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   <title>内田樹の研究室</title>
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   <updated>2010-09-05T02:06:03Z</updated>
   <subtitle>みんなまとめて、面倒みよう – Je m&apos;occupe de tout en bloc</subtitle>
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   <title>団体行動のすすめ</title>
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   <published>2010-09-05T02:05:44Z</published>
   <updated>2010-09-05T02:06:03Z</updated>
   
   <summary>「多田塾甲南合気会上半期結婚披露宴３次会」というものが開催される。 春先から7月...</summary>
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      <![CDATA[<p>「多田塾甲南合気会上半期結婚披露宴３次会」というものが開催される。<br />
春先から7月にかけて高取くん金子さん、くうさん、ヤベッチと３組の結婚式が続いたので、個別的に祝賀会をやっていると幹事が疲れちゃうということで、「まとめてやる」という手荒な英断を私が下したのである。<br />
その後、去年の夏の亀ちゃんの祝賀会も会ではやってなかったよね・・・ということを思い出して、現在妊娠６ヶ月の亀ちゃんご夫妻（いまは小林さん）も加えてまとめて４組の合同祝賀会というものを開催したのである。<br />
集まった同門の諸君、その数60。<br />
仕切りはいつものように、谷口さん、谷尾さん、清恵さんの「事務方の大人の人たち」。あと東沢くんとおいちゃんがお手伝いをしてくれました。<br />
会場は国分さんのご紹介（シャンペンの差し入れも～）。<br />
みなさん、どうもありがとう。<br />
こういう団体行動をてきぱきとこなす、というのは実はたいへん武道的なことなのである。<br />
本日は祝辞に代えて、「武道的団体行動」について一席述べさせていただくことにする。<br />
先日の演武会をご覧になった方は気づかれたであろうが、初心者と上級者の違いは、「ポジショニング」にまず表れる。<br />
演武をする畳のどの位置に座るかは畳の広さと演武者の数から、自動的に決まる。<br />
しかし、初心者はどこに行けばいいのかわからず、なんとなく前の人についてゆくので、しばしば「だま」になってしまう。<br />
演武が終わったあとも、どこに戻ればいいのかがわからず、最初と違う位置に座ってしまう人がいる（これは上級者にも散見されるが）。<br />
これは「スキャン」ができていない、ということを意味している。<br />
「スキャン」というのはつねづね申し上げているように、「自分を含む風景を上空から俯瞰する想像的視座」に立つ能力である。<br />
ボールゲームの場合であれば、どこにスペースがあるのか、どこにディフェンスの穴があるのか、どこに味方のサポートがあるのかを上空から俯瞰して、逡巡せずにその最適動線を走るためには「スキャンする力」が不可欠であることは誰にもわかる。<br />
これは戦場における用兵の機微にそのまま通じている。<br />
植民地に展開する軍隊の指揮官を育成するために、英国のパブリックスクールではサッカー、ラグビー、クリケット、ボートといった「共身体形成」スポーツの履修が必修化されていた事情については平尾剛さんとの共著『合気道とラグビーを貫くもの』（朝日新聞出版）に詳しく述べたので、ここでは繰り返さない。<br />
さて、問題は「スキャンする力」はどうやれば涵養されるかである。<br />
これについても何度も書いた。<br />
「スキャンする力」は「ミラーニューロンの活性化」と相関する。<br />
他人が何か動作をしているときに、私たちの脳内でも、その動作をするときに必要なニューロンが発火している。<br />
ただし動作としては出力しない。脳内で「シミュレーション」だけが行われる。<br />
シミュレーションした動作を「出力」回路に繋げると、見たのと同じ動作が再現される。<br />
だから、人間がボートを漕ぐのを見せると、猿でもボートを漕ぐことができる。<br />
これを「連想行」ということもあるし、「心の稽古」ということもある。<br />
武道的にはたいへん重要な稽古法である。<br />
「見取り稽古」というのは、すぐれた術者の動きをただ見ているだけの稽古のことであるが、これはなまじばたばた走り回って大汗かいて稽古するよりもはるかに術技の上達に資する。<br />
怪我をすると稽古を休んでしまう者がいるが、本当は怪我をしているときに黙って稽古を見ているというのはきわめて効果的な稽古なのである。<br />
とにかく、そうやって他人の動きを熟視して、脳内でシミュレーションをしていると、何が起きるかというと、「他人の身体に仮想的に入り込んでしまう」ということが起きる。<br />
なにしろ自分の脳内では、他人の動作がニューロンレベルでは再現されているので、「まるで自分自身が動いているみたい」に感じられるのは原理的には当たり前のことなのである。<br />
ラカンのいう「鏡像段階」というのは、鏡に映った自分の像を「遠くにあるもの」だと思っている赤ちゃんが、その動きを脳内でトレースしているうちに、鏡像を「まるで自分自身が動いているみたい」だと感じ、ついには「あそこに見える『あれ』が私だ」と思うに至るという「倒錯」のことである。<br />
つまり、自我というのは、ミラーニューロンの効果なのである。<br />
「自分」とか「他人」とかいう概念が生まれるのはその後の話である。<br />
武道的身体運用というのは、この鏡像段階の赤ちゃんの柔軟性をそのまま維持し続けることである。<br />
すぐれた武道家は何を見ても、「あ、これは私だ」と思い込める。<br />
他人の身体を見ると、たちまちそれが自分の身体と同期して動いているものだと「感じ」ることができる。<br />
だから、自由自在にそれを動かすことができる。<br />
それが活殺自在、万有共生ということのおそらくは技術的な意味である。<br />
この「自我の拡大」「他者の取り込み」が短時間に高い効率で行われると、何が起きるか。<br />
植芝盛平先生は道場でよくその場にいる全員を「金縛り」にされたという逸話があるが、これは「身体が動かない」という身体感覚を大先生が大出力で発信するので、門人たちはそれに同期してしまったと解釈できる。<br />
あるいは「合気道は先の先」であるという言い方も大先生はされたが、それは「刀を振り下ろすと、相手がそこに首を差し出す」ような共感度の高い身体運用のことだと説明された。だから、「先の先」の武道を攻撃的に使えば、それは「虐殺」にしかならない。<br />
「結界内」にいるすべての人間に自分の体感を送信できるということは、逆から言うと、すべての人間たちの体感を受信できるということでもある。<br />
私には見えないが、彼らには見えるものが見え、私には聞こえないが、彼らには聞こえるものが聞こえ、私は触れていないが、彼らが触れているものが感じられる。<br />
そうなるとどういうことが起きるか。<br />
個人の五感では感知できるはずのない大量の感覚情報が入力してくると、脳はそれを「説明する」ために、あるイリュージョンを作り出す。<br />
それが「私はここにいるのではなく、上空からすべてを俯瞰しているのだ」という「幽体離脱」幻想である。<br />
脳がそのような幻想を要請するのである。<br />
そういう幻想を持たないと、他人の体感が流れ込んでくるという事態をうまく説明できないからである。<br />
「ミラーニューロンが活性化すると、幽体離脱幻想が起きる」という薬学の実験結果を武道的に言い換えると、それは「他人の身体運用に同期する訓練をしていると、スキャンする力が高まる」ということになる。<br />
ここまで書けば私の言わんとするところはおわかりいただけるであろう。<br />
合気道の稽古を重ねて「体感の同期」能力が高まると、必ず私たちは「自分を含んだ風景を上空から見下ろすような感覚」をもつようになる。<br />
すると、自分はどこにいるのか、どこに向かっているのか、どこにいるべきなのか、どこに向かうべきなのかがはっきりと「わかる」ようになる。<br />
「全員で大きな円を描く」ということを稽古の前後に何度か行うが、あのときに自分の立ち位置がわからずうろうろしているのは、こう言っては失礼だが稽古が足りない方である。<br />
同じように、昨日のようなパーティでも、よく稽古を積んでいる人は、入室した瞬間に自分が座るべきポジションがわかり、稽古の足りないひとは、立ったままおろおろしている。<br />
だから私は団体行動が好きなのである。<br />
合宿がよい稽古になるのは、単に稽古時間が長いということではなく、起居をともにしているうちに体感の同期が高まって、自分の位置についての情報入力が増え、「いるべき場所、なすべきこと」がはっきり感知されるようになるからである。<br />
三軸修正法の池上六朗先生があるセミナーで若い治療者に施術したあとに、「どう、感じ変わったでしょう？」と訊ねたことがあった。<br />
その治療者は首をかしげて、「さあ・・・わかりません」と答えた。<br />
池上先生は破顔一笑して、「そういうときに『変わりました』と言えないのは、自分の立場がわかってないからだよ」と言われた。<br />
三軸修正法は「体感の同期」を軸に体系化されている。その意味ではすぐれて武道的な治療法である。<br />
だから、自分の痛みや凝りに「居着き」、施術者の体感への同期を拒否するような患者は、かならず「その場にふさわしくないこと」を言うようになる。<br />
ましてや治療者たらんとするものが「いるべき場所、なすべきこと」が感知できないようでは困る、池上先生はそうおっしゃりたかったのだと思う。<br />
というわけで、私は「社員旅行」的なものが大好きなのである（多田先生もお好きである。もちろん池上先生もお好きである）。<br />
来年の２月ごろに「停年退職記念・内田ゼミ卒業生全員集合バリ島ツァー」というものを挙行する予定である。<br />
学部のゼミも大学院のゼミも、一度「ゼミに草鞋を脱いだ」人は誰でも参加できる。<br />
総勢５０人くらいでバリ島に行って、プールサイドと海岸でごろごろして、「椰子の木陰でピニャコラーダ」するのである。<br />
これは武道の稽古として行っているのである、と私が強弁してもみなは信じないであろうが、ほんとなんだってば。<br />
</p>]]>
      
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   <title>スーパークールな一夕</title>
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   <published>2010-09-01T03:06:22Z</published>
   <updated>2010-09-02T00:41:38Z</updated>
   
   <summary>新型インフルエンザ・リスクコミュニケーション・ワークショップというところのシンポ...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>新型インフルエンザ・リスクコミュニケーション・ワークショップというところのシンポジウムにお呼ばれして、感染症の専門のドクターの方たちと「リスク・コミュニケーション」についてセッション。<br />
ご一緒したのは、神戸大学大路剛、国立感染症研究所の具芳明、神戸医療センター中央市民病院の林三千雄、神戸保健所の白井千香、近畿医療福祉大学の勝田吉彰、司会は神戸大学医学部の岩田健太郎の諸先生がた。<br />
いや、驚きましたね。<br />
みんな「話が早い」ので。<br />
かなりの早口で、かつ理路がはっきりしている。<br />
「なんだかよくわからないことをごにょごにょ言う」という態度がほとんど生理的に忌避されている。<br />
岩田先生は去年の8月に医学書院の仕事ではじめてお会いして、それからパートナーの土井朝子先生ともども何度かご一緒している。「私が会った中でいちばん頭の回転の速い人」のひとりである（横にいて息を潜めていると「クイ～ン」と頭の中で何かが高速回転している音が聞こえそうな気がするくらい）。<br />
そして、当然ながら「イラチ」である。<br />
医学者、とくにフロントラインにいる臨床医には「イラチ」が多い。<br />
つねに待ったなしの現場で診断し、治療をし、またサイエンスの最新情報を絶えずモニターているわけであるから、勢い「イラチ」化することは止めがたいのである。<br />
あと、「にべもない」人も多いですね。<br />
判定の言葉を濁らせたり、相手のプライドを斟酌したり、「よいしょ」してサバいたりという、私など文系人間が得意とする「にべ」（ってなんだろう）的なものは、「待ったなし」の現場ではあまり（ほとんど）配慮されない。<br />
昨日びっくりしたのは、新型インフルエンザの防疫体制の整備をめぐる質疑応答のときに、ひとりの先生がとりあえず「バイオテロ」と「東南海地震」を想定して、その経験をどうフィードバックするかについてコメントしたことである。<br />
「最悪の事態を想定する」という備えの発想の重要性を説く人は多い。<br />
けれども、この先生は、「最悪の事態が起きてしまい、かつそれに行政も医療機関も効果的な対処ができなかったときに、その負の経験をどう『よりましな』体制づくりにフィードバックするか」ということを語ったのである。<br />
聴く人によっては、このような発言を「偽悪的」だとか「非人道的」だとかみなす人がいるかも知れない。<br />
だが、それは短見というものである。<br />
私はこのようなタイプのリアリズムを高く評価する。<br />
これは昨日書いたいわゆる「危機論者」とまったく反対のマインドから出てくる言葉だからだ。<br />
危機論者は備えの重要なことを訴えつつ、無意識的には危機の到来を欲望している。<br />
この人はそうではない。<br />
きわめて致死性の高い感染症の危機が市民生活の中にはいりこんできたとき、彼は厭でもその最前線にいなくてはならない。<br />
前線にいる医師や看護師が次々と感染症で倒れるような現場で医療に従事している「未来の自分」を想定したその上で、彼は「どうせ死ぬなら犬死にはしたくない」と言っているのである。<br />
このワークショップの場にいて、幸いそのカタストロフを生き延びた諸君がいれば、ぜひ「私や私の仲間たちの死」から少しでも有用な情報を回収してほしいと言っているのである。<br />
「自分が感染し、まずくすると死ぬことを勘定に入れた上で感染症対策を論じている医師」のスーパークールな倫理性に私はちょっと感動してしまったのである。<br />
私が危機論者を好かないのは、彼らが危機の到来のときに「逃げる」ことを経験的に知っているからである。<br />
「ほら、オレが言ったとおりになっただろう」と言うのは、彼らが安全な場所へ立ち去るときの「別れ際」の台詞なのである。<br />
共同体のフルメンバーである「大人」はそういうことをしない。<br />
危機の到来について警鐘を鳴らしたのが、誰もそれに耳を傾けなかった。そうこうするうちに、ついに危機が到来した。<br />
そういう場合でも、その破局的な現場に踏みとどまって、「彼の意見を聴かなかった人々」と、不幸と危険をクールにわかちあうのが「大人」である。<br />
昨日のリスク・コミュニケーションのワークショップは私にとってたいへん気分のよい出会いであった。<br />
それはそこにいるのが「大人」たちだったからである。<br />
このような場を経験させてくれた岩田先生に改めてお礼を申し上げねばならない。<br />
</p>]]>
      
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   <title>縮み行く世界</title>
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   <published>2010-08-31T00:27:04Z</published>
   <updated>2010-08-31T00:56:58Z</updated>
   
   <summary>スーさんのツイッターにサンケイのネットニュースのことが書いてあった。 そういえば...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>スーさんのツイッターにサンケイのネットニュースのことが書いてあった。<br />
そういえば、その件についての電話取材を受けた。<br />
別にコメントすることはなく、言うべきことはブログに書いた通りなので、ネット上に発表したことを引用されるのはご自由に、とお答えしたら、こんな記事になっていた。</p>

<p><em>仏文学者の内田樹さん「スト」宣言に賛否　売れっ子新刊ラッシュに待った <br />
「日本辺境論」などのベストセラーで知られる仏文学者で神戸女学院大教授の内田樹（たつる）さんが、ブログ上で一部の自著の刊行にストップをかけることを宣言し、波紋が広がっている。旬の書き手に群がり、出版点数を増やす「バブル」を生み出しては、すぐにはじける。出版界のそんな“悪弊”を批判する行動だが、書き手たちの賛否は割れている。（海老沢類）<br />
　発端は大手書店の店長が書いた８月１２日付のブログだ。「伝える力」が１００万部を突破したジャーナリスト、池上彰さんらの「バブル」に触れ、人気の著者に依頼が殺到する結果、質の落ちた本が出回って著者も疲弊していくとして、その悪循環を批判した。<br />
　十数点の出版企画を抱える売れっ子の内田さんはすぐに反応した。１３日付のブログに「大量の企画が同時進行しているのは、編集者たちの『泣き落し』と『コネ圧力』に屈したためである。（略）『バブルのバルブ』を止めることができるのは、書き手だけ」などと記し、４冊分の校正刷りの確認を“塩漬け”すると宣言。１４日付で「日程がタイトであれば、書きもののクオリティはあらわに下がる」と理由を説明した。<br />
　一方、店長に「バブル」と指摘された脳科学者の茂木健一郎さんは自身のブログで変わらず執筆を続ける姿勢を強調。経済評論家の勝間和代さんもブログで「当事者がコントロールできるものではない」と、内田さんとは対照的な考えを示すなど、反響が広がっている。<br />
　騒動の背景には、不況下で加速する新刊ラッシュがある。書籍と雑誌の販売金額は昨年、２１年ぶりに２兆円を割り込み、返品率は４割を超えた。売り上げの減少を補うため、出版社は自転車操業的に点数を増やしており、昨年の新刊は過去最多の７万８５５５点。頭数をそろえるため、引き出しが豊富で部数が見込めるビッグネームに頼る傾向に拍車がかかる。<br />
　「途中で企画がストップすれば、収益見込みの修正が必要」（出版関係者）だけに、各社の編集者はほかの書き手に賛同の動きが広がるのを警戒する。ただ、内田さんを支持する専門家は少なくない。<br />
　早稲田大大学院の永江朗教授（出版文化論）は「安価で手軽な編集ができる新書ブームがあった１０年ほど前を境に、メガヒットした書き手に安易に依頼する傾向が加速した。対談や講演のテープを起こしただけの安直な作りの本が増えれば、読者離れを早め、出版文化の先細りを招くだけ。業界は今回の問題提起を真摯（しんし）に受け止めるべきだ」と警鐘を鳴らしている</em>。（引用ここまで）</p>

<p>繰り返し書いているように、私は一般論を語っているのではなくて、「私自身について言えば」という限定の中で申し上げた話である。<br />
「こんなペースで本を出すのは厭だ」ということを言っているだけである。<br />
書くことが苦役だから、それを軽減してくれと言っているのではない。<br />
御存じのように、私は書くことが大好きである。<br />
江さんからは「センセみたいなのを『書きスケ』いうんですわ」とよく言われる。<br />
書くのが大好きなのである。<br />
常人の域を超えて好きなのである。<br />
大好きだから、「やめろ」と言われても書く。<br />
おまえのものなんか誰も読まないと言われてもじゃんじゃん書く。<br />
でも、「やれ」と命令されると急に書きたくなくなる。<br />
そういうもんでしょ。<br />
どんなに好きなことでも、人に強制されたり、急かされてまでやりたくはない。<br />
というより、好きなことだからこそ、人に急かされては、したくない。<br />
だから、「急かすの止めてね」と編集者のみなさまにお願いしているのである。 <br />
書く仕事を私にも楽しませて頂きたい。<br />
楽しませてくださるなら、そのお礼にできる限りのことは致します、と。<br />
ごくまっとうなお願いだと思うのだが、どうであろう。</p>

<p>一昨日の高橋源一郎さん、渋谷陽一さんとの鼎談の最後の方のテーマは「シュリンクしてゆく社会で、市民はどんなふうにすれば尊厳を持って、かつ愉快に生きてゆくことができるか」ということであった。<br />
経済成長が止まったらもうおしまいだとか、人口がこれ以上減ったらもうおしまいだとか、国際社会でこれ以上侮られたらもうおしまいだ、とか「もうおしまいだ」的なワーディングで危機を論じる人がいる。<br />
たいへんに多い。<br />
私はこういう語り口は危険だと思う。<br />
というのは、そういうふうな言葉遣いで一度危機論を語ってしまった人は、警鐘を乱打したにもかかわらず事態が危機的になったときに「ほら、言ったことじゃない」と言う権利を確保してしまうからである。<br />
日本社会は不調になることによって、それを正しく予見した自分の知性の好調であることが証明される。<br />
そういう条件だと、危機論者は「もうおしまい」状態の到来を髪振り乱して押しとどめようとする仕事にはそれほど熱心にはなってくれない。<br />
そういう仕事は危機の到来を看過し黙許し、危機論者の必死の訴えに耳を貸さなかった諸君が後悔の涙にくれながらやればよいのだ。<br />
そういうふうに考えてしまう。<br />
これは属人的な資質の問題ではなく、「危機論を語る」ということのコロラリーなのである。<br />
「俺の言うことをきかないと、危機になるぞ」という語り口で危機論を語ったのだが、誰も耳を傾けてくれなかったという苦い経験を持つ人は、いざ危機が到来したときに、つい「ほら、だから言ったじゃないか」と（口に出さなくても）思ってしまう。<br />
それどころか、危機の到来をはやめるような要因があれば、ついそれに「加担」してしまうことさえある。<br />
そういうことは無意識的に行われる。本人も自分が「危機の到来を加速するようなふるまい」をしていることには全然気づいていない。<br />
でも、危機論者にとって危機の到来は個人的には「喜ばしいこと」なのである（なにしろ彼らの未来予測の正しかったことが事実によって証明されるからである）。<br />
そういうのはあまりよくない。<br />
つねづね申し上げている通り、「ゴジラが来るぞ」と危機の切迫を訴え、備えの喫緊であることを論じたにもかかわらず「バカじゃないの」と嘲笑された科学者が、その予見の正しさを証明するためには、どうしたって実際にゴジラが来て都市を踏みにじる場面が必要なのである。<br />
彼が無意識のうちに（夢の中で、とか）「ゴジラの到来」を願ってもそれを責める権利は誰にもない。<br />
危機のときに、「だから、あのときああしていればよかったんだよ」というようなあとぢえを語るのは１００％時間の無駄である。<br />
もう転轍点は過ぎてしまったのである。<br />
過去に戻ってやり直すことはできない。<br />
与えられた状況でベストを尽くすしかない。<br />
「経済成長が止まったらおしまいだ」と言っている人は経済成長が止まった時点で、自分はもう何の役にも立たない。何の政策も提言できない。何のビジョンも提示できないと宣言している。<br />
だって、「おしまい」というのは、政策提言もビジョンもプロジェクトもとにかく生産的なことは「なんにもできない」状況を指すからである。<br />
そのときにまだ次々と効果的な「打つ手」が思いつくようであるなら、それは「おしまい」の定義に悖る。<br />
実際には人口が減ろうと、経済成長が終わろうと、国際社会で侮りを受けようと、それでも私たちは生きていかなければならない。<br />
生きてゆかなければならない以上、「それでも自尊感情を保ち、気分よく生きるためにはどうすればいいか」という問いに知的資源を投じるのは生産的なことだ。<br />
高橋さんとそういう話をした。<br />
軍事用語を使って言えば、これからの日本は「後退戦」を戦うことになる。<br />
「百戦百勝以外はありえない」という『戦陣訓』のようなことを言う人間には後退戦は戦えない。<br />
だって、その立場からすれば後退戦などというものは「ありえない事態」だからだ。<br />
「ありえない事態」における適切なふるまいとは何かというような問いは、彼らには決して主題化しない。<br />
けれども、私たちはいま、それを主題として考究すべき時点にまで立ち至っている。<br />
無限に成長し続け、無限に人口が増え続け、無限に税収が増え続ける社会などというものは原理的に存在しない。<br />
そのような存在しないものを基準にして「そうでなくなったらおしまいだ」というようなことを言って青ざめるのは愚かなことである。<br />
繰り返し言うが、日本はこれから「縮んでゆく」。<br />
その過程でさまざまなフリクションが生じるだろう。<br />
それがもたらす損害を最小に抑制し、「縮むこと」がもたらすメリットを最大化する工夫を凝らすこと、それが私たちにとってもっとも緊急な公的課題ではないのか。</p>

<p>私が「そんなにたくさん本を出さなくてもいいじゃないか」と言うのも、実は同じ文脈での話である。<br />
</p>]]>
      
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   <title>ドンガバチョ的</title>
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   <id>tag:blog.tatsuru.com,2010://1.2545</id>
   
   <published>2010-08-26T00:00:52Z</published>
   <updated>2010-08-26T00:04:45Z</updated>
   
   <summary>先日の毎日新聞の「余録」が日本の教育の失敗を海外の成功例と比較して難じていた。 ...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>先日の毎日新聞の「余録」が日本の教育の失敗を海外の成功例と比較して難じていた。<br />
例えばフィンランドはソ連崩壊の余波で「大不況に見舞われ国の歳出は大幅カット。そのなかで教育費だけ増やす大勝負に出た。それは大きな果実をもたらした。子どもたちの学力は急伸。国際比較ではいつも世界のトップだ。ノキアなど知識集約型の産業が発展し『森と湖の国』はハイテク国家に変容した。」<br />
よく聴く話である。<br />
もう一つの成功例はシンガポール。<br />
「シンガポール政府のウェブサイトを見ると、英語、日本語、中国語、韓国語など７種の言語で、世界の若者に留学を呼びかけている。もしあなたが卒業後３年間シンガポールで働けば、学費の８割を無償供与しましょうと。世界の大学はいま、いかに海外の優秀な頭脳を獲得するかを競う。それが国の将来を左右するからだ。日本は大丈夫だろうか。英タイムズ紙系の『ＱＳ大学ランキング』１０年版（アジア地域）を見ると、シンガポール国立大学が昨年の１０位から３位に急上昇し、東京大学の５位（日本では首位）を追い越していた。」<br />
私はこれを読んで、朝から気分がなんだか悪くなった。<br />
大学教育の現場の人間として繰り返し言っていることだが、教育のアウトカムのうちもっとも重要な部分は数値的に表示できない。<br />
「大学ランキング」は数値化できるものだけに基づいて大学を序列する。<br />
博士号授与数とか獲得した特許数とか外部資金獲得額とか奨学金総額とか学会賞受賞数とか外国人留学生数とか学生一人当たりの校地面積とか図書冊数とかいうＡ４一枚に書ける程度の数値で大学は格付けされる。<br />
私はそれが悪いと言っているわけではない。<br />
ことの順逆を間違えて欲しくないと言っているのである。<br />
格付けに利用される数値と、アカデミアのinnovativeness の関係は、「エレベータの階数表示」とエレベーターの空間的な位置の関係に類するものである。<br />
エレベーターが空間的に高いポジションにいれば、階数表示も大きな数字を示す。<br />
だから、「階数表示を大きくする」ことを目標に掲げるというのは、愚かなことである。<br />
目標とすべきは「エレベーターの空間的なポジションを上げる」ことであり、階数表示ではない。<br />
むかし『ひょっこりひょうたん島』で、悪人を乗せて降下するエレベーターを止めようとして、ドンガバチョがエレベーターの階数表示の「針」を止めるという大技を繰り出したことがあった。<br />
「大学ランキング」を上げるために何かをするというのは、きわめてドンガバチョ的なふるまいである。<br />
問題がエレベーターの空間的位置取りを上げることであるなら、方法は無数にあるからだ。<br />
地下室に爆薬を仕込んで吹き飛ばすという手もあるし、巨人を呼んできて摘み上げてもらうという手もあるし、地軸を逆転させるという手もある。<br />
そういうことである。<br />
「イノベーティヴである」というのは、ある目的を遂行するためにどれだけ多くの、できるだけ想像を絶する手立てを思いつくかという能力のことである。<br />
アカデミアはイノベーティヴであることによってのみ存在価値を持つ。<br />
日本の大学が国際的なランキングで低下しているのは動かしがたい事実である。<br />
けれども日本の大学の国際的な競争力を下げている大きな原因の一つは、「競争力が上がったことを数値的に表示しろ」ということしか言えない政治家と教育行政官とメディアの「ぜんぜんイノヴェーティヴでない発想」そのものなのである。<br />
大学ランキングで自分のところより上位の大学があるから、その成功事例を「真似ろ」という発言をふつうは「模倣」という。<br />
先行事例の模倣を通じてアカデミアが生成的な環境になるということは「ありえない」。<br />
ノーベル賞をもらった理論の真似をした理論を発表すればノーベル賞がもらえると思っている人間がいたらそれが救いがたい愚者であるということは誰にでもわかる。<br />
それがわかるなら、フィンランドやシンガポールの成功事例の「真似をしろ」ということしか教育改革についての提言が出来ないという骨がらみの「反創造性」が日本の大学の創造性を損なっているのかもしれないという可能性についても配慮できるのではないか。<br />
フィンランドやシンガポールが成功したのは、成功事例を模倣したのではなく、「ほかのどこもやっていないこと」をやったからだという単純な理路が理解できないほどに日本人の知性が不調であるのだとしたら、この国の教育に未来はない。<br />
全然、ない。<br />
</p>]]>
      
   </content>
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   <title>「緋色の研究」の研究</title>
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   <published>2010-08-19T23:03:32Z</published>
   <updated>2010-08-25T23:19:57Z</updated>
   
   <summary>世の中には「箴言」として書きとめておきたい文句が数頁に一度出てくる小説がある。 ...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>世の中には「箴言」として書きとめておきたい文句が数頁に一度出てくる小説がある。<br />
不思議なもので、そういう小説は、読み終わって何年もして、ストーリーはほとんど忘れてしまっても、「箴言」の方だけはしっかり身体の中に残っている。<br />
「ハードでなければ生きていけない。ジェントルでなければ生きているに値しない」<br />
If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.<br />
とか。<br />
でも、この文句が出てくるのはチャンドラーのどの小説かは、とっさには思い出せない（『プレイバック』なんですけどね）。<br />
考えてみると、長きにわたって読まれ続ける小説は必ずそのような箴言を含んでおり、ときに箴言の方が小説より長く生きることさえある。<br />
サー・アーサー・コナン・ドイルの『緋色の研究』を読んでいたら、素敵な箴言がちりばめられていた。<br />
ラカンはポウの『盗まれた手紙』を素材に有名なセミネールを行ったが、シャーロック・ホームズを素材にしたセミネールがあることを寡聞にして知らない（私が「寡聞にして知らない」というのは、修辞的強調ではなく、ほんとうに「よくものを知らないので、知らない」という意味なので、ラカンがシャーロック・ホームズについて論じた研究があったら、教えてくださいね）。<br />
でも、ホームズの推理術はオーギュスト・デュパンのそれとは違う意味で、分析的であり、きわめて汎用性の高いものだと私は思っている。<br />
それをホームズ自身は「遡行的」な推理と読んでいる。<br />
「君にはもう説明したはずだが、うまく説明できないもの(what is out of the common)ものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理するということだ。(the grand thing is to be able to reason backward)このやり方はきわめて有用な実績を上げているし、簡単なものでもあるのだが、人々はこれを試みようとしない。日常生活の出来事については、たしかに『前進的に推理する』(reason forward)方が役に立つので、逆のやり方があることを人々は忘れてしまう。統合的に推理する人と分析的に推理する人の比率は５０対１というところだろう。」<br />
「正直言って」と私は言った。「君の言っていることがよく理解できないのだが」<br />
「君が理解できるとはさほど期待していなかったが、まあもう少しわかりやすく話してみよう。仮に君が一連の出来事を物語ったとすると、多くの人はそれはどのような結果をもたらすだろうと考える。それらの出来事を心の中で配列して、そこから次に何が起こるかを推理する。けれども中に少数ではあるが、ある出来事があったことを教えると、そこから出発して、その結果に至るまでにどのようなさまざまな前段(steps)があったのかを、独特の精神のはたらきを通じて案出する(evolve)ことのできる者がいる。この力のことを私は『遡及的に推理する』とか、『分析的に推理する』というふうに君に言ったのだよ。」<br />
(Sir Arthur Conan Doyle, A Study in Scarlet, in “Sherlock Holmes, The complete novels and stories, Volume 1”, Bantam Classics, 1986, p.115-116)<br />
あるものを見たときに、継時的にそれを配列して、次に何が起きるかを推理する力と、あるものを見たときに、そこに至るどのような「前段」がありえたのかを推理する力は、まったく異質のものである。<br />
前進的・統合的推理をする人間は、一連の出来事を説明する仮説を立てようとするときに、「うまく説明できないもの」を軽視ないし無視する傾向がある。<br />
自然科学においては、「仮説に対する反証事例」を、「許容範囲内の誤差」として処理する態度がそれである。<br />
けれども、ホームズ型の知性は、「仮説に対する反証事例」、つまり、「うまく説明できないもの」を導き手（guide）として推理をすすめる。<br />
それが出来合いの仮説では「うまく説明できないもの」であればあるほど、「それを説明できる仮説」の数はむしろ絞り込まれてくる。<br />
「うまく説明できないもの」とは、ロラン・バルトの用語を流用すれば、「鈍い意味(le sens obtus)」である。<br />
「私の理解がどうしてもうまく吸収することのできない追加分として、『余分』に生ずる、頑固であると同時にとらえどころのない、すべすべしていながら逃げてしまう意味」（『第三の意味』）<br />
それはたいていの場合「あるはずのないものがある」「あるはずのものがない」という欠性的な、あるいは迂回的なかたちで示されている。<br />
それに反応する知性、それを「導き手」として「前段」を「案出する」力、それがどれほど希有のものであり、また真に知性的なものであるかは、シャーロック・ホームズが嘆くように、まだ人々には十分に理解されていない。<br />
むろん、私たちの国でも「遡及的に推理する」ことのたいせつさを語る人はほとんどいない。<br />
みなさん、暑い夏休みはシャーロック・ホームズを読んで過ごしましょう。さいわい、どこの本屋でもホームズの文庫本が切れるということはありませんから。<br />
</p>]]>
      
   </content>
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   <title>「バブル」後記</title>
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   <id>tag:blog.tatsuru.com,2010://1.2539</id>
   
   <published>2010-08-14T01:32:04Z</published>
   <updated>2010-08-14T01:40:50Z</updated>
   
   <summary>「バブル」について書いたら、いろいろなところから反響があった。 もとのＵＲＬで名...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>「バブル」について書いたら、いろいろなところから反響があった。<br />
もとのＵＲＬで名前が挙げられていた茂木健一郎さんも、勝間和代さんも、それぞれの意見をブログに発表している。<br />
たぶん、このサイトの読者の多くはすでに読まれていると思う。<br />
http://<a href="http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/08/post-be9f.html">kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/08/post-be9f.html</a><br />
（茂木さん「さあこれから仕事だ」というときに邪魔しちゃってすみません）。<br />
http://<a href="http://kazuyomugi.cocolog-nifty.com/">kazuyomugi.cocolog-nifty.com/</a><br />
私は遠藤店長の言葉のうちに「私に当てはまる批判」を見出し、そのご指摘を多として、これからは反省しよう・・・と思ったわけで、別に茂木さん、勝間さんに批判を加えたわけではない。<br />
その点についてはおふたりともちゃんとご理解いただいていると思うので、心配はしていない。<br />
私が批判したかったのは、日本の出版界の「集中豪雨的」な刊行スタイルである。<br />
集中豪雨的に本を出すと、たしかに世間の耳目は集まるし、パブリシティのコストもカットできる。<br />
けれども、もとは一人の生身の人間がこりこりと書いていることである。<br />
私の場合は、日程がタイトであれば、書きもののクオリティはあらわに下がる。<br />
十分に推敲する時間がなければ、文体もロジックも例証も、どれにも瑕疵が生じる。<br />
それでも品質をリーダブルなレベルに維持しようとすれば、「自分の生活」を削るしかない。<br />
自分がしたいことを我慢し、読みたい本を読まず、見たい映画も見ず、会いたい人にも会わず、稽古も休み、旅行も諦め・・・<br />
でも、そんなふうにしてまで本を書いてどうするのかとふと思うのである。<br />
そこまでする「義理」があるのか。<br />
そう自問すると、「ない」という答えしか返ってこない。<br />
そういうことである。<br />
進行中の出版企画として昨日はいくつかを挙げたけれど、ほかにもまだ二三点あった（忘れてごめんね）。<br />
もちろん、これらは編集者との信頼関係の中で「では、やりましょう」という合意ができたから「企画」が通ったのである。<br />
それ以外に、リジェクトされた企画もたくさんある。<br />
その中には、あきらかに担当者が私の本をよく読んでいない、というケースがあった。<br />
それではコラボレーションは無理である。<br />
講演はもっとひどい。<br />
いきなり大学のオフィスに電話がかかってくるのはほぼ１００％講演依頼であるが、私の名前を間違えて読む人がいたし、書名を間違えた人もいた。<br />
「私のどんな本をお読みになって講演依頼されたのですが」という問いに「実は読んでいないのです」と正直にカムアウトした人もいた。ある政治団体からの依頼のときには「私の政治的発言をお知りになった上でのご依頼ですか？」と訊いたら「政治的なことについても発言されているんですか・・・」と反問されたことがある。<br />
そういう仕事はするだけ消耗である。<br />
前から申し上げていることだが、私はテレビに出ない。経営者セミナーに出ない。広告代理店の仕事はしない。医学関係の学会講演には出ない。<br />
テレビに出ない最大の理由は一回だけテレビに出たときに、スタッフが私の顔を見ないで、ずっと時計を見ていたからである。<br />
経営者セミナーは前に一度やったときに前の方でオヤジが二人寝ていたからである。<br />
広告代理店の仕事は、しない理由が多すぎるので、割愛。<br />
医学関係の学会講演はギャラが製薬会社から支払われたからである。<br />
そういう点で私は狭量な人間である。<br />
「きわめて」狭量な人間である、と申し上げてよろしいかと思う。<br />
そのようにナーバスでは、このタフでハードな資本主義社会を生き延びられないぜ、とおっしゃる方もいると思う。<br />
むずかしいのかも知れない。<br />
けれども、やっぱり私には自分の仕事についての、私なりの基準を適用してゆきたいと思う。<br />
うろ覚えだけれど、伊丹十三のエッセイにこんな話があった。<br />
あるとき、伊丹十三のところに雑誌の取材が来た。<br />
インタビューのあと、カメラマンが写真を撮った。<br />
そのとき伊丹十三は帽子をかぶっていた。<br />
「すみませんが、その帽子を脱いでいただけますか」とカメラマンが言った。<br />
伊丹十三はこう答えた。<br />
「私は自分の判断で自分がよいと思って、いまこの帽子をかぶっている。伊丹十三はこういうときに、こういう帽子をかぶったりすることのある人間である。あなたは、それを止めろと言う。よろしい、では、私は伊丹十三であることを部分的に断念しよう。その代わり、あなたは私たち一家の面倒を一生見ると約束してほしい。私は伊丹十三であることで飯を食っている。それを止めろという以上、あなたには私たち一家を生涯扶養する義務が発生すると覚悟していただきたい。」<br />
こんなにまわりくどい言い方ではなく、もっと「さくっ」と鮮やかな言葉だったのだけれど。<br />
興味がある人は初期のエッセイを探してみてください。『ヨーロッパ退屈日記』とか『女たちよ！』とか、あの頃のものです。<br />
私は伊丹十三に一票を投じる。<br />
</p>]]>
      
   </content>
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   <title>ウチダバブルの崩壊</title>
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   <id>tag:blog.tatsuru.com,2010://1.2538</id>
   
   <published>2010-08-13T00:28:42Z</published>
   <updated>2010-08-13T00:37:04Z</updated>
   
   <summary>ブックファーストの川越店の店長さんが、「池上バブル」について書いている。 htt...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>ブックファーストの川越店の店長さんが、「池上バブル」について書いている。<br />
<a href="http://www.ikkojin.net/blog/blog6/post-2.html">http://www.ikkojin.net/blog/blog6/post-2.html</a><br />
きびしいコメントである。<br />
とくに以下に書かれていることは、かなりの程度まで（というか全部）私にも妥当する。</p>

<p><em>書店「バブル」になった著者は、自分の持っている知識なり、考え方が他の人の役に立てばとの思いで本を出すのだと思うのですが、そうであるならばなぜ出版点数を重ねる度に、「なんで、こんなにまでして出版すんの？」と悲しくなるような本を出すのでしょう。<br />
 すべて「バブル」という空気のせいだと思います。<br />
このクラスの人にお金だけで動く人はいないと思います。<br />
そうでなくてせっかく時代の流れがきて、要請があるのだから、全力で応えようという気持ちなのだと思います。<br />
 けれどそれが結果、本の出来に影響を与え、つまり質を落とし消費しつくされて、著者本人にまで蝕んでいくことは、悲しくなります。<br />
著者もそれが分からなくなってしまうほど、「売れる」というのは怖い世界なのかも知れません。</em></p>

<p>今年になってから単著で『邪悪なものの鎮め方』、共著で『現代人の祈り』、『若者よマルクスを読もう』、『現代霊性論』、『知の現場から』、『白川静読本』、つごう６冊本を出した。<br />
もうすぐ『街場のメディア論』と『おせっかい教育論』の２冊が書店に並ぶ。<br />
私のデスクに今積み上げられていて、校正待ちのゲラは『街場のマンガ論』、『武道的思考』、『村上春樹にご用心・増補改訂版』、『ひとりでは生きられないのも芸のうち・文庫版』、『街場の家族論』、『街場の文体論』、『中沢新一さんとの対談本』の７点。進行中の本は『名越先生との対談本』、『狼少年のパラドクス・文庫版』、『街場の結婚論』、『安田登さんとの対談本』、『成瀬雅春先生との対談本』、『講演録』の６点。そのほか既発ものの文庫化がいくつか予定されている。<br />
これを「バブル」と言わずして、何をバブルと呼ぶべきであろう。<br />
もちろん私が嬉嬉としてこれらの本を書いていると思われては困る。<br />
ずいぶん以前から、新規出版企画は全部断っているのである。<br />
にもかかわらずこれだけ大量の企画が同時進行しているのは、編集者たちの「泣き落し」と「コネ圧力」に屈したためである。<br />
彼らだって、べつに私を「バブル」状態に追い詰めて、どんどんクオリティを下げて、読者に飽きられて、「歴史のゴミ箱」に投じられることを願って、泣き落としているわけではあるまい。<br />
ひとりひとりはまごうかたなく善意なのである。<br />
「よい本」を「いま読まれるべき本」を（そして「できれば利益のあがる本」を）出したいとつよく念じておられるのである。<br />
編集者としては当然のことだ。<br />
しかし、その「善意」も数が揃うと、「バブル」になる。<br />
「なんで、こんなにまでして出版すんの？」とブックファーストの遠藤店長はおっしゃるが、それを言いたいのは私の方である。<br />
バブルがはじければ（いずれ必ずはじける）、そのときは「善意の編集者」のみなさまもみな「ババ」をつかむことになる。<br />
何を措いても「バブル」だけは回避せねばならない。<br />
というわけで、この稿の結論はもうご理解いただけたであろうが、「ゲラは編集者のみなさんの手元には、ご期待の期日までには決して届かないであろう」ということである。<br />
申し訳ないが、しばらく「塩漬け」にさせていただく。<br />
最初の二冊だけは、もう出版予告をしちゃって営業に入っているそうなので、ゲラを送るしかないが、あとについては、すまぬがそういうことです。<br />
というのも、ウチダ本がどれくらいの頻度で書店に並ぶことになるのか、ある程度把握しているのは、ウチダ本人だけだからである。<br />
編集者の方々は同時並行企画がどれほどあるか、実数を知らない。<br />
「バブルのバルブ」を止めることができるのは、書き手だけなのである。<br />
ごめんね。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>日本の人事システムについて</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2010/08/06_1028.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2010://1.2534</id>
   
   <published>2010-08-06T01:28:28Z</published>
   <updated>2010-08-06T23:45:28Z</updated>
   
   <summary>ツイッターで茂木さんが就職活動について書いている。 多くの点で、私も同意見である...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>ツイッターで茂木さんが就職活動について書いている。<br />
多くの点で、私も同意見である。<br />
けれども、完全には同意できないところもある。<br />
意見が違うというのではなく、話を「切り出す順番」が違うということなのかも知れない。<br />
それについて考えてみたい。<br />
茂木さんはこう書いている。</p>

<p>「大卒２割、就職も進学もせずという今朝のニュース　（<a href="http://bit.ly/9IP2QS">http://bit.ly/9IP2QS</a> ）　に思うところあり、日本の就職について連続ツイートします。<br />
大学３年の夏から、実質上就職活動が始まる日本の慣習は、明らかに異常である。学問が面白くなって、これからいよいよ本格的にやろうという時に、なぜ邪魔をするのか。<br />
そもそも、新卒一括採用という慣習は、経営的に合理性を欠く愚行だとしか言いようがない。組織を強くしようと思ったら、多様な人材をそろえるのが合理的である。なぜ、一斉に田植えでもするように、同じ行動をとるのか？<br />
日本の企業がiPadのような革新的な商品、googleやyoutubeのような革新的なサービスを出せない理由の一つに、大学３年から従順に就職活動をするような人材しかとっていないという事実がある。<br />
なぜ、卒業した後、世界各地でボランティア活動をしたり、プログラミングの自習をしたりといった「ギャップ・イヤー」を経験した人材を採らないのか。なぜ、「履歴書に穴がある」などというくだらないことを問題にするのか。<br />
新卒一括採用にこだわっていると、毎年同じ時期に大量の志願者のエントリーがあって、人事部もその能力を発揮しにくい。通年でapplicationを受け付ければ、じっくりと人物も見ることができるし、より実質的な採用ができる。新卒という縛りを外して、毎月受け付けてはどうか。<br />
波頭亮さんは、東大の経済を出て、都市銀行に入って一ヶ月でやめたら、変わり者だと新聞記事になった。４年間ふらふらした。マッキンゼーでインターンしたら、即採用。一ヶ月後には、マハティール首相の前でマレーシアの国家戦略についてプレゼンしていた。<br />
経営上の合理的な根拠もなく新卒一括採用という続けている日本の企業は、つまり、波頭亮さんのような例外的に優秀な人材を見逃し続けているということである。<br />
就職も進学もしなかった２割の諸君、君たちの中には、「ずっと首輪をつけているのが良い」という日本の愚かな社会通念に反発したり、それに自分を合わせられなかった人たちがいるだろう。きみたちこそが、日本の希望だ。がんばれ！<br />
マスコミのみなさんにお願い。卒業して、就職も進学もしなかったのが２割、ということをあたかも異常なことのように報じるのは止めてくれませんか？　日本の常識は、世界の非常識。イギリスのギャップイヤーのことなど、少し勉強なさると良い。<br />
新卒一括採用に偏した日本の就職慣行は、国連人権委員会に訴えられてもよいくらいの愚かさのレベルに達していると考える。<br />
一斉に大学を卒業し、一斉に入社して働きだすという日本のやり方は、「ものづくり」中心だった頃は良かったかもしれないが、インターネットがグローバルな偶有性のネットワークを生み出す時代に、全く時代遅れになってしまった。<br />
新卒一括採用で、他社に遅れると優秀な人材が確保できないと思っている人事担当のみなさん。それは、おそらく幻想です。本当に優秀な人材は、そんな決まり切ったレール以外のところにいます。そろそろ、御社は、世に先駆けて新卒一括採用をやめてみませんか？」（引用ここまで）</p>

<p>大学二年生の秋から始まる「就活」によって、大学教育が深く損なわれていることについて私は茂木さんに同意する。<br />
現場にいる人間としてその被害を痛感している。<br />
単純に、就活によって時間が取られ、大学教育のための学習時間が割かれるということだけではない。<br />
それ以上に深刻なのは、わずか２０歳で「自分は査定される側にあり、この査定を通過しなければ、社会人として認知されない」という「不安」が彼女たちの感情の通奏低音になってしまっていることである。<br />
受験勉強ももちろん「査定」であるけれど、ここまでの「不安」を伴うことはなかった。<br />
というのは、受験の場合「どうして落ちたのか」の理由がはっきりしているからである。<br />
点数が足りなかったのである。<br />
受験勉強すれば必ず点数は上がる。１時間勉強すれば、間違いなく１時間分上がる。<br />
その意味では、受験というのは努力と報酬の相関がかなりの確度で予見される「合理的な」プロセスである。<br />
けれども就活はそうではない。<br />
面接で落とされた場合、本人には「どうして落ちたのか」がわからない。<br />
採用する側は「どうして落ちたか」の理由を開示する責務を免ぜられているからである。<br />
その結果、学生たちは、自分には自覚されていないけれど、ある種の社会的能力が致命的に欠如していて、それがこういう機会に露出しているのではないか・・・という不安を抱くようになる。<br />
その不安が就活する学生たちをしだいに深く蝕んでゆく。<br />
周囲の仲間たちが次々と内定をもらってゆくなかで、黒いスーツを着続けている学生たちをいちばん傷つけるのは、「自分にどのような社会的能力が欠如しているのか開示されないままに、その能力を査定されるゲーム」に参加させられているという理不尽さである。<br />
私自身はできる限り就職の面接官たちからの聴き取りを行って、就活の面接での着眼点が何であり、採否の基準が何であるかを学生たちには教えている。<br />
そして、それは決してランダムなものではなくて、採否にはそれなりの合理性があるというふうに学生には説明している（一片の合理性があると信じなければ、彼女たちだって「こんなこと」には耐えられない）。<br />
現行の就活は、「優秀な人材の登用」よりもむしろ、日本の若者たちを「組織的に不安にさせること」を結果として生み出していることを、企業の人事担当者はもう少し自覚して欲しいと思う。<br />
たしかに、「査定され、排除されることの不安」につねに苛まれている状態に若者たちを置けば、彼らがいずれ「使いやすい」人材になることは間違いない。<br />
「文句があるなら、いつでも辞めろ。おまえの代えなんか、いくらでもいるんだ」という恫喝ほど若者たちを凍りつかせるものはない。<br />
自分の社会的能力について不安を抱く若者たちは、たしかに上司からすれば使いやすい部下であるかも知れない。経営者からすればいくらでも労働条件を切り下げられる「安い労働力」であるかも知れない。<br />
けれども、そうやって一国の若者たちを「査定される不安」のうちに置き続けてきたことで、国の「勢い」そのものが枯死しつつあるという事実に、エスタブリッシュメントの方々はもうすこし自覚的になってもよいのではないか。<br />
私は茂木さんと同じく、新卒者を一斉に採用し、経歴の「穴」を許容しないという日本の企業の人事体質を不合理だと思う。<br />
けれども、その第一の理由は、それだときわだって優秀な人材が採用できないからではない。<br />
「きわだって優秀な人材」というのは（その語の定義からして）、企業の人事戦略などとは無関係なところでそれぞれ個性的な仕方でその才能を発揮しうる人たちである。<br />
だから、正直言って、彼らのことなんかは「ほうっておいてもいい」のである。<br />
問題は「きわだって優秀なわけではないが、育てようによっては、かなりいいところまで行きそうな潜在能力をもった人たち」（若者たちのボリュームゾーンを形成する部分）を日本社会が構造的に「潰している」という事実の方である。<br />
「支援すれば、大きく花咲く可能性」のある若者たちを「支援し、激励し、国力の底上げをする」という事業に日本のエスタブリッシュメントはさっぱり関心を示さない。<br />
「可能性がある」という言い方をしたが、それは「支援したけれど、才能がさっぱり開花しなかった」というリスクを含んでいるということである。<br />
正直に言うけれど、この「可能性ある若者への投資」の回収率は決して高くない。<br />
少年少女のときに「オーラ」を帯びていた多くの人たちが、しばらくして会ってみたら、「オーラ」を失っていたというケースを私たちは繰り返し見ている。<br />
いつ、どうして、彼らがそのアドレッセンスの輝きを失ってしまったのか、理由はわからない。<br />
外的条件がそう強いたのか、彼らの中で何かが「死んだ」のか。<br />
高い確率で、生来の才能は枯死する。<br />
だから、「支援さえすれば、誰でも才能を開花させる」というのは経験的には事実ではない。<br />
けれども、それは「だったら支援する必要がない」ということではない。<br />
若々しい才能は脆く、弱い。<br />
恐怖によって、恫喝によって、不安によって、花開く前に失われてしまう。<br />
だからこそ、それは守らなくてはならない。<br />
いくら手立てを尽くしても守り切れはしないけれど、それでもできるかぎり守らなくてはならない。<br />
私は一教員としてそう思っている。<br />
少年少女の開花可能性をもっとも傷つけるのは「自分の潜在可能性に対する懐疑」である。<br />
そして、この懐疑は、査定され、格付けされ、「勝者には報酬を敗者には処罰を」というセレクションにさらされているうちに、焦燥と不安を栄養分にしてどんどん膨れ上がってゆく。<br />
そういうことはやめてほしい、というのが教育の現場にいる一教師として私の願いである。<br />
私はいまの雇用システムでは、「きわだって優秀な人間がそれにふさわしい格付けを得られない」ことよりも、「ふつうの子どもたちが絶えず査定にさらされることによって組織的に壊されている」ことの危険の方を重く見る。<br />
正直言って、私は日本人がｉＰａｄを発明しなくても、ＹｏｕＴｕｂｅを発明しなくても、別に構わないし、それをとくに恥じる必要もないと思っている。<br />
それより、ふつうの人たちが等身大の自尊感情を持って暮らせる社会を確保することの方が先決ではないかと思うのである。<br />
繰り返し言うけれど、私は茂木さんの意見に異議があるのではない。<br />
私たちの社会が直面しているいくつかの危機的兆候のうち、どれが緊急の「手当」を要するものであるかについての「被害評価」が微妙に違うというだけのことである。<br />
私たちはいずれにせよ「同じボート」に乗っているのである。</p>]]>
      
   </content>
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   <title>院内暴力とメディア</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2010/08/04_1026.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2010://1.2533</id>
   
   <published>2010-08-04T01:26:25Z</published>
   <updated>2010-08-05T00:18:08Z</updated>
   
   <summary>奈良県医師会が医療関係者１７０００人対象にアンケートした結果、医師・看護師の６０...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>奈良県医師会が医療関係者１７０００人対象にアンケートした結果、医師・看護師の６０％が患者から暴力や暴言による被害を受けていたと回答があった。<br />
医療現場での「院内暴力」は年々問題化しており、それにより医療従事者の相当数が「仕事への意欲が低下した」「仕事に不安を感じている」。<br />
（8月4日毎日新聞）<br />
患者や家族から医療従事者への「暴力暴言」が急増したことについて、新聞はこのように「知らぬ顔」で報道しているが、この「院内暴力」に関してはマスメディアは「他人顔」ができる筋ではないと私は思う。<br />
私が知る限り、過去十年、メディアは医療現場における「患者の増長」について、まったく批判的スタンスをとったことがない。<br />
むしろ、医療現場における「患者の権利」の無条件擁護、医療事故における医療従事者への集中的なバッシングを通じて、「医療従事者に対して苛烈な批判を加えれば加えるほど、日本の医療水準は向上する」というイデオロギーを刷り込むことにマスメディアは深くコミットしてきたと私は思う。<br />
院内暴力をふるう人々ひとりひとりが別にとりわけ邪悪な人間であると私は思わない。<br />
彼らは「ふつうの人」である。<br />
「ふつうの人」が暴力的になるのは、「医療従事者に対しては暴力的にふるまっても罰せられない」という「社会の空気」を読んでいるからである。<br />
市民的常識を疑われ、民事刑事さまざまのペナルティを受ける覚悟の上で、「院内暴力」に踏み切るほど果断な患者はそうはいない。<br />
院内暴力をふるう人々の８０％は、「そういうことはよくない」と教えられれば「そういうこと」をしない人たちである。<br />
その人たちが「そういうこと」をするのは、「そうすれば医療が改善される」という「刷り込み」があるからである。<br />
彼らは「ほとんど善意」に基づいて、医療従事者を罵倒し、こづき回すのである。<br />
数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。<br />
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。<br />
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。<br />
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。<br />
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。<br />
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。<br />
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。<br />
医療も（教育と同じく）商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである（覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である）。<br />
患者は（消費者として）「最低の代価で、最高の医療サービスを要求する」ことを義務づけられる。その「ニーズ」に応えることのできない医療機関は遠からず「マーケット」から退場する。その結果、最高の費用対効果で、最良の医療サービスを提供する医療機関だけが「淘汰」を生き延び、日本の医療水準はますます高まる。だから、患者もまた医療機関に対して、できるだけ少ない代価で、最高のサービスを要求「すべき」なのだ。<br />
政治家たちはそう考えた。<br />
マスメディアもその尻馬に乗った。<br />
その頃、私は医療における「賢い患者になろうキャンペーン」とか「インフォームド・コンセント」論といった「政治的に正しい医療論」に対して、「こんなことを続けたら、日本の医療は崩壊する」と繰り返し警告していた。<br />
医療とはかかわりのない素人の論であったが、医療メディアは私の主張を何度も取り上げてくれた。<br />
だが、マスメディアから「医療に関する意見」を徴されたことは過去に一度もない。<br />
それは私の意見がマスメディアの主張とまったくなじまないものだったからである。<br />
さすがに医療崩壊の実情を知るにつれて、最近ではメディアの医療バッシングの筆勢は衰えたが、それでも自分たちがこの現場の荒廃に「責任がある」という言葉は口にしない。<br />
たぶん、そう思ってもいないのだろう。<br />
すでに何度も引用しているものだが、もう一度繰り返す。<br />
土地、大気、土壌、水、森林、河川、海洋などの自然環境、道路、上下水道、公共交通機関、電力、通信施設などの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、金融、司法、行政などの制度資本は、「社会的共通資本」と呼ばれる。それは、広い意味での人間の生きる「環境」を形成する。<br />
社会の土台である。<br />
その要件は、軽々に変化してはならないということである。<br />
「社会的共通資本は、それぞれの分野の職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって、管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。（・・・）社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである。」（宇沢弘文、『社会的共通資本』、岩波新書、2000年、２２頁）<br />
メディアは「社会的共通資本」について、これがきわめて重要な概念であることを知りながら、決して論及しない。<br />
メディアが「社会的共通資本」に算入されていないからである。<br />
メディア知識人が「職業的専門家」にリストアップされていないからである。<br />
メディアは人間が生きる環境としては「あっても、なくても、どちらでもいい」と宇沢先生が思っているから、メディアはこのような理説が存在すること自体を「無視する」のである。<br />
そして、職業的専門家以外が容喙すべきではないとされた、あらゆる分野に手を突っ込み、それをあるときは「政治的正しさ」にリンクし、あるときは「市場のニーズ」にリンクして、専門家によってさえコントロール不能なものにする。<br />
人間の生きる環境そのものが人間のコントロールを離れた状態になること、それをメディアは無意識のうちに臨んでいる。<br />
「カオス」と「カタストロフ」に対する「抗い難い欲望」がメディアを駆動している（それが最高の「ニューズ」であり、そのような破局的状況においてメディアに対する市場の需要は頂点に達するからである）。<br />
混沌と破局を求めるのは、人間の本性の一部であるから、そのような欲望を「持つな」ということは誰にも言えない。<br />
けれども、そのような欲望に駆動されてあることについて、メディアの当事者はもう少し自覚的であってもいいのではないか。<br />
</p>]]>
      
   </content>
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   <title>卒論の書き方</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2010/08/03_1235.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2010://1.2532</id>
   
   <published>2010-08-03T03:35:14Z</published>
   <updated>2010-08-03T08:22:46Z</updated>
   
   <summary>四回生たちに卒論中間発表の「心得」をメールで送信した。 学生にむかって「卒論とは...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>四回生たちに卒論中間発表の「心得」をメールで送信した。<br />
学生にむかって「卒論とは何か」ということを書くのも、これが最後の機会であるので、記念にそれを転載することにした。<br />
うちのゼミ生に限らず、「卒論って、どうやって書けばいいんだろう・・・」と困っている学生諸君の一助になればと思う。</p>

<p>みなさまへ「卒論中間発表の心得」<br />
暑いですね。ぼくも暑さと忙しさで死にそうです。<br />
みなさんも就活やバイトやら旅行やらでたいそうお忙しい夏休みをお過ごしのことと思いますが、「卒論」というものがあることを忘れてはいけません。<br />
卒論中間発表について、ご連絡いたしますので、熟読玩味してください。<br />
（１）	とき：<br />
（２）	ところ：<br />
（３）	用意するもの：草稿、ハンドアウト（１９枚）<br />
（４）	草稿について：字数：６０００～８０００字（音読して１５～２０分）<br />
必ず書かなければいけないことは<br />
「タイトル」<br />
「目次」<br />
「序章」：ここでは、その研究主題を選んだ理由を示すと同時に、先行研究についての批判を必ず行ってください（その理由はあとで説明します）。<br />
「これまで書き上げた分のうちの一章」<br />
学術論文の場合、必ずしも第一章から順番に書くわけではありません。途中から書いたり、途中を抜いて前後から詰めていったりすることもあります。「序論」なんかはたいていいちばん最後、「結論」を書いたあとに書くものです（そうしないと、「序論」でもくろんだのとぜんぜん違う結論になったときに困りますから）。<br />
中間発表では「とりあえずまとまった章」だけ発表してもらいます。<br />
以上全部あわせて６０００～８０００字。<br />
（５）	ハンドアウト：A4一枚。いつのも発表のレジュメと同じですが、今回は、「タイトル」と「全体目次」を必ず書き入れておいてください。<br />
（６）	執筆上のご注意<br />
なによりもまずご理解いただきたいのは、これはたぶんほとんどのみなさんにとって生涯に書く最初で最後の「学術論文」だということです。<br />
これまで書いてもらったものは「レポート」です。「論文」ではありません。<br />
「レポート」と「論文」はどこが違うか、わかりますか？<br />
「レポート」は「私はこれだけ勉強しました」ということについての「報告」で、提出先は「先生」です。ふつうは先生ひとりしか読みません。<br />
先生はそれをぱらりと読んで「ほ、７５点」「ふん、８３点」とか点をつけます。成績表を見た学生さんが「この点数の積算根拠についてアカウントを求めたい」というようなことを言ってこられても、こちらは「そんな昔のことは覚えちゃいないね」と『カサブランカ』のハンフリー・ボガードのように遠い目をするばかりです。<br />
なにより「レポート」は「これだけいっしょうけんめい勉強しました」ということを誇示するのがおもな目的ですので、参考文献をたくさん読んで、そこに書いてある内容を「これでもか」と言うほど引用すれば、けっこうなスコアがもらえます。<br />
オリジナリティとか、新説とか、そのようなものは「レポート」には求められません。<br />
そこが「学術論文」と違うところです。<br />
「学術論文」は逆に「それしか」求めません。<br />
他の本に書いてあることを糊と鋏で切り貼りして「一丁あがり」ともってきたら「レポート」で１００点もらったけれど、同じペーパーをそのまま卒論に出したらは０点だった、ということは（理論上は）ありえます。<br />
そこに「何も新しいもの」がなければ、０点をつけられても学者は文句を言えないのです。<br />
諸君は学会というようなところに行ったことがないからご存じないでしょうけれど、そこでは「まだ誰も言ったことのないこと」を言うために学者たちが集まってきて、論文を読み上げて、さかん議論をしています。<br />
そして、質疑応答のときに、「あなたのそのホニャララ説なるものは、すでに別の学者によって発表されている」という指摘がなされたら、それで「アウト」です。即、退場。<br />
学術上の新発見をジャーナルに投稿したら、別の研究者が同じ発見を一日前に投稿していたので、ノーベル賞をもっていかれた・・・というような話はみなさんもご存じでしょう。<br />
学術の世界では「プライオリティ」（先取権）というものが重く見られます。<br />
「まだ誰もそのことを言っていないこと」を言うことに、それにのみ学者の栄光は存します。<br />
他の人がすでに発見し、理論化し、本に書き、世間周知のことを、こちょこちょと糊と鋏で切り貼りして、「これが私の論文です」といばってみても「バカ」だと思われるだけです。<br />
プライオリティ、あるいはオリジナリティということは、もうひとつのもっとたいせつな条件と結びついています。<br />
それは公開性ということです。<br />
「まだ誰もそれを言っていないこと」であるかどうかは、実は「先生」にはわかりません。<br />
「先生」だって専門以外のことについてはあまりよく知りません（専門のことについてだって、けっこう穴だらけ）。<br />
だから、論文を読むのが「先生ひとり」であれば、先生がぜんぜん知らなそうな分野のことであれば、「ありもの」を切り貼りして先生を騙すことは可能です。<br />
先生ひとりなら騙せます。<br />
でも、「レポート」と違って、「学術論文」は天下に公開されます。理論上は世界中のすべての人がアクセスできるようなかたちで発表されます。<br />
だから、誰かの本からこっそり抜き書きして「ニセ論文」を作って提出すれば、先生ひとりは騙せても、その分野の専門家たちが見れば、たちまち馬脚があらわになります。<br />
学術論文が公開されるのは、ひとつにはそのように「プライオリティやオリジナリティが真正のものであるかどうか検証する」ということがたいせつだからです。<br />
でも、もうひとつ、もっと大事な理由があります。<br />
それは学術研究が本質的には「他者への贈り物」だからです。<br />
「レポート」の場合は、「ぜひこれを読んで貰いたい」という読者を想定して書いているわけではありません。<br />
どうせ読むのは先生ひとりだし、書いている学生さんにしても、その先生に対しても「このことだけは知って欲しい」という特段のメッセージがあるわけではありません。知って欲しいのは「ちゃんとまじめに勉強しました」ということだけです。伝わって欲しいのは「だから単位ください」というメッセージだけです。<br />
学術論文はそうではありません。<br />
誰が読むのかは、それは書いているときはまだわかりません。<br />
いつか、どこかで、その論文を手に取ることになる「誰か」です。<br />
みなさんが今回選んだのと同じテーマについて、何となく気になって、前からいろいろ考えていて、「もっと知りたい、もっと理解したい」と思っている「誰か」です。<br />
論文はその「まだ見ぬ読者」を宛先にした「贈り物」です。<br />
その読者に「ああ、私は『こういうもの』を探していたのだ。『こういうもの』を読みたかったのだ」と思って貰うように書く。<br />
その「贈り物」性こそが学術論文の本質であると申し上げてよろしいでしょう。<br />
「レポート」はどんなにすばらしいものを書いても、読者は先生ひとりであり、高いスコアをもらうことによる受益者は書いた学生ひとりです。<br />
「論文」は、潜在的読者は「万人」であり、それがすぐれたものであった場合に、そこから受益する人間の数は（理論上は）「無限」です。<br />
ですから、論文の卓越性は、それが「どれだけ多くの人に『贈り物として』受納されたか」を基準に査定されることになります。<br />
そのことをきちんと頭に入れておけば、「どういうふうに書くか」、論文の書き方もおのずからわかってくるはずです。<br />
「論理的に書く」<br />
当たり前ですね。ひとりでも多くの読者にわかってほしくて書くんですから、むろん情理を尽くして説く。順序立てて論じる、論拠を示す、適切な例証を引く。<br />
「引用出典を明らかにする」<br />
先行する研究はもちろん十分に参考にしなければなりません。<br />
でも、他人の知見やよその人が調べたデータを「自分のオリジナルのもの」であるかのように偽装することは許されません（それは「盗用」と言って、学術の世界ではきびしい罰の対象になります）。<br />
先行研究は先人から私たちへの「贈り物」であるわけですから、その中からとりわけ「よいもの」を選りすぐって次世代の研究者に「パス」することは私たちのたいせつな世代的義務です。<br />
でも、それが「誰からの贈り物」であるかを示す「タグ」を私たちが勝手にはずして、自分の名前を書き込んで贈り物にしてはいけません。<br />
「これはＸさんからの、これはＹさんからの、そしてこれは私からの贈り物です」とちゃんと区別して手渡すのが、ふつうの場合でも礼儀ですよね。<br />
それと同じです。<br />
「自分のオリジナリティを明らかにする」<br />
「先行研究批判」というのは、先行研究を「否定する」という意味ではぜんぜんありません。間違えないでね。<br />
先行世代から「どさっ」と手渡された「学的贈り物」の山の中から、「この論件について研究する次世代の研究者には、これとこれは残しておかないといけないね」とセレクトすること、それが「先行研究批判」です。<br />
そして、このセレクションの作業を通じて「私からの贈り物」の意味が際立ってきます。<br />
みなさんが、クリスマスや誕生日に友だちにプレゼントする場合と同じです。<br />
贈り物が「かぶらない」ようにするでしょ。<br />
学術的オリジナリティも、それと同じです。<br />
先行世代からの贈り物と「かぶらないようにする」こと。<br />
私からの贈り物は「ほかの誰のものとも重複しません」という名乗り。<br />
それがオリジナリティということです。<br />
「私のこの贈り物と同じものを思いついた人は、これまで世界に誰もいません」という宣言がなしうることを「プライオリティ」と言います。<br />
おわかりになりましたか。<br />
「学術論文を書く」ときの心構えは、みなさんがふだん生活しているときに「たいせつなひとに、自分のことをいつまでもきちんと記憶してもらいたくて贈る贈り物」を選ぶときの基準とまったく同じです。<br />
とりあえずみなさんは「自分が選んだ研究テーマと同じテーマで来年卒論を書こうとしている内田ゼミの３回生」を「想像上の読者」に想定して書いてください。<br />
彼女がすらすら読めるように、彼女が「当然知っていること」はさらっと流し、「このへんは説明が必要」だと思うところは、じっくりていねいに。彼女が「自分もそのデータや参考文献を調べたい」と思ったときに、すぐにアクセスできるように、データや論拠の引用出典を示すこと。「これが先輩のオリジナルなアイディアなんだな」ということがわかるように、「先人からの贈り物」にはその「タグ」を、「これは私の意見です」というものにはその「タグ」を、必ずつけること。<br />
とりあえず、その３点に注意して執筆してみてください。<br />
論文の書き方の形式的なことは『岡田山論集』の掲載論文をご覧ください。<br />
では、諸君の健闘を祈ります。<br />
よい夏休みを！<br />
</p>]]>
      
   </content>
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   <title>指折り待ってる夏休み</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2010/08/02_2038.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2010://1.2531</id>
   
   <published>2010-08-02T11:38:53Z</published>
   <updated>2010-08-03T03:46:02Z</updated>
   
   <summary>7月26日から多忙のためブログの更新を怠っていた。 今日は8月2日。ちょうど一週...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>7月26日から多忙のためブログの更新を怠っていた。<br />
今日は8月2日。ちょうど一週間。<br />
備忘のために、この一週間のできごとを記す。<br />
7月26日（月曜日）<br />
あまりに遠い昔のことなので、記憶にないが、たしか大学に出勤して、成績をつけていた。<br />
それぞれ180人くらい履修者がいる「キャリア教育」と「音楽との対話」の採点と成績表への転記の手間を考えて気が遠くなっていたら、キャリア教育については、4月末に授業担当を終えたあと、全員の出席をチェックし、ひとりひとりの書いた感想を読んでちゃんと点数をつけていたことが発覚。<br />
おかげで作業時間が３時間ほど浮いた。<br />
「過去の私」からの贈り物である。<br />
あまりのうれしさに自分に向かって「ありがとう」と呼びかける。<br />
さくさくと作業を終えて帰宅した（ように思う。違うかもしれないが、家以外にどこにも行くところがないから、たぶん家に帰ったのだと思う）。<br />
7月27日（火曜日）<br />
朝10時、三宅接骨院でぐりぐり。<br />
13時から専攻ゼミ最後の授業。<br />
卒論の中間発表の要領についてメールで全員に連絡（するのを忘れていた。日記書いてよかった。今から送信しないと）<br />
15時から聖教新聞の取材。<br />
思春期の子どもを親はどう教育すべきか、というお訊ね。<br />
思春期の子どもは「親がキライになる」時期であり、それは成熟の自然過程なので、子どもが態度悪くても気にしないこととお答えする。<br />
思春期に「きちんと放っておいて貰った」ことが親の気配りであったことに子どもは４０歳くらいになると気づくのであるが、それまで気長に待つしかない。<br />
「思春期に親子の仲が悪くなる」というのは自然過程であって、「よいこと」なのである。<br />
それを経由して、親子の関係は変質するのである。<br />
メディアはそういう経験則をちゃんと報道せねばならないと申し上げる。<br />
引き続き、大学院ゼミ。<br />
スナダくんの発表で、お題は「日本と大日本帝国」<br />
平川くんの『移行期的混乱』のゲラを読んだばかりだったので、「成長戦略がなくても、愉快に暮らすためにはどうすればいいか」という話になる。<br />
ゼミの後は、非常勤講師懇談会。<br />
ホストはワルモノ先生、なばちゃん、コトコ先生、三杉先生（西田パパはお休み）。<br />
ゲストは山本画伯、ジローくん、こばやん、ともちゃん、マスダくん、平尾くん、ウッキーら（ほかに江さんやケイゾーさんや矢内くんや関川夏央さんもお招きしているのだが、みなさん都合がつかずにお休み）<br />
ほとんど身内の宴会状態であるように見えるが、これは私が仕事で知り合った人たちとすぐ仲良くなってしまうので、「ウチダが仕事しているところ」を外から見ると「友だちと遊んでいる」ようにしか見えないということであって、ことの順逆を間違えられては困る。<br />
二次会にぞろぞろと北口に出ると、大学院の打ち上げ宴会をしている院生聴講生たちと接近遭遇（あきぽんとスナダ青年以外は「ほぼジュリー部」状態）。<br />
20人くらいが順番に自己紹介したら、それだけで３０分ほどかかってしまた（いちいち画伯とジローちゃんがややこしいツッコミを入れるせいもある）。<br />
これが「神戸女学院大学での師弟関係」で結ばれた人々であるということを外部の人にアカウントすることはきわめてむずかしそうな集団であった。<br />
みなさん、よい夏休みを。<br />
7月28日（水曜日）<br />
三宅先生にぐりぐりしてもらってから、ＡＥＲＡと「多事争論」の原稿を書き上げて、送稿。<br />
夕方に梅田に出て、ビックマン前にて野木さん、足立さんの新潮社コンビと待ち合わせ。<br />
また新しい仕事の企画を持ち込まれるが、「聞こえないふり」をしてスルー。<br />
野木さんはもう定年で退職されて、いまは嘱託で残っているのだそうである。<br />
明日源ちゃんと会うんだよという話をする。<br />
野木さんは灘高の人で、名前だけは知っていたが、学士会館であった竹信悦夫の「送る会」ではじめてお会いした。<br />
不思議なもので、19歳のときからの友人である竹信の１２歳のときからの友人であるこの二人を、私もまた１２歳からずっと知っているような気になるのである。<br />
野木さんに会うと、いつも「懐かしい」気分になる。<br />
野木さんとの仕事はだからさすがにスルーできない（さっきスルーしたのはアダチマホ・マターの方ね）。<br />
野木さんと二人で一冊本を作る。<br />
これは来年の春頃出る予定だが、献辞のあるなしにかかわらず、これは「竹信悦夫の思い出に」捧げる一冊ということになる。<br />
それから場所を変えて、こんどは名越康文先生、釈徹宗先生の『現代人の祈り』の共著者トリオで、『新潮４５』のための鼎談。<br />
名越先生がすごいドライブで、私が最初に口を開いたのは鼎談が始まって４５分くらいしてから。<br />
2時間ほどしゃべってから、コントワール・ド・ブノワに移って、ご飯。<br />
お酒が入ると、もうたいへん。<br />
話としてはこっちの方がずっと面白かったが、もちろん採録不能である。<br />
7月29日（木曜日）<br />
この日から夏休みのはずであったが、まだ私の夏休みは始まらない。<br />
早起きして、新幹線で東京へ。<br />
有楽町のよみうりホールで、近代文学館主催の「昭和という時間」連続セミナーで、高橋源一郎さんと対談。<br />
お題は「吉本隆明と江藤淳－最後の批評家」<br />
私は考えてみたら、吉本隆明にも江藤淳にも会ったことがある。<br />
吉本さんには３年ほど前、『中央公論』で対談した。<br />
江藤さんは1966年の秋に、日比谷高校の『星陵』のための原稿を市ヶ谷のご自宅まで取りに行ったことがある。<br />
江藤さんはなんと私のいた日比谷の雑誌部の先輩だったのである。<br />
１６歳のウチダの眼に『作家は行動する』で洛陽の紙価を高めた新進批評家はどのように映ったのか・・・という「お蔵出し」のネタをご披露する。<br />
吉本隆明・江藤淳がある意味で「真の昭和人」であるという納得の結論。<br />
楽屋口に編集者のみなさんが仕事の催促のために列を成しているので卒倒しかけるが、踏みとどまって、寛也さんとともに脱兎の如く逃げだして神楽坂の稽古場へ。<br />
夕方からそこで宴会があるのだが、それまで２時間ほど仕事をさせていただく。<br />
この宴会の趣旨をご説明するのはいささかむずかしいのだが、参院議員で、鳩山政権の官房副長官だった松井孝治さんが『Ｓｉｇｈｔ』での源ちゃんと私のコンビの暴論をおもしろがり、ときどき二人を呼んで話を聴きたいということでセッティングされたのである。<br />
前回の集まりでは文科省副大臣の鈴木寛さんもまじえて鳩山総理とご飯を食べたのは既報の通り。<br />
稽古場下の神楽坂「梅香」で寛也さんとビールを飲んでいたら、やっぱり仕事を片づけていた源ちゃんが登場。<br />
三人でわいわい飲んでいたら、両院総会を抜け出してきた松井さん登場。それからフォトグラファーの田頭さん、電通の「さとなお」さん、矢内賢二さん(非常勤講師懇談会に欠席されたので、ここでその代わりにお礼を言上）、寛也さんのご令嬢、松井さんのご令息、文化庁長官の近藤さん、民主党の逢坂誠二さん、鈴木寛さん、細野豪志さん、松本剛明さん、最後に鳩山前総理が「や、どうも」と現れて、なんだかすごいことになってしまった。<br />
菅批判が噴出した両院総会の直後だったので、当初予定されていた「清談」よりはだいぶ温度の高いセッションになったが、生の政治過程を「砂かぶり」で拝見するという得がたい「インターンシップ」経験を源ちゃんも寛也さんも私も堪能させていただいたのである。<br />
7月30日（金曜日）<br />
ぼろぼろになって学士会館で目覚める。<br />
菅政権のこれからについて、たいへんリアルかつソリッドな意見交換をしながら雪中梅をじゃんじゃん飲んでしまったので、ひさしぶりの二日酔い。<br />
二度熱いシャワーを浴びて、よろよろとタクシーをつかまえて外務省へ。<br />
中堅の外務官僚のみなさんをお相手の研究会に呼ばれたのである。<br />
生酔いの頭で「２１世紀日本の国家戦略」について１時間ほど講演をする。続いて質疑応答。<br />
「社会的共通資本」は政治イデオロギーにも市場にもリンクさせてはならないという宇沢弘文先生の理論に基づいて、「変化しなくてもいいものは、変化しなくてよろしい」ということを説く。<br />
聴衆の笑い声から勘案するに、わりと好意的な反響だったようである。<br />
私のような人間の法螺話に与党政治家に続いて、外務官僚から「ご意見拝聴」のお座敷がかかるというのは、いったいどういうことであろう。<br />
日本はそんなことで大丈夫なのであろうか。<br />
ひとごとながら（ひとごとじゃないけど）心配である。<br />
2時間しゃべったら二日酔いも治ったので、元気になって今度は湯島へ移動。<br />
マキノ出版というところで成瀬雅春先生と対談。<br />
成瀬先生とはヨガの教室で２度、『秘伝』で１度、つごう三回対談している。<br />
成瀬先生はめちゃフレンドリーで、たいへんお話が面白くて、つい時間の経つのを忘れてしまう。<br />
なにしろ、「超人」を生身で見て、「超人であるのって、どんな感じなんですか、どうしたらなれるんですか」と直接ご本人にお訊きできるのであるから、武道家としてこのような好機を逸するわけにはゆかない。<br />
今回もおもしろい話をたくさん伺った。<br />
この対談はもう少し続けて、来年には本になるそうである。どうぞお楽しみに。<br />
夕方湯島を出て、寛也さんにお茶の水でお会いして、稽古場に忘れた「ｉＰａｄ、眼鏡、傘、ハンカチ」を届けていただく。<br />
それをぜんぶ机の上に忘れて「じゃ、失礼します」と帰ってしまうくらいに私は酔っていたのであるが、政治家のみなさんは（鳩山さん以外）、みんなそのあともぐいぐいやっていらしたそうである。<br />
政治家ってタフじゃないと勤まらないよと日頃ワルモノ先生が言っておられるけれど、ほんとにそうですね。<br />
新幹線に乗って、鰻弁当を食べ、ビールを飲んだら、はげしい睡魔に襲われ、そのまま京都まで爆睡。<br />
7月３１日（土曜日）<br />
早起きして、オープンキャパスへ。<br />
この週末は日本中どこもオープンキャンパスである。<br />
あちこちのブースを回って、入試部長として、激励のご挨拶。<br />
それからこそっと職場を抜け出して、岡田山ロッジへ。<br />
今日はこちらで合気道のお稽古。<br />
二部授業４時間連続である。<br />
あまりの暑さに、死ぬかと思いました。<br />
脱水状態で帰宅。<br />
8月１日（日曜日）<br />
オープンキャンパス二日目。<br />
職務上、朝から行こうと思っていたのであるが、さすがに疲労が深く、起きられない。<br />
昼前にのろのろ起き出して、大学へ。<br />
１３時に西日本新聞社の取材。<br />
お題は「英語社内公用語化」論。<br />
そういうことをしちゃダメである所以をさまざまな角度から論じる。<br />
終わって、１５時から講演。<br />
お題は「神戸女学院大学のススメ」<br />
100人ほどの聴衆の前で、本学の会衆派的組織原理と、ヴォーリズの設計思想と、「教育は軽々に変化してはならない」論を６０分ほど語る。<br />
途中で何かが「降りて」来たらしく、だんだんハイになる。<br />
ヴォーリズ設計の講堂の「説教壇」の上で、ミッションと学びの意味について論じているのだから、何かが降りてきても不思議はない。<br />
完全にバーンアウトして、帰宅。<br />
やれやれこれでようやく夏休みが始まる。</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>『借りぐらしのアリエッティ』を観てきました</title>
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   <published>2010-07-25T23:56:42Z</published>
   <updated>2010-07-25T23:57:11Z</updated>
   
   <summary>ジブリの『借りぐらしのアリエッティ』を観てきた。 ジブリの新作だけは、映画館で見...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>ジブリの『借りぐらしのアリエッティ』を観てきた。<br />
ジブリの新作だけは、映画館で見ることにしている。<br />
『ＢＲＵＴＵＳ』の宮崎駿特集にも書いたけれど、宮崎駿の映画的達成については語るべきことが多い。<br />
それはたぶん宮崎駿という人が、あまり「テーマ」とか「メッセージ」とかいうことを深く考えず、「描いて気持ちがいい絵」、「観て気持ちがいい動き」に集中しているからだろうと思う。<br />
身体的な「気持ちのよさ」をもたらす要素は多様であり、私たちはそれを完全にリストアップすることはできない（半分もできない）。<br />
でも、ひとつは確実にわかっている。<br />
それは「ヒューマンスケールからの逸脱」である。<br />
日常的な生活身体を以てしては決して経験することのできない「速度」や「高度」や「風景」や「体感」に同調することである。<br />
凡庸な作家は、日常的には禁圧されている暴力とエロスを描けば「気持ちが良くなる」と思っている。<br />
けれども、暴力的・エロティックな方向への「逸脱」はすでにフィクションの世界では擦り切れるほど使われすぎたせいで、「ほとんど日常」と化しており、異常な強度によるか不意を衝くような提示によってしか「震え」をもたらさない。<br />
宮崎駿は久しく「飛行」と「疾走」のもたらす身体的快感をどのように観客に追体験させるかに技術的な工夫を凝らしてきた。<br />
『借りぐらしのアリエッティ』も、非日常的な仕方で身体を使う主人公に同調することで映画的快感を経験するというスキームそのものは変わらない。<br />
けれども、今回ははじめて「非日常的縮尺」という仕掛けを用いた。<br />
主人公は「床下のこびと」であるから、人間の世界の事物はどれも桁外れに、非人間的に巨大なものとして映現する。<br />
『ガリバー旅行記』で主人公が「巨人の国」を訪れるエピソードにおいて、<br />
スウィフトは巨人たちを「スケールが巨大化しただけで、あとはふつうの人間と同じ生き物」として描いた。<br />
スケールを巨大化するだけで、生物の印象は一変する。<br />
ガリバーはそこで、人間の体臭がどれほど耐えがたいものか、人間の皮膚の毛穴がどれほど汚ないものか、人間のたてる物音がどれほど耳障りなものかを思い知らされる。<br />
『アリエッティ』でも、ガリバーと同じ工夫がなされている。<br />
人間の立てる音は巨大な、轟音に類するものとしてこびとたちの耳に届く。<br />
少年が最初にアリエッティに語りかける静かな声は、アリエッティの耳には（観客の耳にも）ざらついた轟音のように響く（映画が進行するにつれて、音量はしだいに絞り込まれて、「ふつうの声」に聞こえるようになるけれど）。<br />
面白かったのは、「水滴」の描き方である。<br />
こびとたちの基準では水の粒子はかなり巨大なものになる。<br />
アリエッティ一家がお茶をしたりスープを啜ったりする場面が何度か繰り返されるけれど、その「水分」はほとんど「そばがき」のような「かたまり」なのである。縮尺的にはこれで正しい。<br />
だから、たぶん「水を飲む」ときに、こびとたちは私たちが「トマトをまるごと呑み込む」ような抵抗感を喉に感じるはずである。<br />
それに近い違和感を私たちは映像的に経験する。<br />
「こびとと人間」のサイズの差はもっぱら視覚的に表象されるはずだという常識を裏切って、こびとの世界では「モノそれ自体」が触覚的に違う仕方で切迫してくる。<br />
これはすばらしい着眼点である。<br />
けれども、それだとすれば、その触覚的な違和感はほかのものに対してもひとしく適用されるべきではなかったかと思う。<br />
映画のクライマックスはアリエッティと翔が指を触れあうところだけれど、ここで私は軽い失望を覚えたことを告白せねばならない。<br />
なぜか人間の皮膚はこびとの皮膚と同質に描かれていたからである。<br />
ガリバーの報告に従うならば、こびとの眼には人間の指先は深い溝が刻み込まれ、さまざまな分泌物や埃や汚物の詰まった、大小無数の「丘」の連鎖のように見えるはずである。<br />
もちろんそこまでリアルに描く必要はないけれど、せめて「深い溝」くらいは描いて欲しかったと思う。<br />
その触覚的違和感が感知できれば、人間とこびとの共生不能というアリエッティ一家の結論に観客は深く同意できたと思うのだが。<br />
もちろん、それはジブリ内部ですでに議論された論件だと思うのだが、なぜ、「皮膚の質感を同じように描く」という結論に達したのか、その理由を宮崎駿に尋ねてみたい気がする。</p>]]>
      
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   <title>英語ができんが、何がいかんとや</title>
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   <published>2010-07-25T02:33:55Z</published>
   <updated>2010-07-26T00:47:24Z</updated>
   
   <summary>英語公用語化について批判的なコメントをブログに書いたら、いろいろなメディアから取...</summary>
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      <name>uchida</name>
      
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      <![CDATA[<p>英語公用語化について批判的なコメントをブログに書いたら、いろいろなメディアから取材が来た。<br />
「これはちょっとまずいんじゃないか・・・」とみんな思っているんだけれど、どうしてまずいと思うのか、その自分自身の直感の根拠がよくわからない。<br />
まあ、直感なんだから根拠がわからないのは当たり前なのだけれど、こういう「暗黙知」的なアラームには耳を傾けた方がいいと私の経験は教えている。<br />
公用語化には、いろいろなレベルでの「ひっかかり」を感じるけれど、いちばん問題なのは現に「英語嫌い」の子どもたちが構造的に生まれつつあることに配慮していない点である。<br />
英語ができない学生がほんとに多いのである。<br />
先日の「英語で合気道」は結局受講生全員（といっても3人だけ）日本人。アシスタントは合気道部と杖道会の学生なのでもちろん日本人。それに松田先生と国際交流センターの北川さん（通訳も兼務）。<br />
What should I do in this case?<br />
でも、「英語で日本文化を紹介する」というコンセプトの授業に日本人学生が受講を許可されているのは、「英語で日本文化を紹介するときの定型的なセンテンス」を習得するという教育目的も含まれているので、英語で授業をする。<br />
英語でゼミをすることはできぬが、英語で合気道を教えるのはそれほどむずかしくない。<br />
なにしろ、言うことが少ないから。<br />
合気道とは何かについて一般的なステートメントを述べたあとは、実技だから「そうじゃなくて、こうやるの」で済む。<br />
言葉で説明しなくても、動いてみせればいいんだから、その点は簡単。<br />
それでも途中で一回詰まってしまった。<br />
後ろ受け身の仕方を教えるところで「足の甲を畳につけて」と言おうとして、「足の甲」って英語でなんていうのか出てこなくなってしまった。<br />
しかたがないので、this side of the foot と指さして済ましたけれど（いま辞書を引いたらthe instep of the foot と言うと書いてあった。そんな単語、駿台じゃ習わなかった）。<br />
ま、それはさておき。<br />
驚いたことに、杖道部の主将のマサキくんが私が英語で話し出したら、頭を抱えて苦しみ出した。<br />
こ、これは。ジャイアンの歌声のような破壊的効果が私の英語発音には含まれていたのか・・・と思って訊ねると、「英語を聴くと頭が痛くなる」のだそうである。<br />
そういう病気が中等教育には蔓延しているとのこと。<br />
前にゼミでロックの話が出たときに、ジョン・レノンのImagine を聴くと頭痛や吐き気がしてくるという学生が二人いた。<br />
あの名曲がなぜ・・・と絶句していたら、理由を教えてくれた。<br />
英語の授業の「聴き取り」で、毎週Imagineでテストをされたからなのだそうである。<br />
紙を配られて、あちこちに（　　）が空いていて、カセットで流される曲を聴きながら、その単語を聞き取って埋めてゆくというテストをされていたら大嫌いになりましたという話を聴いた。<br />
そのときは英語の先生の授業の進め方にいささか問題があるな、という程度の感想しか持たなかった。<br />
だが、よく考えたら、この学生たちはImagineという曲が嫌いなのではなくて、「それが英語の授業を思い出させるから」嫌いなのである。<br />
つまり、英語の授業が嫌いなのである。<br />
『走れメロス』や『銀河鉄道の夜』を読むと、高校の国語の授業を思い出して、頭痛と吐き気に襲われる、というような学生のあることを私は知らない。<br />
他の教科でもそうだと思う。<br />
英語だけが激しい拒否反応をする子どもたちを生み出している。<br />
先日も書いたとおり、英語は中等教育で講じられる全教科の中で「それができるかできないかによって、将来のポストや年収に有意な差が出ることが確実に予測できる唯一の教科」である。<br />
「数学ができんが、何がいかんとや」（＠石井聡互）という言葉に数学教師は絶句する可能性があるが、「英語ができんが、何がいかんとや」という生徒に対して、英語教師は英語の必要性をロジカルかつクールに２００字で説明することができる。<br />
英語は中学生にさえ、その価値と有用性が周知されているただ一つの教科である。<br />
そして、おそらく「それゆえに」一部の子どもたちは英語の学習に激しい生理的嫌悪を覚えている。<br />
学校教育の場では、「これを勉強すれば金になる」というようなロジックは本来口にされるべきではないということを生徒たちも直感するのである。<br />
その学習動機にある種の「卑しさ」を感じるからこそ、生徒たちは「引く」のである。<br />
私はそうだと思う。</p>

<p>繰り返し申し上げている通り、「学び」においては、努力と報酬を相関させてはならない。<br />
努力と報酬の一元的な相関が明らかであるような枠組みの中では、知性は決して発動しないからである。<br />
「知性」というような抽象的な言葉を使うのはやめよう。<br />
「脳」と端的に言ってもよい。<br />
脳は「自明なもの」には反応しない。<br />
ある行為がなされ、その理由が「わからない」ときに、脳は「なにかと言い訳をする」（＠池谷裕二）ために活動を開始する。<br />
まず、「学習努力」があり、なぜそのようなふるまいを自分がすることになったのか、その理由が開示されないときに、人間はそれを正当化するための「理由づけ」を行う。<br />
このときに脳が行う「行為とその根拠の関連づけ」はすぐれて「個人的」な営為である。<br />
それは誰とも共有されない。<br />
けれども、その「個人的関連づけ」によって、子どもは世界の中に幼くとも「自分の条理」を通し、それによってさまざまな事象を個性的な仕方で分節し、世界を自分にとって「親しみのあるもの」に変容させることができる。<br />
教育の目的はそのような言葉で言い換えてもよいかもしれない。<br />
「疎遠な世界を、親しみのあるものに変容させること」<br />
そのためには、子どもたちが「自分の道具」「自分の条理」「自分の言葉」で自分の（どうしてそんなことをするのか、よくわからない）ふるまいを説明するということを習慣として持たなければならない。<br />
「数学ができんが、なにがいかんとや」という叫びは、「どうして世界はこのように成り立っているのか、それを私は理解したい」というはげしい欲望が言わせる言葉である。<br />
だから、その言葉を吐いた少年は、やがて「世界には私には理解できない種類の秩序があり、情熱があり、快楽がある」ということを認める以外に、「数学ができない自分」のアイデンティティーを立てることができないことに気づくことになる。<br />
それでよいのである。<br />
教育課程においては、子どもたちは繰り返し「・・・ができんが、何がいかんとや」と叫ぶことを強いられる。<br />
叫びつつ、泣きながら勉強しているうちに、自家製の、自分オリジナルの、「それを勉強することの意義」を言語化できるようになることもある。<br />
そうならないで、叫ぶだけで、結局勉強しないで、おしまい、ということもある。<br />
それでも、「世の中の仕組みは一筋縄ではゆかない」ということがわかるだけでも立派な学習だと私は思う。<br />
英語の最大の弱点は「英語を勉強することの有用性」が「子どもにでもわかる」ということである。<br />
英語については、「英語ができんが、何がいかんとや」と叫ぶことが許されていない。<br />
だから、子どもたちは英語を学ぶ意義についてのオリジナルな説明を持つことを求められない。<br />
どのような教師も「どうして君は英語が勉強したいの？」という問いに「意外な答え」が返ってくることを期待していない。<br />
そのような教科は「脳」の活動を停止させてしまう。<br />
これは生徒たちの個人的決断にかかわるものではない。<br />
努力と報酬の相関が示された瞬間に、人間は「与えられた判断枠組み」を超え出るという意欲を深く、致命的に殺がれてしまう。<br />
けれども、知性の活動とは、極言すれば、「与えられた判断枠組みを超え出る」自己超越の緊張以外の何ものでもないのである。</p>

<p><br />
</p>]]>
      
   </content>
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   <title>英語嫌いを作る方法</title>
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   <published>2010-07-21T09:32:37Z</published>
   <updated>2010-08-04T01:34:20Z</updated>
   
   <summary>電話取材で英語社内公用語論についてコメントを求められる。 必ず失敗するだろうと予...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
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      <![CDATA[<p>電話取材で英語社内公用語論についてコメントを求められる。<br />
必ず失敗するだろうと予言する。<br />
英語を社内公用語にするということは、英語運用能力と年収や地位の相関性が高まるということである。<br />
とりあえず英語ができない人間は、どれほど仕事ができても、幹部には登用されない。なにしろ会議に出ても、みんなが何を話しているのかわからないんだから。<br />
そのような人々は会社を移らざるを得ない。<br />
「仕事はできるが英語はできない」という人間を排除して、「仕事はできないが英語はできる」という人間を残した企業がそれによってアクティヴィティを高めるであろうという見通しに私は与さない。<br />
現に、英語運用能力と「報償」の相関をダイレクトなものにしたことによって、日本人の英語運用能力の劣化は生じたと私は考えている。<br />
現在の日本の大学生の英語運用能力の劣化は著しい。<br />
たぶん現在、日本の大学入学生の半数近くは中学二年程度の文法知識さえ持っていない。<br />
これは個別の英語教師の教育力の問題ではなく、現在の英語教育が構造的に「英語嫌い」を作り出していると考える方が合理的である。<br />
英語は中学校で教えられる教科の中で、もっともその実用性・有用性が確かな教科である。<br />
英語ができる子どもとできない子どもでは、中学生の段階ですでに将来の年収に大きな差が出ることが高い確度で予測される。<br />
そのような教科は他には存在しない。<br />
因数分解ができなくても、古文が苦手でも、跳び箱が飛べなくても、料理が作れなくても、それによって、これができる人間と「将来年収に大きな差がつくだろう」という予測を立てる中学生はいない。<br />
けれども、英語だけは別である。<br />
英語は、それが「できる子ども」と「できない子ども」の間で、将来の学歴や年収に有意な差がつくことが予測される唯一の教科である。<br />
ちゃんとやれば「いいこと」があり、やらなければ「よくないこと」が起こる。<br />
そのような「有用性の高い教科」に対する学習の動機づけが、他の教科に比してむしろ弱いという事実はどうやって説明できるのか。<br />
私はこれまでも繰り返し、学びにおいては「努力と報酬の相関」を示してはならないと書いてきた。<br />
これだけ努力すると、これだけ「いいこと」があるよというふうに事前に努力と報酬の相関を開示してしまうと、子どもたちの学びへの動機づけは歴然と損なわれる。<br />
学びというのは、「謎」によって喚起されるものだからだ。<br />
自分の手持ちの度量衡では、その意味も有用性も考量しがたい「知」への欲望が学びを起動させる。<br />
中学で教えるすべての教科の中で、英語は唯一例外的に「その意味も有用性も、中学生にもわかるように開示されている」教科である。<br />
そのような教科の学習意欲がきわだって低い。<br />
これを「おかしい」と思う人はいなかったのだろうか。<br />
ほとんどの子どもたちは中学生二三年の段階で、英語学習への意欲を、取り返しのつかないほどに深く損なわれている。<br />
なぜ、その理由を誰も問わないままにすませてきたのか。<br />
英語力が低下していると聴いた政治家や教育評論家や役人は、「では英語ができる人間への報酬をさらに増額し、英語ができない人間へのペナルティをさらに過酷なものにしよう」という「carrot and stick」戦略の強化しか思いつかなかった。<br />
それによって子どもたちの英語嫌いはさらに亢進した。<br />
日本の子どもたちの英語力はそのようにして確実に低下してきたのである。<br />
どこかで、この悪循環を停止させねばならない。<br />
というときに、英語を社内公用語にするというのは、「努力と報酬の相関」をさらに可視化し、さらに強化することである。<br />
子どもたちへの「英語をちゃんと勉強しないと、将来路頭に迷うことになるぞ」というアナウンスメントはさらに低年齢化し、さらに脅迫的な口調のものになるだろう。<br />
そして、ますます英語嫌いの子どもたちが増えてゆく。<br />
日本の中学高校の英語科教員たちは、これ以上英語嫌いの子どもを増やさないためにも、「英語の社内公用語化反対」の声明を発表すべきだろうと私は思う。<br />
どうすれば子どもたちが「英語好き」になるか。<br />
それを考えて欲しい。<br />
自分が子どもだったときのことを思い出せば、その処方はだれにもわかるはずだ。<br />
それを学ぶことによって、幼児的なものの見方から抜け出して、風通しのよい、ひろびろとした場所に出られるという期待が人をして学びへと誘うのである。<br />
「それを勉強することで、あなたは努力と報酬が相関し、能力と年収が精密に対応する雇用関係にはめ込まれることになるでしょう」と予告されて、嬉々として勉強する子どもがどこにいるだろう。<br />
</p>]]>
      
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   <title>移行期的混乱</title>
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   <published>2010-07-21T03:11:08Z</published>
   <updated>2010-07-21T03:11:21Z</updated>
   
   <summary>平川克美くんの近著、『移行期的混乱』（筑摩書房）のゲラを読む。 タイトルは二転三...</summary>
   <author>
      <name>uchida</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>平川克美くんの近著、『移行期的混乱』（筑摩書房）のゲラを読む。<br />
タイトルは二転三転してまだ決まらないようだけれど、執筆中から、本の話をするときは、ずっとこのタイトルで話していたので、私は勝手にそう呼ばせてもらう。<br />
文明史的なひろびろとした展望の中で、現代日本の景況・雇用問題・少子化・高齢化・格差といった「困った問題」をわしづかみにするような豪快な議論を展開している。<br />
平川くんによると、今日本の経済学者や政治家たちはリーマンショック以後の経済危機を「システム運用上の失敗」に過ぎないととらえている。<br />
だから、効果的な経済的な政策さえ実施すれば「再度新たな経済成長が期待できるはずである」という見通しを語る。<br />
それがうまくゆかないのは個別的な政策の当否や為政者の賢愚という正誤問題に過ぎず、正しい政策、賢明な政治家に取り替えれば、問題は解決する、というのが彼ら政治家やメディア知識人たちの見たてである。<br />
「現在わたしたちが抱えている諸問題、たとえば環境破壊や格差拡大、人口減少社会の到来、長期的なデフレーションなどは技術のイノベーションによって解決され、やがて市場が回復し、経済は成長の軌道へ戻される。今は、持続的な経済発展のプロセスの中での過渡的な挫折であり、大きな生産、交易、分配のシステムはこれ以後も変化することはないと考えている。」（２７頁）<br />
これに対して、平川くんは、これらはどれも巨大な、地殻変動的な「移行期的な混乱のなかの一つの兆候」に他ならず、個別的な弥縫策によって対処しうるものではないだろうと考える。<br />
「経団連をはじめとする財界が『政府に成長戦略がないのが問題』といい、自民党が『民主党には成長戦略がない』といい、民主党が『わが党の成長戦略』というように口を揃えるが、成長戦略がないことが日本の喫緊の問題かどうかを吟味する発言はない。<br />
『日本には成長戦略がないのが問題』ということに対して、わたしはこう言いたいと思う。<br />
問題なのは、成長戦略がないことではない、成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだ。」（１４１頁）<br />
「日本における歴史上始まって以来の総人口減少という事態は、何か直接的な原因があってそうなったというよりは、それまでの日本人の歴史（民主化の進展）そのものが、まったく新しいフェーズに入ったと考える方が自然なことに思える。<br />
この歴史的事実は、経済成長戦略というような短期的、対処的なタームでは説明もできなければ、問題を乗り越えることもできない。」（１４４頁）<br />
私はこの「成長しなくてもやっていけるための戦略」という問題の立て方をすぐれたものだと思う。<br />
私たちの国はあきらかに長期にわたる社会的諸活動の停滞期に入っている。<br />
私たちはこれまで人口増、右肩上がりの経済成長、社会的流動性の絶えざる上昇というスキームの中でしか社会問題を考えたことがない。<br />
木を見て森を見ず。<br />
個別的な政策的「失着」を論じる人たちは、私たちの社会がまるごと「別のスキーム」に移行しつつあることを見ようとしない。<br />
人口が減少し、高齢化が劇的に進行し、生産活動が停滞し、社会的流動性が失われてゆく社会において、なお健康で文化的で、（平川くんが愛用する形容詞を借りれば）「向日的」な市民的生活を営むためには、どのように制度設計を書き換えるべきか、それが喫緊の問題だろうと私も思っている。<br />
私たちの世代には「東京オリンピックの前の日本」という帰趨的に参照すべき原点がある。<br />
もちろん、今の日本をそのまま時計の針を戻すように、半世紀前に戻すことはできない（人口の年齢構成がまったく違う。1950年代の日本には子どもたちがあふれかえっており、それが社会の活気と未来への期待を担保していた）。<br />
けれども、人々が貧しく、行政に十分な力がなかった時代には、相互扶助・相互支援のためのゆるやかな中間共同体がいくつもあって、それが貧しく弱い個体を社会的孤立から守っていたことは事実である。<br />
かつて一度できたことをもう一度甦らせることは、これまで誰もできなかった理想を実現するよりも、少なくとも心理的には、容易である。<br />
私たちに必要なのは、「ダウンサイジングの戦略」であるという平川くんの提言を私も支持する。<br />
かつてギリシャもイタリアもスペインもポルトガルもオランダもイギリスも世界に覇を唱えた。私たちが「小国」だと思っているデンマークでさえ、かつては北欧全域とグレートブリテイン島とグリーンランドを領する巨大な北海帝国の主であった。<br />
どの国も、版図を世界に拡げた帝国から小国に劇的に「ダウンサイジング」した。そして、長い低迷と退嬰のときをやり過ごして、安定し、成熟した体制を整えることに成功した。いま、国際社会のフルメンバーとして堂々とその役割を果たしている。<br />
一度は栄華を極めた国が今のような「弱国」になったことを天に呪う国民がいるという話を私は聴いたことがない。そのことをことあるごとに悔い、機会を得てふたたび隣国を斬り従えることを夢見ることが国民国家の「常識」だとも思わない。<br />
私たちは「ダウンサイジングして、かつ生き延びた国」の先行事例をいくつも持っている。<br />
けれども、その事例からなにごとかを学ぶことができるし、学ぶべきだと言う人に私はまだ会ったことがない。<br />
たぶん平川くんのこの本は、そのような議論を始めるきっかけになるのではないかと私は期待している。<br />
以上、ゲラを読んでの感想であるので、本が書店に並ぶのはいつのことになるのか、よくわからない。8月初旬ではないかと思う。ぜひ読んでください。<br />
</p>]]>
      
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