭でこねくりまわして出した結論ではなくて、経験から得られた知見です。
たいせつなのは、「好きにやりたい人に好きにさせる環境作り」です。
もちろん、「好きなことをさせてください」と言ってくる人すべてがでオーバーアチーバーではありません。でも、いいんです。7%のオーバーアチーバーが集団内にいれば、集団はそこそこ機嫌よく存続できます。15%もいたら、もうすごい生産力です。それでいいんです。
たいせつなのはオーバーアチーバーの「とりこぼし」をしないことですから。
オーバーアチーバーの「価値」は、その人ひとりでどれだけたくさんのアンダーアチーバーを扶養できたかで考量されます。
そういうものでしょ?むかしから。
たくさんの家族を養い、みんなにちゃんとした服を着せて、ちゃんとした教育を受けさせることができた人は、みんなから「立派な人だ」と評価されます。
「おまえよくあんな甲斐性のない連中をだまって食わせてるな。あんなの棄てちゃって、一人で贅沢に暮らしたらいいじゃん」なんていう人はいません。
それと同じです。
僕は自分の共同体におけるオーバーアチーバーであろうとしています。どんな共同体にも必ず多少のフリーライダーやアンダーアチーバーを含んでいます。でも、僕はそんなことぜんぜん気にしません。だって世の中ってそういうものだから。それぞれ「役割」というものがあるんです。僕は、できるだけたくさんのメンバーが自尊感情をもって、愉快に過ごせるような「場」を立ち上げることが自分に託されたミッションだと思っています。
救難信号があちこちから来るというのは、「君はそもそもオーバーアチーバーなんだから、自分の責務を果たしなさいね」というお知らせであって、それはにこやかに「あ、そうですか」と受信すればいい。僕はそう思います。
君が受け取っている救難信号が具体的にどんなものか僕にはわかりませんけれど、「助けて」とひとに言われるというのは、とても「よいこと」なんです。それだけは覚えておいてください。
そのときに君がした努力への「お返し」は、別のときに、まったくおもいもかけないかたちで戻ってきます。贈与のシステムはそれくらいには信じても大丈夫です。
僕は本というかたちはなくなることはないと思います。やはりこれは人類の偉大な発明です。情報媒体としてこれにまさるものは存在しないと思います。
情報検索の仕方にはランダム・アクセス(random access)とシーケンシャル・アクセス(sequential access)の二種類があります。好きなところにいきなりアクセスできるのが「ランダム」、最初から順番に「当たる」まで検索するのが「シーケンシャル」。紙の本はランダム・アクセスとシーケンシャル・アクセスの両方が可能な媒体です。最初から頁をめくって最後まで読んでもいいし、読みたいところをぱらりを開いてそこだけ読んでもいい。
とくに紙の本はランダム・アクセスにすぐれています。別に頁数を覚えていなくても、「北側の書架の上の方にある赤い表紙で、真ん中へんの、頁の端が折り返してあって、何度も読んだので手垢がついてるところ」というようなアバウトな検索が紙の本の場合は可能です。
もし、僕の蔵書(1万冊ちょっと)がぜんぶ電子書籍化されていたら、書斎は広々として気分良いでしょうし、本を探す手間もかからないとは思いますけれど、「便利だな~」と言えるのは平時だけであって、「何か災害があった時」に電子書籍ではどうにもなりません。
僕が「本はすごい」と思うようになったきっかけは1995年の震災のときです。マンションが傾くほどの被災状況でしたので、家具はほとんど倒れ、当然本棚も倒れました。スチール製の本棚はぐにゃぐにゃにねじまがってもう本棚としては使えなくなりました(全部棄てました)。でも、本は無事なんです。表紙が傷んだものはありましたけれど、製本がばらけたり、破れたりして読めなくなったという本は数千冊の蔵書のうち一冊もありませんでした。それに、だいたい「並べていた通りに床に落ちていた」ので、探している本はすぐに見つかりましたし、新しく本棚を買ってからもとに戻す作業も簡単でした。
大学の研究室の本棚は作り付けだったので、本棚は壁に貼りついていて、本だけが床に散乱していました。これも数時間でもとに戻すことができました。
うちはさいわいすぐに電気が通じて、灯りが使えたのですが、かりに電気が通じてなくても、本は昼間なら外光だけで読めます。これが電子書籍だったら、充電が切れたところで「おしまい」です。電気が通じるまで読めない。もし、長期にわたって停電状態が続くなら、インフラが復活するまで、数週間、数か月、「本なし」で暮らさないといけない。僕のような「活字がないと生きた心地がしない」人間にとって、それはまことにつらいです。
そのときに紙の本というのはほんとうに「危機耐性が高いな」としみじみ思いました。洪水がきて、本がびしょぬれになっても、外で乾かせば、読めるようになる。さすがに火事で燃えたらおしまいですけれど、それ以外の自然災害に対しては紙の本は強い。
便利さということで言えば、電子書籍の方がたしかに便利です。僕も電車の中で本を読むときは電子書籍です。重度の活字中毒なので、以前は旅に行く時には、途中で読む本がなくなったらどうしようと思って「予備の本」をニ三冊鞄に入れて旅をしたものですけれども、電子なら携帯で読めますから、荷物はずいぶん軽くなりました。これはすごく助かりました。それでも、うっかり充電器を忘れてしまうと、電気が切れたところで読めなくなってしまう。
電子書籍は平時仕様です。それは「非常時には使えない」ということです。でも、自然災害も、戦争も、テロや内乱も、いつ起こるかわかりません。そのときに「本が読めない状態」が長期にわたって続くということに、僕は耐えられません。
そういう人間は結局紙の本を手離さないと思います。
それに電子書籍は手作りすることができませんが、紙の本なら疑似的なものであれば、自分で作れる。白い紙に鉛筆かペンで文字を書いて、それを綴じれば、「本のようなもの」は作れる。もうほんとに何も読むものがなくなったら、僕はたぶん自分で本を書きます。そして、それを読みます。他の人に読んでもらうこともできる。
その気になれば、手作りできるというのも、紙の本の最大の強みでしょう。
今から60年ほど前、中学生の頃、僕はガリ版を切って、自分用の小さな印刷機で同人誌を作って、友だちに配布していました。自分が読みたいけれども、誰も書いてくれないし、どこにも売っていないような本は自分で作るしかないというのは、思えば、13歳くらいからあと、僕の基本姿勢でした。
大学生のときは政治的なパンフレットをたくさん書きました。これもガリ版刷りです(ということは停電しても平気ということです)。ときにはずいぶん長いものを書きました。
大学を出て10年くらい後に、親友の平川君の家に遊びに行ったときに、彼が押し入れの奥から黄ばんだ紙束を取り出してきて、「これ書いたの内田だろ」と訊いたことがありました。
読んでみたら、1972年くらいの東大駒場の学内の学生運動の分析がなされ、そこでこれからどのような政治潮流を創り出すべきかが書いてありました。遠い昔のことなので、そこに書かれていることの意味はもうさっぱり分かりませんでしたけれど、十行ほど読んだところで「これを書いたのはオレだ」ということがわかりました。ナントカ委員会という名だけがあって、個人名は書いてなかったんですけれど、わかりました。たかだか100部くらいしか刷らなかったのですけれど、それが人の手から手へと渡って、早稲田大学のキャンパスで平川君の手に落ちた。
紙の力って、けっこうたいしたものだなと思いました。ふつうはそんなもの、もらってもすぐにゴミ箱に捨ててしまうんですけれど、読んで「これ、おもしろいな」と思った人がいて、「これ、読んでみろよ」と言う言葉と一緒に人から人へと手渡しされて、東京都内を20キロくらい移動して、平川君に届いた。
そういうことはたぶん電子書籍やネット上に書かれたことについては、あまり起こらないような気がします。10年以上前に書かれたネットテクストを誰かがだいじに保存しておいて、友だちに見せるというようなことって、たぶんないような気がします。でも、紙だとある。
先日、学生時代に平川君といっしょに出していた同人誌「聖風化祭」のバックナンバーを友だちが「本棚の整理をしたら出て来たよ」と言ってもってきてくれました。50年前に出したものです。よくそんなものが残っていたなあと思います。紙の本の保存力はすごいと感心しました。
文字を読むメディアにはいろいろな条件が求められると思います。いまはほとんどの人が「利便性」と「価格」だけでそのメディアの優劣を決めています。でも、メディアにとって、ほんとうにたいせつなのは、「風雪に耐えて生き延びることができる」と「誰でもその気になれば手作りできる」ことの二点ではないかと思います。その点で紙の本にまさるものを人類はまだ発明していないと思います。
ある雑誌から「大阪でどうして維新はあれほど支持されているのでしょうか」という取材を受けた。同じ問いは10年以上前から繰り返し受けている。そのつど返答に窮する。維新は地方自治では失政が続いているし、党員の不祥事も止まらないのに選挙では圧勝するからである。
コロナ禍で大阪府は死者数ワースト1だった。看板政策の大阪都構想は二度否決された。全長2キロ「道頓堀プール」で世界遠泳大会を開催した場合の経済波及効果は「東京五輪を超える」と堺屋太一氏は豪語した。でも、資金が集まらず最後は80メートルにまで縮小されたがそれもかなわずに放棄された。学校と病院の統廃合が進み、公立学校と医療機関は今も減り続けている。管理強化の結果、教員志望者が激減して、学級の維持さえ難しくなっている。市営バスの運転手の給与カットは橋下市長が最初に行った「公務員バッシング」だったが、運転手が不足し、バスの減便・廃線が起きている。来年の大阪・関西万博もおそらく歴史的失敗に終わり、重い財政負荷を住民に残すことになるだろう。
どの施策を見ても、市民府民にとっては行政サービスの劣化をもたらすものばかりである。にもかかわらず大阪の有権者たちは維新に圧倒的な支持を与え続けている。なぜなのだろう。
もう17年前になるが、橋下徹氏が大阪府知事に立候補した時に、神戸女学院大学のゼミの学生たちに「彼に投票するかどうか」訊いたことがある。12人中10人が「投票する」と答えた。理由を尋訊ねたら「すぐに感情的になる」「言うことが非論理的」「隣のお兄ちゃんみたいで親しみが持てる」という答えだった。
なるほど。自分たちの代表としては自分たちより知性徳性において卓越した人ではなく、「自分たちと同程度の人間」がふさわしいと彼女たちは考えていたのだ。確かに民主主義の妙諦はそこにある。
アレクシス・ド・トクヴィルは『アメリカの民主主義』の中で、アンドリュー・ジャクソン大統領について「その性格は粗暴で、能力は中程度、彼の全経歴には、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない」というにべもない人物評を記している。だが、そのジャクソン将軍をアメリカ人は二度大統領に選んだ。
「民衆はしばしば権力を託する人間の選択を誤る」とトクヴィルは書く。でも、それでいいのだ、と続ける。重要なのは、支配者と被支配者の利害が相反しないことだからだ。「もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんどの用がなく、才能は有害になろう。」
卓越した政治的能力を持ち、有徳な統治者は、民衆の意に反しても「自分が正しいと信じたこと」を断行することができる。実際にその能力を行使するかも知れない。それよりは徳性才能において民衆と同レベル程度の人間を統治者に選ぶ方が安全だ。彼らは有権者の意に反して「自分が正しいと信じたこと」を断行することはしないはずである。逆に、「こんなことをしてもろくな結果にならない」とわかっていても、やると有権者が喜ぶことならやる。
これはポピュリズム政治の本質を衝いた卓見だと思う。
大阪の有権者たちはトクヴィル的な意味ですぐれて「民主主義的」なのだと思う。
利己的であったり、嘘をついたり、弱いものいじめをしたりするのは「誰でもすること」である。「誰でもすることをする政治家」こそが民衆の代表にふさわしいというのはロジカルには正しい。
果たして、大阪のこの「民主主義」はこれからどういう社会を創り出すことになるのか。私は深いい関心をもってそれを見つめている。
さあ、これが最後の質問ですね。これもまた、日本のメディアから一度も訊かれたことのない問いです。せっかくの機会ですので、真剣にお答えすることにします。
僕が長期にわたって専門的な訓練を受けたのは、20世紀のフランスの文学・哲学の研究と、武道(合気道)の二つの領域です。この二つについては「それでご飯が食べられるくらい」の訓練は受けてきました。
フランス文学・哲学についての業績はレヴィナス三部作(『レヴィナスと愛の現象学』、『他者と死者』、『レヴィナスの時間論』)と『前―哲学的』に収録されたいくつかの学術論文があります。『私家版・ユダヤ文化論』も長年にわたる思想史研究の成果ですから、学術的業績にカウントしてよいと思います。助手時代から書いた学術論文はその多くがそのあと単行本として出版されました。中には賞を頂いたものもありますから、学者としてはまことに恵まれた人生だったと思います。
ただ、僕はフランス文学・哲学の研究者としては評価があまり高くありません。いや、正直に「低い」と言った方がいいですね。僕がメディアに出る場合、つけられる肩書は多くの場合「思想家・武道家」です。「翻訳家」と紹介される場合もありますし、「評論家」とか「哲学者」という肩書を付けられたこともあります。でも、「仏文学者」という肩書でメディアに登場したことは過去に一度もありません。なぜ日本のメディアは僕を「仏文学者」として認定してくれないのでしょう。これはメディアの側にやはり一つの暗黙の合意があるのだろうと僕は思います。僕は「思想家」や「評論家」ではあっても、「学者」ではないという合意です。
なぜ、僕は学者としては認知されないのでしょうか。
これは友人の研究者から聞いた話です。彼が学会のあとの懇親会で若手研究者たちとおしゃべりしているときに、たまたま僕のことが話題になったそうです。そのときに、40代の研究者たちが口を揃えて「内田はダメだ」という辛い評価を下したそうです。友人は興味がわいて「どうして?」と訊いたら、「自分の専門外のことに口を出し過ぎる」という答えだったそうです。
たぶん、この評語は、僕についてついてまわるものだと思います。なぜ、ひとつの専門領域に自分を限定せずに、あれこれと口を出すのか。彼らのその言い方には「怒り」に近いものが感じられます。
たぶん僕は「ルール違反」を犯しているのだと思います。それは若い人たちも、研究者・学者として生きることを選んだ時点で受け入れたルールです。それを受け入れないとアカデミアでは生きていけないと思った。でも、僕は「ルール違反」を犯しながらなお大学の教師をしたり、研究書を書いている。内田のケースはあくまで例外的であり、本来学者として許される生き方ではない。そういう暗黙の合意があるのだと思います。僕の生き方をアカデミアに対する敬意の欠如だとみなすなら、彼らの「怒り」もわかります。
では、僕が犯している「ルール違反」とは何か。
それは僕が研究対象について「一望俯瞰的」な仮説的立場をとらない/とることができない、ということにあるのだろうと思います。
学術論文において、主語は「私たち(We/Nous)」を用いるのがふつうです。それは研究を導いているのは、個人ではなく、ある種の「集団的な知性の働き」のようなものだとされているからです。抽象的で、透明で、いかなる主観性からも離脱し、もちろん身体も持たない「私たち」が研究の主体に擬されている。そして、この身体をもたないし、個人史も持たない「私たち」は高みから、自分自身の研究の論程を一望俯瞰している。
これが学術論文を書く時の基本的な作法です。朴先生もそういうアカデミアのルールは熟知されていると思います。
ですから、論文の「序文」において、「私たち」は、これから自分が行う研究の全行程を鳥瞰的に眺め、論程をざっと要約して、結論がいかなるものであるかを予示できる者として登場します。論述が始まる前の時点で、すでに論文の結論まで知っているものが「私たち」です。そういう観想的な「私たち」を主体に擬すことなしに学術論文は書くことができません。
僕もある時期まではそういうスタイルで書いて来ました。序論を書いている時点で結論まですでに見通しているような「透明な知」の名において論文を書いてきました。『前―哲学的』をお読みになったときに、朴先生はおそらく「これらの論文を書いているときの内田の書き方って、今とずいぶん違うな・・」という微妙な違和感を覚えたのではないかと思います。自分で読んでもそう思います。それはとりあえずの論件については「観想的主体」として書いているからです。「このトピックにかかわる必要な学術情報を私たちは上空から俯瞰しており、それらを熟知した上で書いているように書く」というのが学術論文を書く時の基本的なマナーです。
だから、学会で発表している人間に対して、「あなたは、この論件について書かれた・・・の論文を読んだか?」という質問が致命的なものになり得るのです。この問いに対して「知りません」と答えるのは、アカデミックな基準では「負けを認めること」を意味します。
僕は学会でそういう場面に何度も立ち会いました。そして、「・・・を読んだか?」「なぜ、・・・に言及していないのか?」という知識の欠如を一つでも指摘すると、発表者に致命傷を与えることができるという「アカデミアのルール」に対して、ある時期から深い疑問を抱くようになりました。
自分の論程の全体をはるか高みから一望俯瞰しているという「設定」は、そんなに必須のものなのだろうか。網羅的であることは研究にとってそれほど本質的なことなのだろうかと思い出したのです。「なかなか独創的で生産的なアイディアを提示したのだけれども、これについて研究する人間なら当然読んでいるべき基礎的文献を読み落としていたので、学術的には価値がない」という推論は間違っていると僕は思います。
というのは、学問というのは「集団的な営為」だからです。誰かがある知識を欠いていたとしても、別の誰か、その知識を持っている人が、「ほい」とそこに補填してあげれば、その人の研究のうちで価値あるものは「価値あるもの」としてそのまま救い出すことができる。まとめて「ゴミ箱」に放り投げるより、ずっとその方が生産的です。
何より僕が「豊かな研究」と評価するのは、その人がその研究をしたことによって、反論であれ、擁護論であれ、解釈であれ、祖述であれ、多くの人が「それについて語る」ような研究です。集団的な知の活動を解発するような研究です。集合的な知的パフォーマンスを向上させる人を僕は「知性的な人」とみなします。僕はある時期からそんなふうに考えるようになりました。
若い学者たちが僕の態度を「ルール違反」と感じたのは、ただ僕があれこれ専門外のことに口を出すということではないと思います。そうではなくて、僕が「私たち」という匿名的な知の主体として語ることを止めたからだと思います。僕は個人史を持ち、身体を持ち、それゆえ固有の無知や偏見や感情に囚われた一人の人間として研究をしています。「私たち」を棄てて、「私」という一人称単数形で語ります。それがおそらく「ルール違反」と認定されたのだと思います。だって、無知や偏見込みで語ることができるなら、「どんなことについても、何でも語れるじゃないか」ということになりますから。
いや、まことにその通りなんです。僕がどんなことにも無節操に口を出すのは、「何でも語れる」からです。僕は「大きな主語では語らない」。「私」の固有名において語り、語ったことがもたらす責任は自分ひとりで引き受ける。僕は別に真理の名において語っているわけじゃありません。「私の個人的意見」を述べている。
でも、勘違いして欲しくないのですが、そう腹をくくっていられるのは、僕が学者たちの集合的な営みに深い信頼を寄せているからです。
僕が「学術的貢献」というものを果たし得るとしたら、それは集合的な知的生産のうちで「僕以外の誰にでも代替できない仕事」をすることによってです。「他の人でもできることを他の人より手際よくやる」ことによってではありません。僕は自分の仕事をする。それは、僕が「他の研究者たち」の誠実な仕事ぶりを当てにしているからです。僕が断片的であることができるのは、僕の断片的な知でも、「他の研究者」たちのかたちづくる集合的学知に加算してもらえると、それなりの有用性を持ち得ると信じているからです。
一人であれもこれもやる必要はないんです。野球で守備をするときに、一人で投げて受けて守備をして・・・ということはできません。僕がもしライトなら、ライトの守備範囲だけきちんと守っておけばいい。一人で全フィールドを走り回ることなんかない。その代わりにライトから見えた夕暮れの空の色や、吹き抜ける風の冷たさや、観客たちの声や、流れて来るポテトチップの匂いや、ライトフライを取るときぶつかったフェンスの感触をきちんと経験しておいて、それをその時ライトを守っていなかったすべてのプレイヤーのために、その時に球場にいなかったすべての人たちのために記憶し、記述することの方が、ずっと有用なんじゃないか。ある時期から僕はそんなふうに思うようになりました。
僕の仕事はごく断片的なものに過ぎない。僕が目を通した文献や史料は、僕が直感的に手に取ったものだけで、まったく体系的でも網羅的でもありませんでした。でも、それでいいじゃないか、と。それは他ならぬ僕固有の断片性だからです。僕がある本を読み、ある本を読まなかったのは、僕なりの無意識の選択の結果です。でも、こういう言い方を許してもらうなら、僕の断片性は僕だけのものだし、僕の無知は僕だけのものであり、その断片性と無知には僕の固有名が記されています。そして、このような個人名を刻印された無数の「断片性と無知」の総和として集合的な学知は成り立つ。僕はそんなふうに考えています。
研究論文を書く時に、「大きな主語」で語る必要はない。そう思うようになってから、僕はずいぶん自由になったように思います。もし僕が「私たち」的な学術主体を書き手に擬していたら、レヴィナス三部作は書かれなかったでしょう。だって、もしも、「リトアニアの歴史と地政学を知り、ロシア語とドイツ語とヘブライ語を習得し、篤学のラビについてタルムードの弁証法を学ぶことなしにはレヴィナスを語る権利はない」という人が出て来たら、あるいは「そもそも自分自身が反ユダヤ的迫害も戦争も捕虜生活もホロコーストも経験していない人間にレヴィナスを語る資格はない」という人が出てきたら、僕は黙るしかないからです。でも、僕は黙りたくなかった。
それは「弟子」というポジションから書きたかったからです。「私たち」という鳥瞰的・観想的な主体から書くことを放棄して、僕は研究対象について「よく知らない、でももっと知りたい」という欲望に駆動されて書くことを選びました。それは手探りで暗闇の中を進んでゆくような研究の仕方です。ですから、序論で全体を予示することもできないし、ある結論に至るために過不足なく材料を調えることもできません。直感に導かれて書いているうちに、うまい具合に見通しが立つ場合もあるし、袋小路に入り込んでしまって分岐点まで引き返してやり直しをすることもあるし、同じ話を何度も何度も繰り返すということもあります。どれも「私たち」が一望俯瞰して書く学術論文では許されないことです。でも、僕はある時期からどれほど不細工でも、「正直に書く」ことを最優先するようにしました。
その結果、僕の書くものはどれも「長い断片」になりました。ごく個人的な知見を書き綴ったものです。それでも、集合的な学知の「素材」くらいにはなると思って書いています。
学者の野心は「最後の、決定版の研究論文」を書くことだと僕は思いません。その人がその論文を書いたせいで、もう誰もその論件については語らなくなった・・・というようなものを書くことが学者の栄光であると僕は思いません。むしろ、その人がその論文を書いたせいで、「われもわれも」とその論件について語り出す人が出て来た・・・ということの方を学者は喜ぶべきではないでしょうか。
残念ながら、僕のような学問理解をする人は、日本のアカデミアでは例外的少数です。学術研究が集団の営為であり、すべての研究者たちは、過去の人たちも、これから生まれてくる人たちも含めて「研究者集団」という多細胞生物をかたちづくっていて、自分はそのうちの一細胞なのだという考え方は、あまり一般的ではありません。
朴先生からのご質問は「内田が学者として創り上げてきた学知は何か?」というものでした。僕の答えは「そのようなものはありません」です。
僕は「学知というのは集合的なものだ」というふうに考えています。僕はその集合的な学知の素材に使ってもらえるかもしれない断片をレヴィナスについて、カミュについて、あるいは武道について、映画について、手作りしてきました。これからも僕は自分の「煉瓦」を手作りしてゆくつもりです。それが後世の誰かに拾われて、「あれ、この煉瓦はこの建物の材料に仕えるかもしれないぞ」と思ってもらえるなら、それにまさる喜びはありません。
能登半島の地震の被災者の救難活動が遅れている。とりわけ最初に大々的に報道されたのが所属国会議員による被災地視察の自粛についての六党申し合わせであったことに私は強い違和感を覚えた。ジャーナリストやボランティアについても「現地に入るな」という組織的な投稿がネットではなされた。不要不急の人間が被災地にいると救助活動の妨害になるからという。ドローンも飛ばしてはならないと指示された。ヘリコプターの救難活動の邪魔になるからという。岸田首相自身「私も被災地に入らない」と明言した。
正直言って、この発言の真意が私にはよくわからなかった。総理大臣は救助活動の指揮官である。その指揮官が「私が現場に行くと救助活動の邪魔になる」と自分で言うということがあり得るだろうか。「ない」と私は思う。現場に行って邪魔になるような指揮官なら後方にいても役には立つまい。
初動の遅れについて政府の不手際をなじる論調がメディアでは支配的だ。別に官邸機能が麻痺するような大事件が起きたわけではないのだから、首相は決められたマニュアル通りに対処したはずである。そして、「決められた手順」が「首相も知事も議員も決して被災地入りしてはならない」であったとしたら、それには「今の時点で原発がどういう状態になっているかわからない」というのが最も蓋然性の高い理由である。
モニタリングポストが壊れて、放射性物質の飛散状況が正確に確定できなかったのだろうか。だとしたら、確定的なデータが取れるまで「政府要人は現地入りしない方がいい」というのは合理的な判断である。
「初動が遅い」という批判に対して政府が「いや、マニュアル通りに行動しました」という弁明をなさなかった合理的な理由として私はそれしか思いつかない。もし、それ以外の理由があり得るとしたら、誰か教えて欲しい。
関東大震災時に起きた虐殺事件を描いた映画『福田村事件』が公開中である。私は、この映画のクラウドファンディングに参加しており、本作を応援する者として、この映画を1人でも多くの人に観てもらいたいという思う。
本作はオウム真理教を描いた『A』『A2』、『FAKE』など良質なドキュメンタリー作品を数多く手掛けてきた森達也監督の初の商業劇映画である。私がクラウドファンディングに出資しようと思ったのは、扱いの難しい題材をエンターテイメント作品として撮ろうという森監督の野心を多としたからである。
福田村事件とは、1923年9月1日に発生した関東大地震の5日後、千葉県東葛飾郡福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、利根川沿いで香川から訪れた被差別部落出身の行商団のうち、幼児や妊婦を含む9人が殺された事件のことである。行商団は讃岐弁で話していたことで朝鮮人ではないかと疑われ殺害された。自警団員8人が逮捕されたが、逮捕者は大正天皇の死去に関連する恩赦ですぐに釈放された。
この映画は朝鮮人差別、部落差別という日本歴史の暗部を前景化する。同じ題材を扱ったドキュメンタリーや劇映画はこれまでいくつもあったけれども、商業映画として製作され、かつ商業的に成功したという例を私は知らない。
製作費をクラウドファンディングで募るほどであるから、ギャラは決して高くはなかっただろうが、それにもかかわらず、井浦新、田中麗奈、永山瑛太、柄本明、ピエール瀧、水道橋博士、東出昌大といった俳優たちが参加して、監督と脚本家の構想に命を吹き込んだ。それは俳優たちにも、「こういう映画」が日本でも撮られるべきだという思いがあったからだと思う。
「こういう映画」とはどういう映画か。それは単に自国の歴史の暗部を明るみに引き出す映画ということではない。いくら政治的に正しい意図で制作されても、それが単なる単純な善悪二元論で描かれるなら、商業的成功は望めない。エンターテインメントとして成功するためには、出てくるすべての人物が単なる「記号」ではなく、一人一人に奥行きと厚みがなければならない。この世には単純な善人もいないし、単純な悪人もいない。すべての登場人物が卑しいところこ弱いところも抱えており、その一方では勇気や善意も持つ、複雑な存在である。そういう人たちが、たまたまある時、ある場所で、思いもかけない出来事に遭遇して、思いもかけない役割を果たす...という「運命の不可思議」を感じさせないと、観客は映画を観て「感動する」ということは起こらない。実際に私たちの現実はそのように編み上げられているからだ。
近年、韓国の映画やドラマは自国の歴史の暗部を掘り起こす作品を次々に送り出している。李氏朝鮮末期、植民地時代、軍事独裁時代を舞台に、さまざまな人物が歴史的舞台のうちに登場する。もちろん日本人も出てくるけれども、それはステレオタイプ化された「悪人」ではなく、しばしば重層的で深みのある複雑な人物として描かれている。それは、もう単純な「自民族中心主義史観」で制作された作品はエンターテインメントとして成立し難いところまで韓国の観客の鑑賞眼は成熟しているということを意味している。
日本ではそのような作品が作られないことを私は久しく残念に思っていた。だから、『福田村事件』の企画を聞いた時に、遂に日本でも歴史の暗部を掘り起こしながら、それをエンターテインメントに仕立てることのできる作品ができるかも知れないと思った。そして、実際に映画を観て、本作が日本映画史に新しい扉を開いた一作になったと感じた。
あるいは公開に際して、政治家からの介入があったり、上映妨害運動があるかと思ったけれども、それもなかった。この映画が描く事実そのものを否定する歴史修正主義者が大手を振っている今の日本社会で、この映画が無事に上映され、商業的成功を収め、映画として高い評価を受けているという事実は大きい。それは、これからもこうした作品を作ることが可能になったと続く人々を勇気づけることだからだ。
この物語を深みのあるものにしているのは、これが定住民と旅する遊行の民の間の分断の物語でもあるからだ。
福田村の村人は定住民であり、村から出ず、村の内側しか知らず、そのローカルなものの見方に束縛されている。一方、行商人たちは日本中を旅する遊行の民である。彼らは「村の外」にはそれとは違う社会があることを知っている。
そしてこの二つの集団の中間に、村に定住しきれない人たちがいる。半ば定住し、半ば旅する人である。船頭田中倉蔵(東出昌大)、朝鮮帰りの澤田智一(井浦新)、その妻静子(田中麗奈)、村長田向龍一(豊原功補)の四人がそれにあたる。彼らは全員それぞれの理由で村の共同体から「浮いて」いる。
定住民が遊行する人を差別し、迫害し、排除するということは、これまでも繰り返し行われてきた。それは定住民から見て、遊行の人々が「異物」だからである。「異物」は嫌悪の対象であると同時に激しく欲望をかきたてる対象でもある。行商する人々はその「異物」性をある種の商品として売ってもいる。そういう意味では危険な仕事である。
福田村の物語は、定住民の遊行の民に対する違和感がある限度を超えて、殺意に変わる一瞬を劇的クライマックスとする。その時、半定住・半遊行の四人が、「間に入って」惨劇を阻止しようとする。
この四人がそうするのは、とりわけ正義感が強いとか、常識的であるということではない。村人が行商人に向ける殺意は潜在的に自分たちにも向かっていると感じたからである。これを看過すれば、いずれこの暴力は自分たちにも向かうかも知れない。そう感じたからである。自分たちは今のところは「浮いている」だけだけれど、いつ、どういう理由で村人から「異物」認定されて、排除されるかわからないということに気づいているからである。
この四人の中でも東出昌大演じる船頭がきわだって「中間性」が高い。彼は一応村に居を構えているものの、村外れに住んでおり、村人と交わりから微妙に遠ざけられている。それは彼が川の上を仕事場とする「海民」だからである。
海民、山人、商人、遊女、ばくち打ち、修験、勧進聖、大工、鍛冶といった職業の人たちは網野善彦によれば「無縁の人」である。この世の秩序に「まつろわぬ」人たちである。
だから、川を住まいとする船頭と街道を住まいとする行商人は「無縁」という点では同類なのである。
船頭が独特の性的魅力を放つという設定も、彼が「海民」であるという設定を知れば理解に難くない。それは彼の個人的魅力というより、船頭という職能がもたらす「ここ」と「こことは違う場所」を架橋する「ただものではない」たたずまいから発するものだ。それゆえ、女たちは「ここではない場所」を望むときに、こういうタイプの「無縁の男」に激しく惹きつけられる。
だから(絶対に無理だとは思うけれど)、東出昌大が登場する場面のBGMに「船頭小唄」が流れていれば...と私は思った。「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」という野口雨情作詞・中山晋平作曲の「船頭小唄」は福田村の近く、水郷の古謡を採譜した曲である。
朝鮮帰りの澤田夫妻は、インテリであり「ここではない外の世界」を知っている。だから、服装も言葉づかいも村から「浮いて」いる。静子が情事の相手に選ぶのが船頭であるのは、彼もまた「ここ」に本当には根付くことができない「無縁の人」だからである。
映画について「セックスが過剰だ」という評言が多いと聞いたけれど、これは作り手の作為だろうと思う。閉じられた村落共同体では、村人たちの関心事は「セックスだけ」ということがしばしばおこる。誰と誰が通じているということばかりに関心が集まることそのものが村の閉鎖性を表象している。
「無縁の人」「浮いている人」の側に美男美女が多く、定住民の側が造形的には醜く描かれていたのは、現実にそうであるということではない。定住民には性的魅力がなく、遊行の民は誘惑的に「見える」という幻想を投影しているのである。そして、それがまた定住民たちの遊行の民への憎悪をかき立てもする。
この映画を観て、若い人は「自分はこんな状況になっても虐殺には加担しない」と思うかもしれないが、それはわからない。誰でも虐殺の加害者になり得る。60~70年代の学園紛争を経験した世代として証言するけれども、ふだんおとなしそうな学生がいきなり節度のない暴力をふるうということは「よくあった」。
実際に、外から見ると区別もつかないようなわずかな政治綱領の違いから違う党派の学生同士が殺し合いを演じた。鉄パイプで人の頭を殴って、頭蓋骨を割るというようなことを、さしたる心理的抵抗なしにできる人がいるということを私はその時に知った。
ある人が、「何をしても罰されない」という環境に置かれたときに、どこまで非人間的になれるか、それは平時にはなかなかわからない。だから、できるだけ「何をしても罰されない」状況を作り出さないように私は今も個人的に努力している。
本作で一点、違和感を覚えたのは、虐殺の火蓋を切ったのが女性だったことである。これは意外性を狙った脚本家の工夫なのかも知れないが、いささか無理があると思った。というのは、私が知る限り、「何をしても罰されない」状況で、いきなり人を傷つけたり、必要もなく物を壊すのは、つねに男性だったからである。
女性にももちろん暴力性はある。けれども、それは必ず「よく知っている人間」に向かう。女性の暴力は相手に対する強い感情が絡む。女性が「行きずりの人」に対して「殺すのは誰でもよかった」というタイプの殺意を向けたという殺人事件は私の記憶にはない。
私たちが内蔵している潜在的な暴力性を抑制するために必要なのは「感情教育」だと私は思っている。感情が深く、豊かで、複雑になれば、怒りや憎しみや屈辱感のような「負の感情」に流されて、感情を制御できなくなるということは起こらない。起こらないとまでは言えないけれども、少なくとも起こりにくくはなる。
感情を豊かにするために私たちは「想像的に他人の身になってみる」ということをする。物語がそのための装置である。小説を読み、映画や演劇を観たり、落語を聞いたりすることはすべて「感情教育」に資する営みである。暴力をふるう側にも、振るわれる側にも、想像的に身を置くことで、人は暴力を制御する装置を内面化してゆく。本作もまたそのような「感情教育」のすぐれた機会となると私は思う。