<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
   <title>内田樹の研究室</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/" />
   <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://blog.tatsuru.com/atom.xml" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1</id>
   <updated>2013-05-08T03:40:41Z</updated>
   <subtitle>みんなまとめて、面倒みよう – Je m&apos;occupe de tout en bloc</subtitle>
   <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type 3.35</generator>

<entry>
   <title>朝日新聞の「オピニオン」欄に寄稿</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_1230.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1393</id>
   
   <published>2013-05-08T03:30:49Z</published>
   <updated>2013-05-08T03:40:41Z</updated>
   
   <summary>朝日新聞の「オピニオン」の５月８日紙面に長いものを寄稿した。 「日本の現在地」と...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p><strong>朝日新聞の「オピニオン」の５月８日紙面に長いものを寄稿した。<br />
「日本の現在地」というお題だったので、次のようなものを書いた。<br />
朝日新聞を取っていない人のためにブログに転載する。<br />
</strong></p>

<p>日本はこれからどうなるのか。いろいろなところで質問を受ける。<br />
「よいニュースと悪いニュースがある。どちらから聞きたい？」というのがこういう問いに答えるときのひとつの定型である。それではまず悪いニュースから。</p>

<p>それは「国民国家としての日本」が解体過程に入ったということである。<br />
国民国家というのは国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や宗教や生活習慣や伝統文化を共有する国民たちがそこに帰属意識を持っている共同体のことである。平たく言えば、国民を暴力や収奪から保護し、誰も飢えることがないように気配りすることを政府がその第一の存在理由とする政体である。言い換えると、自分のところ以外の国が侵略されたり、植民地化されたり、飢餓で苦しんだりしていることに対しては特段の関心を持たない「身びいき」な（「自分さえよければ、それでいい」という）政治単位だということでもある。<br />
この国民国家という統治システムはウェストファリア条約（１６４８年）のときに原型が整い、以後400年ほど国際政治の基本単位であった。それが今ゆっくりと、しかし確実に解体局面に入っている。簡単に言うと、政府が「身びいき」であることを止めて、「国民以外のもの」の利害を国民よりも優先するようになってきたということである。</p>

<p>ここで「国民以外のもの」というのは端的にはグローバル企業のことである。<br />
起業したのは日本国内で、創業者は日本人であるが、すでにそれはずいぶん昔の話で、株主も経営者も従業員も今では多国籍であり、生産拠点も国内には限定されない「無国籍企業」のことである。この企業形態でないと国際競争では勝ち残れないということが（とりあえずメディアにおいては）「常識」として語られている。<br />
トヨタ自動車は先般国内生産３００万台というこれまで死守してきたラインを放棄せざるを得ないというコメントを出した。国内の雇用を確保し、地元経済を潤し、国庫に法人税を納めるということを優先していると、コスト面で国際競争に勝てないからである。<br />
外国人株主からすれば、特定の国民国家の成員を雇用上優遇し、特定の地域に選択的に「トリクルダウン」し、特定の国（それもずいぶん法人税率の高い国の）の国庫にせっせと税金を納める経営者のふるまいは「異常」なものに見える。株式会社の経営努力というのは、もっとも能力が高く賃金の低い労働者を雇い入れ、インフラが整備され公害規制が緩く法人税率の低い国を探し出して、そこで操業することだと投資家たちは考えている。このロジックはまことに正しい。<br />
その結果、わが国の大企業は軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。繰り返し言うが、株式会社のロジックとしてその選択は合理的である。だが、企業のグローバル化を国民国家の政府が国民を犠牲にしてまで支援するというのは筋目が違うだろう。<br />
大飯原発の再稼働を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼働の必要性を論じた。<br />
原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」欲しいなら原発再稼働を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。<br />
この「恫喝」に屈して民主党政府は原発再稼働を認めた。だが、少し想像力を発揮して欲すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることがわかる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか？自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか？雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか？絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない。汚染地の製品が売れるはずがない。そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。<br />
ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は「食い尽くすまで」は使いでのある資源である。<br />
汚染された環境を税金を使って浄化するのは「環境保護コストの外部化」である（東電はこの恩沢に浴した）。原発を再稼働させて電力価格を引き下げさせるのは「製造コストの外部化」である。工場へのアクセスを確保するために新幹線を引かせたり、高速道路を通させたりするのは「流通コストの外部化」である。大学に向かって「英語が話せて、タフな交渉ができて、一月３００時間働ける体力があって、辞令一本で翌日から海外勤務できるような使い勝手のいい若年労働者を大量に送り出せ」と言って「グローバル人材育成戦略」なるものを要求するのは「人材育成コストの外部化」である。<br />
要するに、本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略なのである。<br />
繰り返し言うが、私はそれが「悪い」と言っているのではない。私企業が利益の最大化をはかるのは彼らにとって合理的で正当なふるまいである。だが、コストの外部化を国民国家に押しつけるときに、「日本の企業」だからという理由で合理化するのは止めて欲しいと思う。<br />
だが、グローバル企業は、実体は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。なぜか。それは「われわれが収益を最大化することが、すなわち日本の国益の増大なのだ」というロジックがコスト外部化を支える唯一の論拠だからである。<br />
だから、グローバル企業とその支持者たちは「どうすれば日本は勝てるのか？」という問いを執拗に立てる。あたかもグローバル企業の収益増や株価の高騰がそのまま日本人の価値と連動していることは論ずるまでもなく自明のことであるかのように。<br />
そして、この問いはただちに「われわれが収益を確保するために、あなたがた国民はどこまで『外部化されたコスト』を負担する気があるのか？」という実利的な問いに矮小化される。<br />
ケネディの有名なスピーチの枠組みを借りて言えば「グローバル企業が君に何をしてくれるかではなく、グローバル企業のために君が何をできるかを問いたまえ」ということである。<br />
日本のメディアがこの詭弁を無批判に垂れ流していることに私はいつも驚愕する。</p>

<p>もう一つ指摘しておかなければならないのは、この「企業利益の増大＝国益の増大」という等式はその本質的な虚偽性を糊塗するために、過剰な「国民的一体感」を必要とするということである。<br />
グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進は矛盾しているように見えるが、実際には、これは「同じコインの裏表」である。<br />
国際競争力のあるグローバル企業は「日本経済の旗艦」である。だから一億心を合わせて企業活動を支援せねばならない。そういう話になっている。<br />
そのために国民は低賃金を受け容れ、地域経済の崩壊を受け容れ、英語の社内公用語化を受け容れ、サービス残業を受け容れ、消費増税を受け容れ、ＴＰＰによる農林水産業の壊滅を受け容れ、原発再稼働を受け容れるべきだ、と。この本質的に反国民的な要求を国民に「飲ませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽りがどうしても必要である。これは「戦争」に類するものだという物語を国民に飲み込んでもらわなければならない。中国や韓国とのシェア争いが「戦争」なら、それぞれの国民は「私たちはどんな犠牲を払ってもいい。とにかく、この戦争に勝って欲しい」と目を血走らせるようになるだろう。<br />
国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの亢進は不可欠である。だから、安倍自民党は中国韓国を外交的に挑発することにきわめて勤勉なのである。外交的には大きな損失だが、その代償として日本国民が「犠牲を払うことを厭わない」というマインドになってくれれば、国民国家の国富をグローバル企業の収益に付け替えることに対する心理的抵抗が消失するからである。<br />
私たちの国で今行われていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国（特に米国）の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。<br />
現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。戦後68年の知恵である。これはその通りである。おそらく安倍政権は「戦後最も親米的な政権」としてアメリカの超富裕層からこれからもつよい支持を受け続けることだろう。自分たちの個人資産を増大させてくれることに政治生命をかけてくれる外国の統治者をどうして支持せずにいられようか。<br />
今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取っている。政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。たぶんこれが国民国家の「末期」のかたちなのだろう。</p>

<p>よいニュースを伝えるのを忘れていた。<br />
この国民国家の解体は日本だけのできごとではない。程度の差はあれ、同じことは全世界で今起こりつつある。気の毒なのは日本人だけではない。そう聞かされると少しは心が晴れるかも知れない。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>改憲案の「新しさ」</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/05/08_0746.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1392</id>
   
   <published>2013-05-07T22:46:52Z</published>
   <updated>2013-05-07T22:57:53Z</updated>
   
   <summary>ある媒体に長い改憲論を寄稿した。 一般の目に触れることのあまりなさそうな媒体なの...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>ある媒体に長い改憲論を寄稿した。<br />
一般の目に触れることのあまりなさそうな媒体なので、ここに採録しておく。</p>

<p>改憲案の「新しさ」</p>

<p>改憲が政治日程に上ってきている。7月の参院選で自民党が大勝すれば、今秋以降には国内での合意形成めざした議論が始まるだろう。自民党や改憲勢力がいったいこの改定を通じて「何を」実現しようとしているのか、それをこの機会に確認しておきたいと思う。</p>

<p>自民党の改憲草案については、さまざまな批判がすでになされている。個別的な条文ひとつひとつについての適否は専門家による議論に委ねて、私としてはこの改憲案に伏流している「新しいものの見方」についてだけ考えてみたいと思う。護憲派の論客の多くは、改憲案の「復古調」に違和感や嫌悪を覚えているようだが、私はむしろこの改憲案は「新しい」という印象を受けた。その「新しさ」とは何かについて書きたい。</p>

<p>まず、今日本のみならずグローバルなスケールで起きている地殻変動的な「潮目の変化」について抑えておきたい。大づかみに言えば、私たちが立ち合っている変動は、グローバル資本主義という「新しい」経済システムと国民国家という「古い」政治システムが利益相反をきたし、国民国家の統治システムそのものがグローバル資本主義の補完装置に頽落しつつあるプロセスのことである。その流れの中で、「よりグローバル資本主義に親和的な政治勢力」が財界、官僚、マスメディアに好感され、政治的実力を増大させている。自民党の改憲草案はこの時流に適応すべく起草されたものである。それは言い換えると、この改憲案には国民国家解体のシナリオが（おそらく起草した人間にも気づかれぬまま）書き込まれているということである。</p>

<p>国民国家という統治システムは政治史的には１６４８年のウェストファリア条約を起点とする近代の装置である。国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、そこに国籍と帰属意識を持つ「国民」というものがいる。生誕の日付をもつ制度である以上、いずれ賞味期限が切れる。だが、国民国家は擬制的には「無窮」である。現に、あらゆる国民国家は自国の「年齢」を多めに詐称する傾向がある。日本では戦前まで神武天皇の即位を西暦紀元前６６０年に遡らせていた。朝鮮の檀君王倹が王朝を開いたのは紀元前２３３３年とされる。自国の発祥をできる限り遠い過去に求めるのは国民国家に共通する傾向である。<br />
その構えは未来についても変わらない。国民国家はできれば不死のものでありたいと願っている。中央銀行の発行する紙幣はその国がなくなった日にはゴミになる。翌日ゴミになることがわかっているものを商品と交換する人はいない。だから、国がなくなる前日において貨幣は無価値である。残り日数を十日、二十日と延ばしてみても事情は変わらない。だから、国民国家の財政は「いずれ寿命が来る」という事実を隠蔽することによって成立している。</p>

<p>これに対して企業は自己の寿命についてそれほど幻想的ではない。<br />
統計が教えるところでは、株式会社の平均寿命は日本で７年、アメリカで５年である（この数字は今後にさらに短縮されるだろう）。<br />
グーグルにしても、アップルにしても、マイクロソフトにしても、それらの企業が今から１０年後にまだ存在しているかどうか、確かな見通しを語れる人はいない。けれども、そんなことは企業経営者や株主にとっては「どうでもいいこと」である。企業が永続的な組織であるかどうかということは投資家にとっては副次的なことに過ぎない。<br />
「短期的な利益を追い求めたことで長期的には国益を損なうリスクのあること」に私たちはふつう手を出さないが、この場合の「長期的・短期的」という判定を実は私たちは自分の生物としての寿命を基準に下している。私たちは「国益」を考えるときには、せめて孫の代まで、三世代百年は視野に収めてそれを衡量している。「国家百年の計」という言葉はその消息をよく伝えている。だが、寿命５年の株式会社にとっては「５年の計」が最大限度であり、それ以上先の「長期的利益」は損益計算の対象外である。</p>

<p>工場が排出する有害物質が長期的には環境に致命的な影響を与えると聞いても、その工場の稼働によって短期的に大きな収益が上げることが見通せるなら企業は環境汚染をためらわない。それは企業にとっては全く合理的なふるまいなのである。そして、これを倫理的に断罪することは私たちにはできないのである。なぜなら、私たちもまた「こんなことを続けると１０００年後には環境に破滅的な影響が出る」と言われても、そんな先のことは気にしないからである。グローバル資本主義は「寿命が５年の生物」としてことの適否を判定する。国民国家は「寿命１００年以上の生物」を基準にして判定する。それだけの違いである。</p>

<p>寿命を異にするだけではない。企業と国家のふるまいは、機動性の違いとして端的に現れる。<br />
グローバル企業はボーダーレスな活動体であり、自己利益を最大化するチャンスを求めて、いつでも、どこへでも移動する。得物を追い求める肉食獣のように、営巣地を変え、狩り場を変える。一方、国民国家は宿命的に土地に縛り付けられ、国民を背負い込んでいる。国家制度は「その場所から移動することができないもの」たちをデフォルトとして、彼らを養い、支え、護るために設計されている。<br />
ボーダーレスに移動を繰り返す機動性の高い個体にとって、国境を越えるごとに度量衡が言語が変わり、通貨が変わり、度量衡が変わり、法律が変わる国民国家の存在はきわめて不快なバリアーでしかない。できることなら、国境を廃し、言語を統一し、度量衡を統一し、通貨を統合し、法律を統一し、全世界を商品と資本と人と情報が超高速で行き交うフラットな市場に変えたい。彼らはつよくそう望んでいる。<br />
このような状況下で、機動性の有無は単なる生活習慣や属性の差にとどまらず、ほとんど生物種として違うものを作り出しつつある。<br />
戦争が始まっても、自家用ジェットで逃げ出せる人間は生き延びるが、国境まで徒歩で歩かなければならない人間は殺される。中央銀行が破綻し、国債が暴落するときも、機動性の高い個体は海外の銀行に預けた外貨をおろし、海外に買い整えておいた家に住み、かねての知友と海外でビジネスを続けることができる。祖国滅亡さえ機動性の高い個体群にはさしたる金銭上の損害も心理的な喪失感ももたらさない。<br />
そして、今、どの国でも支配層は「機動性の高い個体群」によって占められている。だから、この利益相反は前景化してこない。奇妙な話だが、「国が滅びても困らない人間たち」が国政の舵を任されているのである。いわば「操船に失敗したせいで船が沈むときにも自分だけは上空に手配しておいたヘリコプターで脱出できる船長」が船を操舵しているのに似ている。そういう手際のいい人間でなければ指導層に入り込めないようにプロモーション・システムそのものが作り込まれているのである。とりわけマスメディアは「機動性が高い」という能力に過剰なプラス価値を賦与する傾向にあるので、機動性の多寡が国家内部の深刻な対立要因になっているという事実そのものをメディアは決して主題化しない。<br />
スタンドアロンで生き、機動性の高い「強い」個体群と、多くの「扶養家族」を抱え、先行きのことを心配しなければならない「弱い」個体群の分離と対立、それが私たちの眼前で進行中の歴史的状況である。</p>

<p>ここでようやく改憲の話になる。<br />
現在の安倍自民党はかつての５５年体制のときの自民党と（党名が同じだけで）もはや全くの別物である。かつての自民党は「国民国家内部的」な政党であり、手段の適否は措いて、日本列島から出られない同胞たちを「どうやって食べさせるか」という政策課題に愚直に取り組んでいた。池田内閣の高度経済成長政策を立案したエコノミスト下村治はかつて「国民経済」という言葉をこう定義してみせたことがある。</p>

<p>「本当の意味での国民経済とは何であろう。それは、日本で言うと、この日本列島で生活している一億二千万人が、どうやって食べどうやって生きて行くかという問題である。この一億二千万人は日本列島で生活するという運命から逃れることはできない。そういう前提で生きている。中には外国に脱出する者があっても、それは例外的である。全員がこの四つの島で生涯を過ごす運命にある。<br />
その一億二千万人が、どうやって雇用を確保し、所得水準を上げ、生活の安定を享受するか、これが国民経済である。」（下村治、『日本は悪くない　悪いのはアメリカだ』、文春文庫、２００９年、９５頁）</p>

<p>いまの自民党議員たちの過半はこの国民経済定義にはもはや同意しないだろう。<br />
「外国に脱出するもの」をもはや現政権は「例外的」とは考えていないからである。今日の「期待される人間像」であるところの「グローバル人材」とは、「日本列島以外のところで生涯を過ごす」ことも社命なら従うと誓言した代償に内定をもらった若者のことだからである。<br />
もう今、「この四つの島から出られないほどに機動性の低い弱い日本人」を扶養したり、保護したりすることは「日本列島でないところでも生きていける強い日本人」にとってはもはや義務としては観念されていない。むしろ、「弱い日本人」は「強い日本人」がさらに自由かつ効率的に活動できるように持てるものを差し出すべきだとされる。国民資源は「強い日本人」に集中しなければならない。彼らが国際競争に勝ち残りさえすれば、そこからの「トリクルダウン」の余沢が「弱い日本人」にも多少は分配されるかも知れないのだから。</p>

<p>改憲案はこの「弱い日本人」についての「どうやって強者に奉仕するのか」を定めた命令である。<br />
人権の尊重を求めず、資源分配に口出しせず、医療や教育の経費は自己負担し、社会福祉には頼らず、劣悪な雇用条件にも耐え、上位者の頥使に従い、一旦緩急あれば義勇公に報じることを厭わないような人間、それが「弱い日本人」の「強い日本人」に対する奉仕の構えである。これが安倍自民党が改憲を通じて日本国民に飲み込ませようとしている「新しいルール」である。<br />
少数の上位者に権力・財貨・威信・情報・文化資本が排他的に蓄積される体制を「好ましい」とする発想そのものについて安倍自民党の考え方は旧来の国民国家の支配層のそれと選ぶところがない。だが、はっきり変わった点がある。それは「弱い同胞」を扶養・支援する「無駄なコスト」を最少化し、「すでに優位にあるもの」がより有利になるように社会的資源を傾斜配分することを確信犯的にめざしているということである。</p>

<p>自民党の改憲案を「復古」とみなす護憲派の人たちがいるが、それは違うと私は思う。この改憲案は「新しい」。それはTPPによる貿易障壁の廃絶、英語の準公用語化、解雇条件の緩和などの一連の安倍自民党の政策と平仄が合っている。<br />
一言で言えば、改憲を「旗艦」とする自民党政策のねらいは社会の「機動化」(mobilization)である。国民の政治的統合とか、国富の増大とか、国民文化の洗練とかいう、聞き飽きた種類の惰性的な国家目標をもう掲げていない。改憲の目標は「強い日本人」たちのそのつどの要請に従って即時に自在に改変できるような「可塑的で流動的な国家システム」の構築である（変幻自在な国家システムについて「構築」という語はあまりに不適当だが）。<br />
国家システムを「基礎づける」とか「うち固める」とかをめざした政治運動はこれまでも左右を問わず存在したが、国家システムを「機動化する」、「ゲル化する」、「不定形化する」ことによって、個別グローバル企業のそのつどの利益追求に迅速に対応できる「国づくり」（というよりはむしろ「国こわし」）をめざした政治運動はたぶん政治史上はじめて出現したものである。そして、安倍自民党の改憲案の起草者たちは、彼らが実は政治史上画期的な文言を書き連ねていたことに気づいていない。</p>

<p>予備的考察ばかりで紙数が尽きかけているが、改憲草案のうち、典型的に「国こわし」の志向が露出している箇所をいくつか示しておきたい。<br />
一つは九条「平和主義」と九条二項「国防軍」である。<br />
現行憲法の平和主義を放棄して、「したいときにいつでも戦争ができる国」に衣替えすることをめざしていることは改憲派の悲願であった。現行憲法下でも、自衛力の保持と個別的自衛権の発動は主権国家としては当然の権利であると国民の大多数は考えている。だが、改憲派は「それでは足りない」と言う。アメリカの指揮で、もっと頻繁に戦争に参加するチャンスに恵まれたいと考えているからである。<br />
国民を危険にさらし、国富を蕩尽し、国際社会に有形無形の敵をつくり、高い確率で国内でのテロリズムを招き寄せるような政策が68年の平和と繁栄を基礎づけた平和憲法よりも「望ましい」と判断する根拠はなにか。<br />
改憲派はそれを「国際社会から侮られてきた」屈辱の経験によって説明する。「戦争ができる国」になれば、このいわれなき侮りはかき消え、国際社会からは深い敬意が示されるだろうと予測しているようだが、これまで日本が軍事的コミットメントをためらうことを不満に思い、しばしば侮言を浴びせてきたのは「国際社会」ではなく、端的にアメリカである。ヨーロッパにもアジアにも、日本の戦争へのコミットメントが自由化することを歓迎する国はひとつとして存在しない。改憲派が仮想敵国とみなしている中国や北朝鮮はまさに平和憲法の「おかげで」軍事的反撃のリスクなしに日本を挑発できているわけで、九条二項はいわば彼らの「命綱」である。日本がそれを廃絶したときに彼らが日本に抱く不信と疑惑がどれほどのものか。改憲派はそれも含めて九条二項の廃絶が「諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する」ことだと考えているようだが、私にはその理路がまったく理解できない。「アメリカとの友好関係を増進し、アメリカの平和と繁栄に貢献する」ことを日本の存在理由とするというのが改憲の趣旨であるというならよくわかるが。</p>

<p>もう一つは１３条。現行憲法の１３条はこういう文言である。<br />
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」<br />
自民党改憲案はこうだ。「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大に尊重されなければならない。」<br />
自民党案は「公共の福祉」というわかりにくい語を「公益及び公の秩序」というわかりやすい語に置き換えた。<br />
「公共の福祉」は基本的人権を制約することのできる唯一の法的根拠であるから、それが「何を」意味するのかは憲法学上の最大の問題であり、現にいまだ一意的な定義を得ていない。<br />
「公共の福祉」の語源は古くキケロに遡る。「民の安寧は最高の法たるべし(salus populi suprema lex esto)」。<br />
salus populiを英語はpublic welfareと訳し、日本語は「公共の福祉」と訳した。あらゆる法治国家において、すべての法律・制度・政策の適否はそれが「民の安寧」に資するかどうか、それを基準に判定されねばならない。これは統治について久しく万国において受け容れられてきた法理である。<br />
だが、ラテン語salusは「健康、幸運、無事、安全、生存、救助、救済」など深く幅の広い含意を有している。「民の安寧」salus populi は「至高の法」であるが、それが要求するものはあまりに多い。それゆえ、自民党改憲案はこれを「公益及び公的秩序」に縮減した。「公益及び公的秩序」はたしかに「民の安寧」の一部である。だが、全部ではない。統治者が晴れやかに「公益及び公的秩序」は保たれたと宣している当の国で、民の健康が損なわれ、民の安全が失われ、民の生存が脅かされている例を私たちは歴史上無数に挙げることができる。だが、自民党案はあえて「民の安寧」を廃し、「至高の法」の座を「公益及び公の秩序」という、統治者がそのつどの自己の都合にあわせて定義を変更できるものに譲り渡した。<br />
先進国の民主主義国家において、自由な市民たちが、強権によらず、自らの意志で、基本的人権の制約の強化と「民の安寧」の語義の矮小化に同意したことは歴史に前例がない。歴史上前例のないことをあまり気負いなくできるということは、この改憲案の起草者たちが「国家」にも「市民社会」にももはやほとんど興味を失っていることを意味している。<br />
「民の健康や無事や安全」を配慮していたら、行政制度のスリム化が進まない。医療や教育や社会保障や環境保全に貴重な国家資源を投じていたら、企業の収益が減殺する。グローバル企業が公害規制の緩和や教育の市場化や医療保険の空洞化や雇用条件の切り下げや第一次産業の再編を求めているなら、仮にそれによって国民の一部が一時的にその健康や安全や生存を脅かされることがあるとしても、それはもう自己責任で受け止めてもらうしかないだろう。彼らはそう考えている。</p>

<p>改憲案にはこのほかにも現行憲法との興味深い異同が見られる。<br />
最も徴候的なのは第２２条である。<br />
「（居住、移転及び職業選択等の自由等）何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する」。これが改憲案である。<br />
どこに興味深い点があるか一読しただけではわからない。でも、現行憲法と比べると重大な変更があることがわかる。現行憲法はこうなっている。<br />
「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。<br />
私が「興味深い」という理由がおわかりになるだろう。<br />
その直前の「表現の自由」を定めた２１条と比べると、この改定の突出ぶりがうかがえる。２１条、現行憲法ではこうだ。<br />
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。」<br />
改憲案はこれに条件を追加した。<br />
「前項の規定に、かかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」<br />
２１条に限らず、「公益及び公の秩序」を保全するためには私権は制約されるべきだというのは自民党改憲案の全体を貫流する基本原則である。それがなぜか２２条だけには適用されていない。適用されていないどころかもともとあった「公共の福祉の反しない限り」という制約条件が解除されているのである。<br />
起草委員たちはここで「居住、移転及び職業選択の自由」については、それが「公益及び公の秩序」と違背するということがありえないと思ったからこそ、この制約条件を「不要」と判断したのである。つまり、「国内外を転々とし、めまぐるしく職業を変えること」は超法規的によいことだという予断を起草委員たちは共有していたということである。<br />
現行憲法に存在した「公共の福祉に反しない限り」を削除して、私権を無制約にした箇所は改憲案２２条だけである。この何ということもない一条に改憲案のイデオロギーははしなくも集約的に表現されている。機動性の高い個体は、その自己利益追求行動において、国民国家からいかなる制約も受けるべきではない。これが自民党改憲案において突出しているイデオロギー的徴候である。</p>

<p>そういう文脈に置いてみると、九条の改定の意図がはじめてはっきりと了解できる。<br />
改憲案はあきらかに戦争に巻き込まれるリスクを高めることをめざしている。平和憲法下で日本は６８年間、九条二項のおかげで戦争にコミットすることを回避できていた。それを廃するというのは、「戦争をしたい」という明確な意思表示に他ならない。<br />
安倍自民党と改憲で共同歩調をとる日本維新の会は、現行憲法をはっきり「占領憲法」と規定し、「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」とした。<br />
感情的な措辞だが、「孤立と軽蔑」というのをいったいどのような事実について述べているのかが私にはわからない。もし、北方領土や中国の領海侵犯や北朝鮮の恫喝について言っているのだとしたら、これらの問題において日本は別に国際社会では孤立していないし、すぐに軍事的行動をとらないことについて軽蔑されてもいない。北朝鮮の軍事的挑発に耐えているという点で言えば、韓国とアメリカの方が日本以上だと思うが、そのせいで米韓は国際社会で「孤立」しており、「軽蔑」されていると言う人に私は会ったことがない。<br />
同時に「絶対平和という非現実的な共同幻想」という言葉がどういう現実を指示しているのかもわからない。「絶対平和」などという文言はそもそも日本国憲法のどこにもない。「日本国民は、恒久の平和を念願し」という言葉はあるが、「念願」している以上、それが非現実であることは誰にでも分かっていることである（すでに現実化している事態を「念願」するものはいない）。戦後の歴代政府の憲法解釈も憲法学も国連も、自衛隊と個別的自衛権を違憲として否定してはいない。「非武装中立」を訴えた政治勢力もかつては存在したが、今はほとんど存在感を持っていない。「絶対平和という非現実な共同幻想」のせいで、日本がどのような損害を蒙っているのか、それを具体的に列挙してもらわなければ話が見えない。<br />
まさか今さら「湾岸戦争のとき世界の笑いものになった」というような定型文を持ち出すわけではないだろうが、もしかするとそれかもしれないので、一言記しておくが、湾岸戦争のとき日本が世界の笑いものになったのは、日本が巨額の戦費を供出したにもかかわらず当事国から感謝されなかったからである。多国籍軍の支援を受けたクウェート政府は戦争終了後に、支援各国に感謝決議を出したが、日本の名はそこになかった。しかし、その理由は「国際社会の笑いもの」論者たちが言うように「金しか出さなかった」からではない。日本が供出した当初援助額1兆2,000 億円のうちクウェートに渡ったのは6億3千万円で、あとは全部アメリカが持っていったからである。仮に国際社会がほんとうに日本を笑ったのだとしたら、それは、「国際貢献」という名分でアメリカにいいようにされた日本の外交的愚鈍を笑ったのである。<br />
改憲派のトラウマの起源が湾岸戦争にあるのだとしたら、彼らの悲願はアメリカのするすべての戦争へ同盟国としてフルエントリーすることであろう。そのために戦争をすることへの法制上・国民感情上のハードルが低い国に国を変えたいと彼らは願っている。<br />
現行憲法の下で、世界史上例外的な平和と繁栄を享受してきた国が、あえて改憲して、アメリカにとって「使い勝手のいい」軍事的属国になろうと願うさまを国際社会は「狂気の沙汰」と見なすであろう。<br />
私に反論するのはまことに簡単である。「日本が改憲して『戦争のできる国』になれば、わが国はこれまで侮蔑してきた日本を尊敬し、これまで遠ざけてきた日本と連帯するだろう」と誓言する国をひとつでもいいから「国際社会」から見つけ出して連れてきてくれれば足りる。そのときはじめて現行憲法が「孤立と軽蔑」の原因であることが証明される。<br />
それでもこの妄想的な九条廃絶論にもひとつの条理は貫いている。それは「戦争のできる国」になることは、そうでない場合よりも国民国家の解体が加速するということであり、改憲論者はそれを直感し、それを望ましいことだと思っている。<br />
「戦争ができる国」と「戦争ができない国」のどちらが戦乱に巻き込まれるリスクが多いかは足し算ができれば小学生でもわかる。「戦争ができない国」が戦争に巻き込まれるのは「外国からの侵略」の場合だけだが、「戦争ができる国」はそれに「外国への侵略」が戦争機会として加算される。<br />
「戦争ができるふつうの国」と「戦争ができない変わった国」のどちらに生き残るチャンスが高いか、これも考えればすぐにわかる。「私がいなくなっても私の代わりはいくらもいる」という場合と、「私がいなくなると『私のようなもの』は世界から消えてしまう」という場合では、圧倒的に後者の方が「生き延びる意欲」は高いからである。<br />
だから、国民国家の最優先課題が「国民国家として生き延びること」であるなら、その国は「できるだけ戦争をしない国」であること、「できるだけユニークな国」であることを生存戦略として選択するはずである。<br />
だが、安倍自民党はそのような選択を拒んだ。改憲案は「他と同じような」、「戦争を簡単に始められる国」になることをめざしている。それは国民国家として生き延びることがもはや彼らにとっての最優先課題ではなくなっているということを意味している。漫然と馬齢を重ねるよりはむしろ矢玉の飛び交う修羅場に身を置いてみたい、自分たちにどれほどのことができるのか、それを満天下に知らしめてやりたい。そんなパセティックな想像の方が彼らを高揚させてくれるのである。でも、その高揚感は「国民国家が解体するリスク」を賭けのテーブルに置いたことの代償として手に入れたものなのである。「今、ここ」における刹那的な亢奮や愉悦と「国家百年の存続」はトレードオフできるものではと私たちは考えるが、それは私たちがもう「時代遅れ」な人間になったことを表わしている。国民国家のような機動性の低い（というか「機動性のない」）システムはもう不要なのである。グローバリストが戦争を好むのは、彼らが例外的に暴力的であったり非人道的であったりするからではなく（そういう場合もあるだろうが）戦争をすればするほど国民国家や領域国家という機動性のない擬制の有害性や退嬰性が際立つからである。安倍自民党は（本人たちには自覚がないが）グローバリストの政党である。彼らが「はやく戦争ができるようになりたい」と願っているのは、国威の発揚や国益の増大が目的だからではない。戦争機会が増大すればするほど、国民国家の解体が早まるからである。惰性的な国民国家の諸制度が溶解したとき、そこには彼らが夢見る「機動性の高い個体」たちからなる少数集団が圧倒的多数の「機動性の低い個体」を政治的・経済的・文化的に支配する格差社会が出現する。この格差社会では機動性が最大の人間的価値であるから、支配層といえども固定的・安定的であることは許されない。一代にして巨富を積み、栄耀栄華をきわめたものが、一朝あけるとホームレスに転落するめまぐるしいジェットコースター的な出世と降位。それが彼らの夢見るウルトラ・モダン社会のとりあえずの素描である。<br />
改憲案がまず９６条を標的にすることの理由もここから知れる。改憲派が改定の困難な「硬性憲法」を法律と同じように簡単に改廃できる「軟性憲法」に変更したいと願うのは、言い換えれば、憲法が「国のあるべきかたち」を恒久的に定めることそれ自体が許しがたいと思っているからである。「国のあるべきかたち」はそのつどの統治者や市場の都合でどんどん変えればよい。改憲派はそう考えている。<br />
安倍自民党のグローバリスト的な改憲案によって、基本的人権においても、社会福祉においても、雇用の安定の点でも、あきらかに不利を蒙るはずの労働者階層のうちに改憲の熱心な支持者がいる理由もそこから理解できる。とりあえずこの改憲案は「何一つ安定したものがなく、あらゆる価値が乱高下し、システムがめまぐるしく変化する社会」の到来を約束しているからである。自分たちがさらに階層下降するリスクを代償にしても、他人が没落するスペクタクルを眺める権利を手に入れたいと願う人々の陰惨な欲望に改憲運動は心理的な基礎を置いている。<br />
自民党の改憲案は今世界で起きている地殻変動に適応しようとするものである。その点でたぶん起草者たちは主観的には「リアリスト」でいるつもりなのだろう。けれども、現行憲法が国民国家の「理想」を掲げていたことを「非現実的」として退けたこの改憲案にはもうめざすべき理想がない。誰かが作り出した状況に適応し続けること、現状を追認し続けること、自分からはいかなるかたちであれ世界標準を提示しないこと、つまり永遠に「後手に回る」ことをこの改憲案は謳っている。歴史上、さまざまな憲法案が起草されたはずだが、「現実的であること」（つまり、「いかなる理想も持たないこと」）を国是に掲げようとする案はこれがはじめてだろう。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>憲法記念日インタビュー</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/05/04_0814.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1390</id>
   
   <published>2013-05-03T23:14:07Z</published>
   <updated>2013-05-04T08:18:20Z</updated>
   
   <summary>５月３日に東京新聞の憲法記念日インタビューが掲載された。 お読みでない方のために...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>５月３日に東京新聞の憲法記念日インタビューが掲載された。<br />
お読みでない方のために、ここに転載しておく。<br />
「いつもの話」である。<br />
「それはもうわかった」と言われても、しつこく言い続けるのが身上ということで、ひとつ。</p>

<p>―９６条の意義をどう考えますか。<br />
「変えるな」という意味だと思います。憲法は国のあるべき形を定めたもの。硬性であるのが筋です。政権が変わるたびに国のあるべき形がころころ変わっては困る。憲法改正している他の国も立国の理念まで変えているわけではありません。</p>

<p>改憲論者は、そもそも憲法が硬性であることがよくないという前提に立ちます。国際情勢や市場の変動に伴って国の形も敏速に変わるべきだと思っているから、そういう発言が出てくる。<br />
これはグローバリスト特有の考え方です。<br />
ビジネスだけでなく政治過程も行政組織も、あらゆる社会制度はそのつどの市場の変動に応じて最適化すべきだと彼らは信じています。そして、今の日本では、政治家も財界人も学者もメディアもそれに同意している。</p>

<p>グローバリストたちにとって、市場への最適化を阻む最大の障害は｢国民を守る｣ために設計された諸制度です。医療、教育、福祉、司法、そういったものは市場の変化に対応しません。だから、邪魔で仕方ない。その惰性的な諸制度を代表するのが憲法なのです。</p>

<p>国民を守る制度はどれも「急激に変化しない」ように設計されています。これがなんとも邪魔である。ですから、できることなら、これまで国家が担ってきた「国民を守る」事業はすべて市場に丸投げしたい。<br />
「自助」というのは、自分を守るために必要なサービスはこれからは「商品」として「市場」で買わなければならないということです。もちろん、経済活動はその分だけ活性化する。<br />
安倍自民党も野田民主党もグローバリスト政権という点では選ぶところがありません。たぶん無意識にでしょうけれど、彼らが目指しているのは「国民国家の解体」なのです。</p>

<p>―それには、まず９６条改正が手っ取り早いと。<br />
国民国家の最優先課題は市場への最適化ではなく、現状維持です。市場のような変動きわまりない危ないものと一蓮托生するわけにはゆかない。国境線を維持すること、通貨を安定させること、国民の民生を守ること、それが国民国家の仕事です。それが果たせれば上出来。国民国家は「成長」とか「変化」という概念とは本質的になじまないのです。</p>

<p>―グローバリズムと「愛国心」などの右寄り思想は、相容れない気もしますが。<br />
グローバリストはナショナリズムを実に巧妙に利用しています。彼らがよく使うのは「どうすれば日本は勝てるか？」という問いですが、これは具体的には「どうすれば日本の企業が世界市場のトップシェアを取れるか？」ということを意味しています。<br />
国際競争力のある日本企業が勝ち残れるために、国民はどれほど自分の資源を供出できるか、どこまで犠牲を払う覚悟があるか、それを問い詰めてくる。<br />
でも、ここにトリックがあります。ここで言われる「日本企業」は実は本質的に無国籍だということです。</p>

<p>大飯原発の再稼働が良い例でした。原発が動かなければ製造コストが上がる、だから、生産拠点を海外に移すしかない。そうなれば雇用は失われ、地域経済は沈滞し、法人税収入は途切れることになるが、それでもいいのかという企業の恫喝にあのときは政府が屈しました。企業の製造コストの削減のために、原発事故のリスクという国民の健康を犠牲に差し出したのです。<br />
これが「ナショナリズムの使い方」です。<br />
「それでは日本が勝てない」という言い分で、国民的資源を私企業の収益に付け替えているのです。でも、製造コストが上がるという理由だけで日本を出て行くと公言する企業を「日本企業」と呼ぶことに僕は同意できません。</p>

<p>外国の機関投資家が株主で、経営者も従業員も外国人で、海外に工場があり、よその政府に納税している無国籍企業があえて「日本企業」と名乗る理由は何でしょう？<br />
それは、そうすれば勘違いして、「日本のために」と自己犠牲を惜しまない国民が出てくるからです。<br />
中国や韓国の企業との競争で「日本企業」を勝たせるためなら、原発再稼働も受け容れる、消費増税も受け容れる、TPPによる農林水産業の壊滅も受け容れる、最低賃金制度の廃止も受け容れる・・・この「可憐」なナショナリズムほどグローバル企業にとって好都合なものはありません。<br />
実際には、これらの「日本企業」は日本に雇用を生み出してもいないし、地元に収益を「トリクルダウン」してもいないし、国庫に法人税を納めてもいない。でも、そんな無国籍企業でも「日本企業」を名乗ると、惜しみなく国富が投じられる。国富の私企業への移し替えを正当化するためにナショナリズムが活用されているのです。</p>

<p>―占領下の米国による「押しつけ憲法」であることも改憲論の根拠になっています。<br />
それならまず憲法を「押しつけた」ことについての歴史的謝罪を米政府に求めるのが筋でしょう。そうしないと話の筋目が通らない。<br />
米国からすれば日本国憲法は一種の贈り物です。独立宣言以来の民主主義の理念を純化させ、当時の世界の憲法学の知見を結集して作った「１００点答案」です。これを「出来が悪いから変える」というのであれば、日本国民のみならず、まずは「押しつけた」米国に対して、そして国際社会に対して、日本国憲法のどこが不備であるのかを説明する責任があるでしょう。<br />
自民党の改憲草案は、近代市民革命の経験を通じて先人の労苦の結晶として獲得された民主主義の基本理念を否定する時代錯誤的な改変です。これについても、なぜ歴史の流れに逆らってまで憲法をあえて「退化」させるのかを国際社会に対して弁ずる義務がある。<br />
日本のあるべき国のかたちを変えるわけですから、「これからはこう変わります」と宣言するのは国際社会のメンバーとして当然の義務でしょう。<br />
でも、改憲派の人で国連総会でもどこでも「この改憲によって日本の憲法は人類史的に新たな一歩を画した。諸国も日本を範として欲しい」と胸を張って言うだけの勇気のある人がいるのでしょうか？<br />
それに、中国も韓国もロシアも台湾も、隣国はどこも九条二項の廃止に強い警戒心を抱くでしょう。改憲が政治日程に上れば、当然ながら強い抗議がなされるはずです。九条二項を廃止するということは、戦争をするフリーハンドを手に入れるということですから、隣国にとってはきわめて不安な改変です。当然、反日デモにとどまらず、日本製品の不買運動、経済的文化的交流の停止、場合によっては大使引き揚げというような本格的な危機にまで立ち至るリスクがある。そういう隣国からの疑念や反発を抑えるために、どれだけの説得材料を日本政府は用意しているのか。それとも「そんな内政干渉には応じない」ということなのでしょうか。<br />
改憲のせいで東アジアに緊張が高まれば、いずれ米国が調停に出て来ざるを得ません。<br />
でも、米国にしてみたら日本が「米国の押しつけ憲法を変える」ということから起きた国際紛争で汗をかく義理なんかない。九条を弾力的に解釈して、これまで通り米軍の後方支援や軍費負担をしてくれるなら、現状のままでも米軍は別に困らない。<br />
そう算盤を弾けば、米国がどたん場になって「余計なごたごたを起こすな」といって改憲にクレームをつけてくる可能性は高い。<br />
すると「米国に押しつけられた憲法を改正しようとたら、米国に『止めろ』と言われたので止めました」というまことにみっともない話になる。<br />
そうやって満天下に恥をさらすことで、日本の国益がどう増大することになるのか。グローバリストに最も欠けているのは、そういう国際的な見通しです。</p>

<p>―参院選で、９６条を正面から考える必要がありそうです。<br />
今度の選挙では国の形そのものが問われます。国民国家を解体して市場に委ねるのか、効率は悪くても生身の人間の尺度に合わせたシステムを維持するのか、それを選ぶことになる。憲法についての議論が深まり、国家のあるべき形とは何なのかを国民が真剣に考えるようになるなら、改憲が争点であることは少しも悪いことではありません。<br />
それに、そうなれば、結論は常識的なところに落ち着くと思います。<br />
あまりに難しい選択なので、そんなに急かさないで、ちょっと待って欲しい、と。国の形をじっくり考えるためにも「とりあえず護憲」を国民は選択するだろうと僕は思っています。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>東北論</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/04/22_0928.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1385</id>
   
   <published>2013-04-22T00:28:58Z</published>
   <updated>2013-04-22T00:38:22Z</updated>
   
   <summary>ご近所の灘校の文化祭で東北研究のパネル発表をするということで、インタビューを受け...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>ご近所の灘校の文化祭で東北研究のパネル発表をするということで、インタビューを受けた。なかなか白熱したインタビューで、「東北とは」という切り口でものを考えたことがあまりなかったので、新鮮だった。<br />
インタビュアーは高校生。</p>

<p><strong>―まず先生は震災当時はどこにいらっしゃったのですか。<br />
</strong><br />
3月11日はスキーに信州に行った帰りで、電車が止まって、直江津で足止めを食らってました。よく事情が分からなくて、夜中も余震が凄かったし。阪神大震災以来だから恐怖心を感じました。翌日電車が動いて1日遅れでこっちに帰ってきました。</p>

<p><strong>―先生は阪神淡路大震災も経験なさってるわけですよね。その時と比べてみてどうですか。</strong></p>

<p>何が違うかと言うと、天変地異のレベルの話じゃなく、それに対処するときの政治と社会の問題だと思います。今回の対応の悪さって、桁外れなんじゃないかな。日本の社会全体としての復興に対する、支援に対する態度っていうのがひどいんじゃないですか。<br />
阪神の時は、半年ぐらいで大体瓦礫の片もついて、日常生活は回復したわけでしょう。その時も行政の不手際にはずいぶん文句がつけられたけれど、被災した人間の実感としては、行政はそこそこよくやったんじゃないかと思います。<br />
でも、今回は、まだ16万人ぐらいの人が家に帰れないでいる。東電からの補償もほとんどされてない。本当だったら革命が起こるくらいの怒りが住民の側にはたまっているはずなんだけど、じっと耐えてる。<br />
その一方で、政府はＴＰＰだとか改憲だ原発再稼働だとかいう話ばかりしている。被災地支援よりも、「まず経済成長」という話になっている。被災地は見捨てられているというのが僕の実感です。東北のことなんか、もう考えたくないというのが政府の本音なんじゃないかな。<br />
1995年と2011年を比べると、政府と自治体の初動のまずさと、被災者に対する情の薄さが際だっていると思います。災害のスケールが違うから一律には論じられないけれど、それでもこの間に、日本の統治機構が激しく劣化したのは事実だと思います。政治家と官僚と財界人と、それとメディアですね、劣化したのは。</p>

<p><strong>―具体的に例えばどんなこととかを問題に思いますか。</strong></p>

<p>津波や地震の被害の復興のような物質的な手当はたとえ緩慢ではあっても、やるべきことはやってはいると思うんです。一番遅れているのは、原発事故の被災者に対するケアですね。本気で支援しているのだろうかと思う。<br />
一番遅れているのは情報開示です。被害状況を包み隠さず開示していない。あのとき一体原発で何が起きたのか、今は何が起きつつあるのか、どんなリスクをわれわれは負っている、そのことをきちんと開示することが最優先だと思う。<br />
第二に、なぜこんな事が起きたのかを問うこと。「想定外」では済まされません。十分な危機管理ができていなかったから、こんなことが起きた訳で、ではいったいなぜ十分な危機管理がなされなかったのか、その理由が問われなければいけない。コストの問題なのか、政策判断の問題なのか、単なる怠業や責任放棄なのか。でも、その問いも棚上げされたままです。とりあえずは追求をかわして、あれこれ言い訳して、適当にごまかして、ほとぼりが冷めるのを待とうという態度が東電も経産省もあらわです。基本的な態度が「ごまかす。ほとぼりが冷めて、メディアや国民の関心が薄れるのを待つ」ということなんです。<br />
特に自民党政権になってからは、原発は再稼働を前提にしていますから、どうやって原発のリスクを有権者に過小評価させるかが今は政策的に優先されている。<br />
いまも福島第一原発は危険な状態にあるわけですけれど、そのことはもう報道しないで欲しいと政府は思っている。政府も忘れるから、国民のみんなも忘れてください、って。<br />
被曝のリスクもそうですよね。甲状腺異常などがすでに報告されているけれど、政府はこれは原発事故には関係ない、誤差の範囲であるという判断に固執している。どんなリスクを日本人が負わされているのか公開しない。<br />
国民の健康のためには行政はある程度ナーバスになっていいと思います。国民の健康についてのリスクを過大評価したせいで失うものと、過小評価して失うものは桁が違うんですから。<br />
でも、リスクを過剰にアナウンスすると、今度は被災地産の農産物とか水産物とか国内外で売れなくなってしまう。経済的にはたしかにダメージがあります。それでも、情報は全面的に開示すべきだと思う。<br />
そのせいで被災地の生産物が売れなくなったのなら、その経済的な損失は一億三千万の国民で分かち合う、ということでいいと思うんです。だって、福島の農作物が売れなくなったのは、福島の農家の自己努力の不足とか、経営の失敗とかじゃなくて、原発事故という国策のせいなんだから。そして、その国策を黙って支持してきたんなら、国民全体の責任でもあるわけです。<br />
でも、東北の被災地への復興支援は日本人全体が引き受けるべきことだという挙国一致的な支援体制ができるためには、福島で今何が起きているのかを全国民の前に明らかにしなければならない。被曝リスクがどれくらいの規模のものか、福島はどれほどの痛手を負ったのかを明らかにしなければならない。政府も東電も、それがしたくないのです。できるだけ被害を軽微なものだと思わせておきたい。そうじゃないと、原発再稼働の道筋が通りませんから。その結果、全国民的な被災地支援機運が盛り上がらない。<br />
それどころか、アベノミクスとか言って、株価とか金融の話に話題が一気に振れて、もう震災のことも津波のことも原発事故のことも、はやく忘れたいという気分になっている。メディアでももうほとんど被災地の情報は奉じられない。そんな景気の悪い話ばかり取り上げていると売れないと思っているんでしょう。そして、どの銘柄の株を買えば濡れ手で粟の金儲けができるかとか、そういう「景気のいい話」に話題を移している。<br />
本来であれば国を挙げてどうやって被災地を支援していくか、どうやって復興の手だてを考えるかということに集中すべき時期なのに、みんな考えたくない。問題を直視しようという意欲を日本人自身がなくしているということだと思います。安倍政権の支持率は70％ですよ。東北の問題をばっさり切り捨てている人を国民の７０％が支持している。東北の復興が日本にとっての最優先のイシューであるという認識がもう国民にはないんだと思います。それよりもＴＰＰと株価と改憲と尖閣問題とか優先してきている。</p>

<p><strong>―今回の東日本大震災と阪神淡路大震災では規模が全然違うと思うのですが、だからこそ、対応が遅くなったとかいうわけでもなく、根本的にレベルが下がったということですか。</strong></p>

<p>日本の統治機構のレベルは下がってます。今回、は自衛隊が際立っていました。95年も自衛隊は活動したけれど、今回は突出していた。練度が高いし、被災者救援のインターフェイスがやわらかい。多分こういうレベルの災害出動を想定した訓練を受けて来たんだろうなということがわかります。有事を想定してふだんから訓練している行政組織って、今や自衛隊とか海上保安庁とか、そういうところしかなくなってしまった。それ以外の官僚機構は、「不測の事態にどう備えるか」という訓練をしていない。ライフラインが止まる、通信や交通が途絶する、情報が来ない、そういうときに手持ちの資源だけを使って何ができるか、そういう種類のシミュレーションを官僚たちは全くしていない。総理官邸の危機管理室には電話が２回線しか通っていなかったとか、地下なので携帯の電波が届かなかったということが後から報道されましたけれど、そういう基本的なミスが起きるということは、「危機管理室を実際に使う場合」を設計した人間が想定していなかったということですよね。危機を想定していない危機管理って、何ですか。</p>

<p><strong>―じゃあ逆に行政のなかではそういうことは失敗と捉えきれてないということですか。</strong></p>

<p>ないと思う。災害対応って、マニュアルなしでどう最適な判断をするかってことでしょう？そういう訓練を今の日本人は誰もやっていないから。</p>

<p><strong>―どうやったら鍛えられますか</strong></p>

<p>だから武道やってるの(笑)。</p>

<p><strong>―どういうことですか、武道の意味みたいなのって。</strong></p>

<p>武道というのは、危機的状況をどうやって生き延びるか、その能力を開発するためのプログラムですから。ルールがあるところでライバルと競争するためのものじゃない。危機を生き延びる力を養っている。<br />
だからよく「どうして合気道では試合がないんですか？」って訊かれるけど、あるわけがない。試合があるのはスポーツでしょう？　アリーナがあって、レフェリーがいて、ルールがあって、時間制限があって、何月何日何分試合開始って決まっていてやるのはスポーツ。<br />
武道というのは、いつ、どこで何が起こるかわからないという条件で、そのときに生き延びるための心と体の使い方を学ぶものなんです。</p>

<p><strong>―今までの日本のどこに問題があると先生はお考えですか。</strong></p>

<p>原発について言うと、戦後の原子力行政全体に問題があると思います。原子力テクノロジーって、はっきり言って、人間が完全にはコントロールすることが出来ないものなんですよ。現に、放射性の廃棄物については最終的な処理方法が確立してない。どんどん出てくる汚染物質をどう処理するか、そのテクノロジーが確立されていないうちに稼働を始めた。それがもたらす環境汚染のリスクや、廃棄物処理のコストを勘定に入れないで、「コストの安い発電機」としてと原発を導入していった。<br />
原子力は人知を超えた、想定外のふるまいをするかもしれない危険なテクノロジーであるという覚悟を持った科学者もいたはずですけれど、その人たちの声は押しつぶされた。そして、原子力は人間が管理制御できる、安全な発電装置ですという宣伝で国民を洗脳してきたわけです。<br />
原発がどうも危険だし、高コストのテクノロジーらしいということはときどき報道されてきましたけれど、こちらとしてももう原発が出来ちゃった以上は、「なるべく事故が起こらないで欲しい」という願望があるわけで、その願望のせいで、いきおい原発の安全性を過大評価するようになる。「安全に操業してほしい」という主観的な願望が「安全に操業されているはずだ」という客観的情勢判断と混同されてしまう。そういうすり替えが国民的規模で行われていたと思います。<br />
非専門家は原発の現場がどういうふうになっているのかなんて知りようがない。だから、せめてフロントラインの人たちだけは原発の危険性を自覚しているべきだったと思います。仮に一般市民に対して「原発は安全ですよ」って嘘をついても、内部的には非常に危険な物を扱っていて、一度事故を起こしたら、その被害は計り知れないものになるという緊張感を維持すべきだったと思うんです。でも、その緊張感が東電にあったようにはどうしても思えない。最大限の警戒心と恐怖心を持って原発を制御しようとしていたという覚悟がさっぱり伝わってこない。たぶん、一般市民に向かって「原発は安全ですよ」と言って騙しているうちに、自分たちも自分たちがついている嘘を信じ始めたからじゃないかと思います。嘘ってそうなんですよ。あまり習慣的に嘘をついていると、言っている本人が自分の嘘を信じ始めてしまう。たぶんそうやって、事故が起こらない時間が続けば続くほど、警戒心も恐怖心も鈍化していったんだと思います。<br />
原発も初期の人たちは強い警戒心を持って仕事をしていたはずです。だって1945年の原爆を日本人はリアルに体験したわけですから。<br />
原子爆弾というのは、広島長崎の以前から理論的には作れることがわかっていたんだけれど、実験ができなかった。核爆発が一箇所で起きたら、それが連鎖反応を起こして、地球全体が吹っ飛ぶかもしれないというリスクがあったから。それが怖くて原爆実験できなかった。だから、マンハッタン計画が成功したときにわかったのは「どうやって原爆を作るか」じゃなくて、「核爆発しても地球は吹っ飛ばない」ということだったんです。<br />
原子力テクノロジーって、最初からそういうものだったんですよ。実験してみたら何とかなったから、使ってみようという。そういう自転車操業みたいなものなんです。原理はなんとかわかる。やってみたら、お湯は沸かせることがわかった。でも、条件が変わるとどんなふるまいをするか分からない。とりあえずお湯は沸かせる。じゃあ、沸かして、蒸気でタービン回して、発電してみよう、と。そういうテクノロジーなわけですよ。<br />
だから、原子力第一世代のエンジニアたちは自分たちが扱っているテクノロジーについて、「自分たちもよくわかっていない」ということはわかっていた。でも、続く第2世代、第3代目になると、「原発って、ただのコストの安い発電機じゃないか」という緩んだ気分になってきた。それなら火力や水力と同じ程度の扱いでいいんじゃないか、と。年が経つにつれて、原発に対する扱いがぞんざいになっていった。その結果、福島の事故が起きたということだと思います。</p>

<p><strong>―こういうことがあった後にこれから原発政策という面ではどういう風に向き合っていけば良いんでしょうか</strong>。</p>

<p>今回、福島の原発事故でいったいどれぐらいの国富を失ったのかまだ試算してないですよね。国土の何分の一かが、これから向こう何百年間か居住不能になるんです。尖閣とか竹島とか言っているけど、そんなのただの岩礁でしょう？　でも、福島って、そこに何十万も生活者がいて、そこを生活基盤にしていた国土なんですよ。それが原発一個で失われた。われわれは国土を失ったんです。<br />
その被害を考えたら、原子力発電が火力発電に比べて多少発電コストが安いからと言って、そんなの桁違いじゃないですか。被災者にまともに補償しようとしたら、これまで火力との差額で原発が稼いだ分なて、全部吹っ飛んじゃう。経済的に考えても、原発はまったく間尺に合わないビジネスだったことが明らかになった。<br />
とくに国土の喪失。これに関しては誰も何も言わない。尖閣とか竹島とかいう話になると「寸土も譲らず」とか息巻く人たちも、福島で失われた国土については何も言わない。でも、どう考えても福島で失われた国土の方が巨大な損失なわけでしょう？　<br />
この損失は原子力行政がもたらした被害なわけですよ。愚かな原子力行政が国土喪失をもたらした。仮に今からもう一回大きな地震が福島を襲ったら、次は東京も居住不能になるかも知れない。原発再稼働派の人たちは「東京も住めなくなっても、まだ原発をやる」という覚悟があるんでしょうか。原発再稼働って、巨大地震が起きないことを前提にした「幸運頼み」のプロジェクトなんです。地震が来て、原発がつぶれた後も、「再稼働それ自体は正しい政策判断でしたが、想定外の地震のせいで事故が起きました」って言い訳が通ると思っているんでしょうか？<br />
原発続けたいって言ってるのは、グローバル企業なんですよ。彼らは先のことは考えてないから。彼らの政策適否の判断基準は四半期なんです。3ヶ月。とりあえず四半期の収益のことだけしか考えない。<br />
ご存じじゃないと思うけれど、株式会社の平均寿命って7年なんです。アメリカの会社は５年。長期的に会社が継続することそれ自体は、グローバル資本主義では特に重要なことだと思われていない。投資家にしてみれば、株買って高値で売り抜けることが最優先なわけで、株を買った会社があと何年生き延びるかなんてどうでもいい。理想的には、一回の株取引で、一生かかっても使い切れないくらいの個人資産を手に入れたい。企業がいつまで存続するかなんて、投資家にしてみたら、どうでもいいことなんです。<br />
長期的に考えてみた場合、原子力発電を使うと日本の国土が汚染されて、取り返しのつかない損害をこうむるおそれがある。これは間違いない。だから、長期的にみたら「割に合わない」と考える方が合理的なんです。でも、グローバル資本主義者はそうは考えない。原発をいま再稼働すれば、今期の電力コストがこれだけ安くなる。それだけ今期の収益が出る。配当が増える。だったら、原発再稼働を要求するのが当然、というのが彼らの思考回路なんです。日本列島がどれほど汚染されようとも、個人資産が増えるなら、ぜんぜん問題ない。クオーターベースで損得を考える投資家にしてみたら、向こう三ヶ月間に巨大な地震が起きないなら、原発動かした方が利益が出るんです。だから再稼働を要求する。それは彼らにしてみたら合理的な判断なんです。反対する人間の気が知れない。投資家たちは個人資産の増減だけを気にしていて、どこかの国の国土が汚染されようと、どこかの国の人たちが故郷を失おうと、そんなことはどうでもいいんです。<br />
僕たち日本国民は日本列島から出られない。ここで生きていくしかないと思っている。だから、国土が汚染されたら困るし、国民の健康が損なわれたら困る。でも、グローバル企業には気づかうべき国土もないし、扶養しなければいけない国民もない。誰のことも気づかわなくていい。株価のことだけ考えていればいい。<br />
それはそれでしかたがないんです。そういう商売なんだから。でも、問題なのは、そういう人たちが国民国家の政策決定に深く関与しているということです。「国民国家なんてどうなっても構わない」と思っている人たちが、国民国家の政策を決定している。これはちょっとひどい話でしょう？　<br />
大飯の原発再稼働のときの財界のロジック覚えてますか？　原発を動かさないと、火力だと製造コストが高くなる。だったら、もう日本を出てゆくしかない、と言ったんですよ。こんなコストの高い国ではもう製造業なんかやってられない。生産拠点を中国とかインドネシアとかに移すぞって、政府を脅しをかけた。グローバル企業にしてみたら、どこの国で操業してもいいんですよ。どこでも生きていける。どこの国にも義理なんかない。<br />
でも、「電力コストが高い」という程度の理由で、外国に出て行くと公言している企業が、「原発事故で環境が汚染された」というときに日本にとどまると思いますか？　当然、真っ先に出てゆくでしょう。自分たちで環境汚染リスクの高いテクノロジーの稼働を要求しておきながら、いざ環境汚染が起きたら、「こんな汚いところでは操業できない」と言って出てゆく。出てゆくに決まっています。自分たちが原発再稼働を要求したんだから、原発事故が起きても、頼んだ義理がある以上、日本にとどまって操業するというようなけなげなグローバル企業があると思います？<br />
グローバル企業には国土も国民もないんです。金儲けにしか興味がない。それは彼らの本性だから変えようがないけれど、そういうものが国民国家の重大な国策の決定に与ることに、僕は反対しているんです。</p>

<p><strong>―そういう状態っていうのを改善できるんでしょうか。</strong></p>

<p>できませんね。これがグローバル化ってことの実質だから。安倍自民党政権というのは「グローバル化推進政権」ですから、このあともどんどんグローバル化が進行するでしょう。守るべき国土、扶養すべき国民という概念が空洞化するだけじゃなくて、国富という概念も空洞化する。つまり、人々がいかにして国富を私財に移し替えるか夢中になるということです。どうやって自分たちの私的なビジネスを税金で支援させるか、どうやって私用のために公務員を使うか、そういうことを日本人全員が考えるようになる。</p>

<p><strong>―原発の話にもどるんですが、原発って、東京で消費する電力を、福島で作ってたわけですよね。東京の犠牲になっていたわけですよね。なんでそういうシステムが生まれてしまうのでしょう。</strong></p>

<p>戊辰戦争ですよ！決まってるじゃないですか。戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟が賊軍になって、それからあと１５０年間、中央政府によって有形無形の差別を受けてきたからですよ。東北の出身者は中央に上がっていけなかったんですよ。政界でも官界でも財界でも・・・。明治の藩閥政治の間は、東北出身者にはエリートへのキャリアパスは存在しなかったんです。だから、原敬は爵位を拒否したんです。あれは東北人の意地なんです。私は薩長藩閥が作った政府が出す勲章なんか要らないって。原敬の号は「一山」っていうんだけど、あれは「白河以北一山百文」、東北地方は地価ただ同然という明治の東北差別に対する原の抗議のしるしなんです。<br />
僕は、四代前が庄内藩士、三代前が会津藩士という賊軍の系譜の直系ですから、東北人の悔しさはよくわかるんです。東北人の屈託は内田家の家風ですから。「われわれは日の当たらないところに置かれている」という。東北人である限り、いくら努力しても報われないっていう。<br />
だって考えてみてくださいよ、東海道新幹線の開通が1964年でしょ。東北新幹線の開通は2010年ですよ。半世紀遅れてる。<br />
福島も地元が原発を誘致したわけだけれど、それは地元に産業がないからでしょう。産業がないのは福島県人の自己努力が足りないからじゃなくて、戊辰戦争以来１５０年間の、東北に対する政治的・経済的な制裁の結果なんですよ。東北にはチャンスが与えられなかった。<br />
六ヶ所村ってあるでしょ。あれは昔の斗南藩の領地なんです。会津藩が戊辰で負けた後に、改封されて極寒の下北半島の原野に移された。不毛の荒地に。吹雪が吹いて、食べるものもろくに採れないところに会津藩士たちは追いやられ、そこでずいぶん餓え死にした。その斗南藩のところに今六ヶ所村の再処理施設があるわけですよ。産業が何もないところに。農作物も育たないし、自然資源もない。そこで生きていかなきゃいけない人たちがいる。だから、「よごれもの」を引き受けるという誘いに手を上げざるを得なかった。他に生きる道がないんだから。<br />
　そういうふうに、ある種政治的な意図をもって、政府のどんな要求に対しても断ることができないくらい貧しい地域が作り出されているんですよ。そこに嫌なことを全部押し付けられるように。</p>

<p><strong>―それは今の官僚であるとか政治家とかも、意識して政治を行ってるのですか。<br />
</strong><br />
いや、意識はしてないでしょう。むしろ無意識だからこそ、こんなひどいことができる。150年間、ずっと無意識なまま東北は抑圧されてきた。君たちも東北人の証言には耳を傾けるべきだと思う。ぜひ読んでおいて欲しい本がある。『ある明治人の記録』。旧会津藩士ではじめて陸軍大将に昇進した柴五郎の伝記。会津が明治政府にどんな目に遭わされたか、わかるよ。</p>

<p><strong>―ということはそのシステム自体は、たとえば自分たちがそのシステムを認知したとしても、そうそう変わらないということですか。<br />
</strong><br />
だって150年かかって作り込んでいるんだから。福島とか新潟とか福井とか、原発があるのは戊辰戦争で負けた藩のところばかりでしょう。戊辰戦争で勝った側にあるのは・・・玄海が佐賀にあって、それから川内が鹿児島にある。佐賀も佐賀の乱で中央政府に反抗してるし、薩摩は西南戦争で反抗しているから。だから、長州には原発がない。今、一つだけ上関に計画だけあるけれど、地元の反対運動で結局まだできていない。調べればわかるよ。戊辰で勝った側と負けた側の原発設置比率は。歴然とした差がある。要するに、賊軍にされた地域は貧しいままにとどめおかれたということですよ。<br />
話がそれるけれど、元老山縣有朋と田中義一が死んだときに陸軍の長州閥が実質的に解体する。そのとき長州閥の重しがとれると同時に、東北出身の、陸士陸大出の人たちが陸軍内部で急激に大きな勢力を作り出す。彼らが中心になって皇道派・統制派が形成されるんだけれど、彼らの主要な関心事は軍略じゃなくて、実は陸軍内部のポスト争いなんだよ。長州閥が独占していた軍上層部のポストが空いたので、それを狙った。<br />
陸海軍大臣・参謀総長・軍令部長・教育総監といういわゆる「帷幄上奏権」をもつポストを抑えれば、統帥権をコントロールできる。政府より官僚よりも上に立って、日本を支配できる。そのキャリアパスが1930年代の陸軍内部に奇跡的に出現した。そこに賊軍出身の秀才軍人たちが雪崩れ込んで行った。真崎甚三郎は佐賀、相沢三郎は仙台、ポスト争いで相沢に斬殺された永田鉄山は信州、統制派の東条英機は岩手、満州事変を起こした石原莞爾は庄内、板垣征四郎は岩手。藩閥の恩恵に浴する立場になかった軍人たちが1930年代から一気に陸軍の前面に出てくる。<br />
だから、あの戦争があそこまで暴走したのは、東北人のルサンチマンが多少は関係していたかもしれないと僕は思う。結果的に近代日本を全部壊したわけだから。ある意味で大日本帝国に対する無意識的な憎しみがないと、あそこまではいかないよ。戦争指導部は愚鈍だったと言われるけれど、僕はここまで組織的に思考停止するのは、強い心理的抑圧があったからじゃないかと思う。<br />
一人ひとりは普通に、合理的に生きているつもりでいても、長いスパンで見ると、そういうふうにふるまわざるをえないような集団心理的な方向づけって、あるんだと思う。人形つかいに操られる人形のように動かされてしまう。<br />
福島に原発ができ、六カ所村に再処理施設ができるのは、個別的に見ると、そのつどの政治判断とか自治体の都合とかがあって選ばれたように見えるけれど、そういう個別の選択とは違うレベルでは、もっと大きな歴史的な流れが見えてくるんじゃないかな。</p>

<p><strong>―東北の人たちは第二次世界大戦の少し前に上り詰めていって、で、第二次世界大戦が起きた後、またそこで排除されたんですか。<br />
</strong><br />
2.26事件とか5.15事件の関係者には東北諸藩の出身者が多いでしょ。農本主義的なテロリズムには東北の怨念に通じるものがあるんじゃないかな。現に、故郷では親族が飢えているとか、身内が娼婦に売られるとか、そういうことが青年将校たちの場合はあった。だから、都市ブルジョワジーが政治を壟断するのは許せない、と。そういう怒りがあったんだと思う。青年将校たちが求めた社会資源の再分配というのは、ブルジョワジーが独占している資源を貧しい国民に還流せよという、一種社会主義的な匂いがあるわけです。日本軍国主義って、アーシーなの。地面に近いんです。だから、戦前の右翼思想って、一筋縄ではゆかない。<br />
軍国主義者を輩出したという事実がまた、東北が戦後社会で無意識のうちに差別される理由の一つにもなったんじゃないかと僕は思う。東北の問題って、根が深いんですよ。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>学校教育の終わり</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1381</id>
   
   <published>2013-04-07T01:45:00Z</published>
   <updated>2013-04-07T02:11:06Z</updated>
   
   <summary>大津市でのいじめ自殺、大阪市立桜宮高校でバスケットボール部のキャプテンの体罰自殺...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>大津市でのいじめ自殺、大阪市立桜宮高校でバスケットボール部のキャプテンの体罰自殺など、一連の事件は日本の学校教育システムそのものがいま制度疲労の限界に達していることを示している。<br />
機械が壊れるときは、金属部品もプラスチックもICもすべてが同時に劣化する。それに似ている。学校教育にかかわるすべてが一斉に機能不全に陥っている。<br />
これを特定のパーツを取り替えれば済むと考えている人は「どこが悪いのか？」という「患部」を特定する問いを立てようとする。だが、それは無駄なことだ。日本の学校制度はもう局所的な手直しで片付くレベルにはない。<br />
「日本の学校制度のどこが悪いのでしょうか」と訊かれるならば、「全部悪い」と答えるほかない。<br />
けれども、学校教育は「全部悪い」からといって、「全部取り替える」ことができない。自動車なら、新車が納車されるまで、バスで通う、電車で通うという代替手段があるが、学校にはない。新しい学校システムができるまで子どもたちを収容する代替機関が存在しない。<br />
学校を全部変えるということは「無学校状態」に子どもたちを放置するリスクを負うことであり、私たちはそんなソリューションを採択することができない。<br />
つまり、学校教育システムを全部変えなければいけないのだが、部品は今あるものをそのまま「使い回し」てゆかなければならない。<br />
いわば、自動車を走らせながら修理するようなことを私たちは求められているのである。<br />
これが学校教育についての私の基本的な立場である。「走りながら修理する」ために、何をすればいいのか？　何ができるのか？</p>

<p>日本の近代学校教育システムは「国民形成」という国家的プロジェクトの要請に応えるかたちで制度設計された。つまり、学校の社会的責務は「国家須要の人材を育成すること」、「国民国家を担うことのできる成熟した市民を作り出すこと」ことに存したのである。サラリーマンになるにしても兵士になるにしても学者や政治家であっても、教育の目的はあくまで「国家須要の人士」の育成である。成否は措いて、この目的そのものは揺るぎないものだった。<br />
１９４５年の敗戦でも、学校教育の目的が国民国家の未来の担い手を育てることであるという目的そのものに疑いは挟まれなかった。戦後生まれの私たちの世代は「民主的で平和な日本の担い手」たるべく教育された。<br />
明治維新以来、学校教育は「国民国家を維持存続させるため」のものであり、教育の受益者がいるとすれば（そういう言葉は使われていなかったが）、端的に共同体それ自身だったのである。</p>

<p>この合意が崩れたのは一九七〇年代以降のことである。<br />
歴史的理由については贅言を要すまい。歴史上例外的な平和と繁栄である。私たちは「平和と繁栄のコスト」をいろいろなかたちで支払うことになったが、学校教育の目的変更もそのひとつである。<br />
このとき、学校教育の目的は「国家須要の人材を育成すること」から、「自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力・財貨・文化資本の有利な分配に与ること」に切り替えられた。<br />
教育の受益者が「共同体」から「個人」に移ったのである。</p>

<p>もちろん、明治に近代学制が整備されたときから、人々は自己利益のために教育を受けた。ほとんどの場合はそれが「本音」だった。だが、「おのれひとりの立身出世のために教育を受ける」という生々しい本音を口に出すことは自制された。あくまで学校教育の目的は「世のため人のため」という公共的なレベルに維持されていたのである。<br />
七〇年代以降、それが変わった。人々はついに平然と学校教育を「自己の付加価値を高め、自己利益を増大するための機会」だと公言するようになった。教育の受益者が「共同体」から「個人」にはっきりと切り替わったのである。<br />
だが、その根本的な変化が学校教育をどのように変容させることになるのか、どのように「破壊する」ことになるのか、そのときの日本人は想像していなかった。<br />
その後、教育はつねに「教育を通じてどうやって個人の利益を増大させるか？」という問いをめぐって論じられた。教育改革も教育批判もその点では同じだった。その前提そのものが設定の間違いではないかという反問をなす人はいなかった。　<br />
もちろん文科省の発令する文書には依然として「愛国心」や「滅私奉公」的な言辞がちりばめられていた。だが、そこで言われる「愛国心」は実際には単に「上位者の命令に従うこと」しか求めていなかった。「滅私奉公」してまで何をするかというと、「グローバルな経済競争に勝ち残ること」つまり「金儲け」なのである。<br />
このとき、国民国家はほぼまるごと「営利企業モデル」に縮減されたのである。上司の言うことを黙って聞いて、血尿が出るまで働いて、売り上げノルマを達成すること、それが学校教育の事実上の目標に掲げられる時代になったのである。</p>

<p>「公教育」という理念を考え出したのは啓蒙主義の時代のフランス人だが、行政制度として実現してみせたのはアメリカ人の方が早かった。だが、そのときも公教育の導入には強い抵抗があった。というのは、アメリカ社会は伝統的に「自己教育・自己陶冶」を重んじる国だったからである。<br />
学校教育に税金を投入すると聞かされたアメリカの裕福な市民たちはこう言って抗議した。<br />
「もし教育を受けたものが、そこで得た知識や技術のおかげで出世し、高い地位を求めるのであれば、それは自己負担でやるべきことではないのか。なぜ、私が刻苦勉励して納めた税金を他人の子どもの教育に投じて、自分自身の子どもたちの競争相手を作り出さなければならないのか？」<br />
この反対論は強固なものだった。<br />
公教育論者たちはこれを説得するために苦肉の理屈に訴えた。<br />
あなたがたが税金を投じて学校教育を整備してくれれば、文字が読め、四則計算ができ、基礎的な社会的訓練ができた子どもたちを作り出すことができる。それは長期的にはビジネスマンのみなさんにとっても「よいこと」であるはずだ。彼らは優秀な労働力となり、活発な消費活動を行う消費者になるだろう、と。<br />
市民たちはこの言い分を受け入れた。とりあえずアメリカの高額納税者たちは「労働者の質向上と市場の成熟」という長期的な利益を「今期の税額の多寡」という短期的な利益に優先させるくらいの計算能力を備えていたのである。<br />
日本の教育改革論はどれも公教育への税金投入に反対したこのときのアメリカの納税者のロジックを下敷きにしている。すなわち、「教育の受益者は本人だ。そうであるならば、教育のコストは自己負担すべきだ」というものである。<br />
貴重なる公金を支出するなら、学校は目に見えるかたちで、今すぐにその「見返り」を示さねばならぬ。それはとりあえず能力が高いが、安い賃金と長時間労働を受け入、上司の命令に従順な労働者を量産して、納税者の金儲けを支援させよというものである。<br />
ここには「次世代の共同体を担う成熟した公民を育成する」という長期的な国益への配慮はもう見られない。企業の収益が今すぐに増大するような教育的アウトカムばかりが求められている。そして、「短期の損得を先にして、共同体が瓦解するリスクを冒すな」とそれを抑制する対抗的なロジックを語る人はもはやメディアにはほとんど登場しないのである。</p>

<p>近代の学校教育が「国民国家内部的」な制度である以上、学校教育の衰退が国民国家の衰退と歩調を揃えるのは当然のことである。<br />
経済のグローバル化に伴って、いま世界中で国民国家はその解体過程にある。領土があり、官僚組織と常備軍を整え、その土地と文化につよい帰属意識をもつ「国民」を成員とするこの統治システムそのものが終わりつつある。<br />
グローバル資本主義は人、資本、商品、情報が超高速でクロスボーダーに移動することを要求する。この要求は不可逆的に亢進し続ける。クロスボーダーな運動にとって最大の障害は国境、ローカルな国語、ローカルな法律、ローカルな商習慣である。これらすべてをすみやかに排除することをグローバル資本主義は求める。<br />
経済のグローバル化を強力に牽引しているのはアメリカという国家だが、アメリカの国家戦略を実質的にコントロールしているのはすでに政治家ではなく、グローバル企業である。<br />
国民国家はグローバル資本主義にとって、クロスボーダーな経済活動を妨害するローカルな障壁だが、利用価値がある限りは利用される。<br />
国家資源は、政治家も官僚組織も軍隊もメディアも、もちろん学校教育も総動員される。<br />
だから、グローバル化の進行過程で「国民国家の次世代の成員を育成する」といった迂遠な目的を掲げる公教育機関が存続できるはずがない。<br />
グローバル資本主義は国民国家とも、学校教育とも「食い合わせが悪い」のである。</p>

<p>だから、「グローバル化に最適化した学校教育」はもう学校教育の体をなさない。教育にかかわるすべてのプレイヤーが「自己利益の最大化」のために他のプレイヤーを利用したり、出し抜いたり、騙したりすることを当然とするようなれば、そこで行われるのはもう教育ではないし、その場所は「学校」と呼ぶこともできない。<br />
現に、学校のグローバリスト的再編を求めている当のグローバリスト自身、日本の学校がもう学校としては機能していないことをよく理解している。だから、彼らは平気で自分の子どもには「スイスの寄宿学校で国際性を身につけろ」とか「ハーバード大学で学位をとってこい」というようなことを命じる。日本の学校が「もうダメ」なら、外国の学校で教育を受ければいい。そう言い切れるのは、「学校教育の受益者は本人である」という信憑が彼らのうちに深く身体化しているからである。優秀な人間はどんどん海外に雄飛すればいい。日本なんかどうせ「泥舟」なんだから、沈むに任せればいいというのはひとつの見識である。<br />
だが、そういう人は学校教育については発言して欲しくない。<br />
繰り返し言うが、学校教育は国民国家内部的な「再生産装置」であり、ほんらい自己利益の増大のために利用するものではないからである。</p>

<p>残念ながら今の日本の支配層の過半はすでにグローバリストであり、彼らは「次世代の日本を担う成熟した市民を育てる」という目的をもう持っていない。<br />
ご本人たち自身が子弟を外国の学校に通わせており、国内での雇用創出にも地域経済の振興にも興味がなく、所得税も法人税もできれば納めずに済ませたく、彼らがその収益を最優先に配慮する企業の株主も社員もすでに過半が外国人なら、それも当然である。<br />
だが、不思議なことだが、「正直なところ、日本なんかどうなってもいい」と思っている人間しか社会的上昇が遂げられないように今の社会の仕組みそのものが再編されつつあるのである。<br />
だから、まことに絶望的なことを申し上げなければならないのだが、今の日本では学校教育を再生させるために打つ手はないのである。<br />
教育改革をうるさく言い立てる政治家やメディア知識人はいまだに「勉強すれば報償を与え、しなければ処罰する」という「人参と鞭」戦術で子どもたちの学びを動機づけられると信じているようだが、それがもう破綻していることにいい加減に気づいたらどうかと思う。<br />
利益誘導は、高い学歴や社会的地位や高い年収といった「人参」に魅力を感じない子どもたち、「欲望を持たない子どもたち」には何の効果も持たない。「そんなもの、欲しくないね。僕は家に引きこもって、ゲームをしている方がいいよ」と言う子どもに利益誘導はまったく無効である。<br />
同じように、あまりにスマートであるために、学校に通って付加価値を高めるというような遠回りを「かったるい」と思う子どもたちにも利益誘導は無効である。彼らは学校に通う時間があったら、起業したり、ネットで株を売買したりして、若くして巨富を積む生き方を選ぶだろう。学校に通う目的が最終的に「金をたくさん手に入れるため」であるなら、自分の才覚で今すぐ金が手にできる子どもがどうして学校に通うだろう。　　<br />
「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする戦略はこうして破綻する。「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。<br />
引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。<br />
だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか？」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。</p>

<p>欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。<br />
だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。<br />
彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。<br />
　<br />
結論を述べる。<br />
日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。<br />
唯一の救いは、同じ傾向は世界中で見られるということである。<br />
学校教育が国民国家内部的な装置である以上、グローバル化の進行にともなって、遠からず欧米でもアジアでも、教育崩壊が始まる（もう始まっている）。だから、日本の学校教育の相対的な劣位がそれほど目立たなくはなるだろう。</p>

<p>もう一つだけ救いがある。それは崩壊しているのが「公教育」だということである。国民国家が解体する過程で、公教育は解体する。だが、「私塾」はそうではない。<br />
もともと私塾は公教育以前から、つまり国民国家以前から存在した。懐徳堂や適塾や松下村塾が近代日本で最も成功した教育機関であることに異議を唱える人はいないだろうが、これらはいずれも篤志家が「身銭を切って」創建した教育機関である。<br />
このような私塾はそれぞれ固有の教育目的を掲げていた。「国家須要の人材」というような生硬な言葉ではなく、もっと漠然と「世のため人のために生きる」ことのできる公共性の高い人士を育てようとしていた。<br />
それがまた蘇るだろうと私は思っている。隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。私はそう考えている。そして、おそらく、私と思いを同じくしている人の数は想像されているよりずっと多い。</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>言語を学ぶことについて</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/03/19_0907.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1377</id>
   
   <published>2013-03-19T00:07:56Z</published>
   <updated>2013-03-19T00:11:18Z</updated>
   
   <summary>２００２年に文科省はグローバル化する世界を生き抜くためには英語運用能力が必須であ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>２００２年に文科省はグローバル化する世界を生き抜くためには英語運用能力が必須であるとして、「英語が使える日本人」の育成のための戦略構想を発表した。それから１０年経った。日本の子どもたちの英語運用能力が上がったという話は誰からも聞いたことがない。<br />
大学サイドから見ると、新入生の英語力は年々劣化を続けていることは手に取るようにわかる。進学にも、就職にも、英語力は絶対に必要であると官民あげてうるさくアナウンスされているにもかかわらずその教育成果は上がらない。なぜか。<br />
英語力の必要が喧しく言われるようになってからむしろ英語学力が低下したという事実は一見背理的であるが、考えれば説明がつく。<br />
教科を習得したときの「報償」が学習開始時点であらかじめ開示されているからである。<br />
報償があらかじめ示されると、学習意欲は損なわれる。考えれば当たり前のことである。<br />
「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益の提示があれば、子どもたちは必死になって勉強するだろうと大人は考えるが、そんなことは夫子ご自身を省みればありえないことが知れるはずである。<br />
「ここまで到達すれば、こんないいことがある」という利益が事前に開示されていた場合、人間は「では、どうやって最短時間、最小エネルギー消費で、『そこ』にたどりつくか」を考えるからである。最小の努力で、最大の報償を得る方法を考える。費用対効果の最もすぐれた学習方法を探し始める。当たり前のことだ。<br />
日本の子どもたちも大人と同じように合理的に思考した。だから、「最小の学習努力で、高い評価を得る方法」を考えたのである。<br />
文科省やメディアの口ぶりを見るとどうやらTOEICで高いスコアを取ることが英語学習上もっとも報償が高いらしい。では、最小の学習努力でTOEICのスコアを上げる方法を考えよう。そういう流れになる。さいわい書店にはその手の本が並んでいる。「６週間でスコアが１００点上がる方法」とか、「居眠りしながらヒアリング能力が向上する方法」とか、いくらでもある。<br />
むろん子どもたちは「６週間で１００点上がる方法」より「３週間で１００点上がる方法」を選ぶ。<br />
「１週間で」という本があればそれを選ぶだろう。<br />
そういうものである。事前に「獲得できる報償」が示されれば、子どもたちは「最短距離」を探す。<br />
だが、そうやって最短期間に最高効率で身につけた英語力は、むかしの子どもが何年もかかって英語の小説を読んだり、英語の映画を見たり、英語の音楽を歌ったりしながら、じわじわと身につけた英語力と比べたときに、その厚みや深みにおいて比較にならない。「英語ができるといいことがある」というアナウンスが始まってから英語力が劇的に低下したことの説明はこれでつく。</p>

<p>でも、それでは、子どもたちの国語運用力も同時に低下していることの説明がつかない。というのは、国語についてはそもそも「国語ができるといいことがある」という報償の提示さえなされていないからである。<br />
だから、国語のスコアを上げるための効率的な「ショートカット」を子どもたちも親も別に必死で探していない。<br />
少なくとも私は保護者たちから「どうしたら最低の学習努力でうちの子どもの日本語運用能力を向上させられるでしょうか？」といったタイプの功利的な問いを向けられたことがない。<br />
これはたぶん「日本人であれば、誰でも日本語は十分に使いこなせる」という前提を彼らが採用しているからである。<br />
日本の子どもたちは「すでに十分に日本語運用能力を備えている」とされており、あとはただそれを数量的に増大させること（語彙を増やす、読書量を増やす、読書や書字のスピードを上げるなど）だけが問題なのだと人々は信じている。子どもも親も教師さえ、そう信じている。<br />
だが、それは「ありえない」話なのである。<br />
もし親の一方がアメリカ人で、家庭内では英語で会話しているという子どもが英語の成績がよければ、周囲のものは「アンフェアだ」と思うだろう。<br />
だが、親の一方が熟達した日本語の遣い手であるために、子どもの国語の成績がいいことを「アンフェアだ」と言い立てるものはいない。<br />
「熟達した日本語の遣い手」というものがありうること、長期にわたる集中的な努力なしには、そのような境位に至り得ないことを人々は認めたがらない。<br />
だが、もちろんそのような文化的環境は存在する。それによる言語運用能力の差異は歴然として存在する。<br />
でも、それを認めない人たちは自分が用いる日本語を豊かなものにすることに何の関心も示さない。<br />
英語を最小の学習努力で習得しようとする費用対効果志向と、日本語はもう十分できているので、あとは量的増大だけが課題だと高をくくっているマインドセットは根のところでは同じ一つのものである。<br />
どちらも言語というものを舐めている。　<br />
言語というのは「ちゃっちゃっと」手際よく習得すれば、労働市場における付加価値を高めてくれる技能の一種だと思っている。<br />
そこには私たちが母語によっておのれの身体と心と外部世界を分節し、母語によって私たちの価値観も美意識も宇宙観までも作り込まれており、外国語の習得によってはじめて「母語の檻」から抜け出すことができるという言語の底深さに対する畏怖の念がない。言葉は恐ろしいものだという怯えがない。</p>

<p>言語教育を主管する文科省の発令する文書を読むたびに、これを起草する人たちは言語というものをつくづく侮っていると思う。言語を憎んでいるのかと思うことさえある。<br />
「国語力の増進」というような言葉を平然と使える言語感覚が鈍感さを私は責めようとは思わない。だが、それほどに言語感覚の鈍感な人間が言語についての政治を統制している事実の前にすると、暗い表情でうつむく他にとるべき姿勢を思いつかないのである。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>『下流志向』韓国語版序文</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/03/11_1658.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1375</id>
   
   <published>2013-03-11T07:58:56Z</published>
   <updated>2013-03-11T23:04:10Z</updated>
   
   <summary>みなさん、こんにちは。内田樹です。　『下流志向』韓国語版お買い上げありがとうござ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>みなさん、こんにちは。内田樹です。　『下流志向』韓国語版お買い上げありがとうございました。<br />
この本は以前に一度韓国語に訳されて出版されたのですが、その後絶版になっていました。<br />
出版当時、韓国に留学していた大学の教え子が「韓国のネットに載っていたこの本の書評」を訳して送ってくれました。好意的な書評は少なかったように記憶しています。だからこそすぐに絶版になってしまったのでしょう。<br />
その絶版になった本が新訳で出ることになりました。これはかなり例外的なことだと思います。いったいこの本をとりまく状況のどこが変わったのでしょう？　<br />
ひとつは、僕の本が続けて韓国語訳されて、ある程度安定的な読者ができたことだと思います。もちろん、せいぜい数千人というサイズの読者層ですが、それでも、それだけの読者が見込めるのなら、出しても商売になる。<br />
もちろん、それだけではありません。というのは、他にいくらも本があるのに、出版社はあえて一度絶版になった『下流志向』を選んだからです。最近出して売れなかった本、たいして評判にもならなかった「失敗した本」をもう一度新訳で出すというのは、かなりリスクの高いビジネスです。なぜ、出版社はそんなリスクを冒してまでこの本を選んだのか？それについての自注を記して「まえがき」に代えたいと思います。</p>

<p>『下流志向』が日本で出版されたのは2007年ですが、もとになった講演がなされたのは2005年です。<br />
日本における「学ばない子どもたちと働かない若者たち」を論じた文章が8年後に、それも隣国とはいえ、かなり社会状況を異にする韓国においてもリーダブルである理由は何でしょう？<br />
それはそこで記述され分析されている事象が今の韓国においても切実な問題になりつつあるからだと思います。それ以外にうまい説明がありません。皮肉な言い方をすれば、日本において私たちが経験していた子どもたちの「学びと労働からの逃走」は国際共通性の高い問題だったということです。<br />
おそらく、これと類似した現象は、規模や深刻さは違っても、世界のいずれの先進国でも起きているのではないかと思います。では、それはどんな現象なのか。<br />
それは大づかみに言うと、「グローバル資本主義」と「国民国家」の利益相反という事態であろうと思います。<br />
国民国家というのは、国境があり、官僚制度があり、常備軍があり、国籍と帰属意識を持つ「国民」を成員とする共同体のことです。国民国家が基本的な政治単位に登録されたのは、ざっと四〇〇年前のことです。政治史的にはウェストファリア条約（1648年）という生誕の日付を持っています。<br />
それ以前、つまりヨーロッパを神聖ローマ帝国が支配していた時代、私たちが今使っているような意味での「国民国家」というものは存在していません。<br />
神聖ローマ皇帝カール五世はネーデルランド領主とカスティリア女王の間にフランドルで生まれ、スペイン王であり、パリに住み、フランス語を話しました。そういう「超領域的」な権力がヨーロッパを支配していた。そういう時代が17世紀に終わり、対等な主権を有する国家が、それぞれの国益の保全と拡大をめぐって戦争を含む複雑な外交関係を取り結ぶようになる。<br />
この国民国家を基本単位とする国際秩序を「ウェストファリア・システム」と呼びます。<br />
そのシステムがざっと400年ほど続きました。生誕の日付をもつ政治制度である以上、いずれ賞味期限が切れます。私たちはいま「ウェストファリア・システム」の末期に立ち合っている。私はそういう認識を持っています。<br />
国民国家という政治単位にとどめを刺したのは「グローバル資本主義」です。グローバル資本主義に則って企業活動を行う事業体を「グローバル企業」と呼ぶことにします。<br />
グローバル企業はもはや特定の国民国家には帰属していません。経営者も株主ももう同じ国の国民ではありません。言語も宗教も生活習慣も異にしています。彼らに共通するのは、企業の収益を増やし、株価を上げ、適切なタイミングで売り抜けて自己利益を確保すること、それだけです。<br />
日本の大企業はすでにほとんどがグローバル化したか、しつつあります。そういう企業は同胞の雇用にも、企業城下町の支援にも、祖国の国益の増大にも、もう関心がありません。仮に関心があっても、外国人株主からは「そんな余分な金があるなら株主に配当しろ」というクレームがつくでしょう。<br />
「生活の面倒を見なければいけない貧しい親族」を抱えている国民経済内部的企業と、そのような「扶養家族」を持たないグローバル企業では、国際競争力が違います。だから、企業が生き残ろうとしたら、グローバル化＝脱国民国家化するしかない。<br />
グローバル化した企業は、法人税率の引き下げ・労働者の賃金の切り下げ・公害規制の緩和・原発稼働による安価な電力の供給・社会的インフラのための国費支出などを彼らが経済活動をしている国の政府に要求します。そして、その要求に従わなければ「生産拠点を海外に移す」という恫喝を加える。そうなれば、雇用が失われ、消費が冷え込み、地域経済が崩壊し、法人税収が激減し、国民国家は立ちゆかなくなる。しかたなく、政府はその要求に屈服します。<br />
その結果、国民国家に対する帰属意識が少ない企業ほど国民国家から多くのサービスを期待できるという倒錯した法則が成立することになりました。<br />
そして、現にその倒錯した法則は「世界標準」になりつつあります。<br />
国富を私財に移し替えることに熱心な人間、公共の福利よりも私利私欲を優先する人間を当の国家が全力で支援する。それが今、アメリカでも中国でも日本でも、そしておそらく韓国で起きていることの実相です。<br />
このままこの「グローバル・ルール」の普及が進めばどうなるか。いずれすべての国民がグローバル企業のやりかたを見習って、「どうやって国富を私財に移し替えるか、どうやって国費をもって自己利益を賄うか、どうやって私事のために公務員を利用するか」について知恵を絞るようになってくるでしょう。<br />
そういう国民の数が一定の比率を超えたときに国民国家は名実ともに終わることになります。<br />
この倒錯した法則を合理化しているのが、新自由主義者の言う「トリクルダウン」理論です。<br />
「選択と集中」によって国際競争力の高いセクターに国民的資源を集中する。国家的支援を受けた企業は世界市場で競争に勝ち抜き、大きな収益を上げる。その「余沢」はいずれ「まわりの貧乏人」たちにも「滴り落ちる（trickle down）」であろうというのが「トリクルダウン理論」です。<br />
でも、これは実際には夢物語でした。「トリクルダウン」理論先進国であるアメリカでも中国でも、成功者たちは個人資産の形成には熱心でしたが、弱者への再分配には熱意を示しませんでした。<br />
考えれば当然のことです。「選択と集中」戦略の成功から導かれる経験則は「資源は強者に集中し、弱者には分配しないことが成功の秘訣である」だからです。<br />
でも、現代の日本を見ていると、少数の人間に権力と財貨が集中し、大多数の人間が下層に階層降下することが高い確度で予測されるこの「国民国家解体」の流れに国民の過半は消極的にではあれ賛意を表明しています。日本の場合は、昨年末に成立した安倍内閣が、消費増税、TPP参加、福祉予算の削減など「国民の窮乏を代償とする富裕層の一層の富裕化」という財産移転の政策を次々と提案していますが、それに正面から反対する政治勢力は国内にはほとんど存在しません。いったい、どうしたのでしょう。<br />
なぜ、国民の大半が貧困層に転落するような社会的制度改革に当の国民たちが賛成するのか？　「自分だけはうまく立ち回って『少数の成功者』の群れにまぎれこめる」と思っているのでしょうか。それとも、自分自身はもう上層にはい上がる望みがなさそうなので、「貧困層の仲間を増やす」ことでおのれの敗北感を希釈しようとしているのでしょうか。あるいは単に思考力を失って、狂い始めているのか。<br />
もちろん、日本国民は狂っているわけではありません。<br />
彼らは主観的には合理的に思考し、行動しているのです。<br />
人々が主観的・個別的には合理的にふるまっているけれど、そういう人が一定数を超えると、そのふるまいが非合理な結果を生み出すということがあります。「部分適合で全体不適合」とか「短期適合で長期不適合」と言われる状態のことです。<br />
例えば、夫婦が子どもを作らないことは育児や教育にかかる費用を節約でき、夫婦の社会的自由度を高めますから、社会的競争において短期的には有利に働きます。でも、すべての夫婦が子どもを作らないことにすると、一世代後にはそもそも競争のアリーナである社会それ自体が消滅してしまう。<br />
企業が労働者の雇用条件をどんどん切り下げてゆくとコストカットのおかげで企業の国際競争力は増し、収益も増えます。でも、労働者の購買力が無限に低下すれば、いずれ市場そのものが消滅してしまう。<br />
ですから、ふつうは「目先の利益を追っていると長期的には大きな損害が生じるリスクのあること」はやりません。<br />
「長期的」というとき、私たちはふつう自分が死ぬまでだけではなく、子どもや孫の世代までくらい、ざっと100年は視野に収めています。国民国家の成員が「長期的」という言葉を使うときの「長期」はそういうふうに生身の人間の寿命を基準にして考えています。<br />
でも、グローバル企業が「長期的」という言葉を使うとき、彼らもまた「寿命」を基準にしていることを忘れてはいけない。<br />
株式会社の平均寿命は日本で７年、アメリカで５年です。<br />
ということは、それ以上長いスパンで「最適行動」を考慮することは、企業活動上は無意味だということです。<br />
例えば、環境に長期的に破滅的な影響を与える有害物質を排出することで短期的に利益を上げるというふるまいは企業にとっては十分に「合理的」でありえます。私たちの側には、それを原理的には批判する権利はありません。というのは、私たちだって、「こんなことを続けると、１万年後に環境に破滅的な影響が出る」と言われても、そんなことは気にしないからです。１万年後には人類そのものが滅びているかもしれないんですから、知ったことじゃない。<br />
十年後に環境汚染で病人が続出するリスクがあるとしても、それ以前に企業の寿命が尽きて消えているなら、そんなことは企業にしてみたら知ったことじゃない。そういうことです。<br />
あるふるまいの正否はそれを判定するものが自分の寿命をどれくらいに見積もっているかによって、まったく反対のものになりえるということです。<br />
私が冒頭に「グローバル資本主義と国民国家は利益が相反する」と書きましたが、それは端的に言えば、グローバル資本主義は「寿命が５年の生物」を基準にしてものごとの正否を判定しているのに対し、国民国家はとりあえず「寿命１００年以上の生物」を基準にしてものごとの正否を判定しているということです。<br />
ある意味では「それだけの違い」です。<br />
しかし、ことがあまりにシンプルな違いであるがゆえに、絶望的に非妥協的な対立を生み出しています。<br />
この利益相反が最も先鋭的なかたちで露出しているのが学校教育です。<br />
学校はもともとは国民国家内部的な装置です。<br />
学校の設立目的は「次世代の国家を担いうる成熟した公民の育成」です。ちゃんとした大人を継続的に供給してゆかないと、社会はもたない。<br />
ですから、「大人を育てる」というのは、100年スパンではごく合理的な行動になる。<br />
でも、グローバル資本主義はそんなものを求めていません。彼らが求めているのは「とりあえず次の四半期の収益を上げるのに資する人材の育成」です。能力が高くて、賃金が安くて、体力があって、権利意識が希薄で、批判精神が欠落していて、上司に従順で、いかなる共同体にも帰属せず、誰からも依存されていない、辞令一つで翌日から海外の支店や工場に赴任できる若者（それを日本の文科省は「グローバル人材」と呼んでいますが）、そのような若者を大量に備給することが学校に求められています。<br />
国民国家内部的な発想をする教師たちはそういう要求につよい違和感を覚えます。<br />
「そんな子どもたちばかりを育てた場合に、彼らは30年後、50年後にどうなるのか？」という不安を感じます。ちゃんと家庭を営めるのか？　子どもを育てられるのか？　地域社会の担い手になりうるのか？国民国家のフルメンバーとして公共の福利に配慮できるのか？などなど。<br />
でも、こういう問いはすべて国民国家内部的には意味があるけれど、グローバル企業にとってはまったくナンセンスな問いなのです。<br />
30年後にはたぶん今のグローバル企業の９５％は地上から消滅しているからです。自分が消えた後のことなんか知ったことじゃない。<br />
彼らにしてみたら、「学校教育をグローバル企業向きに改変することで国民国家が長期的に受けるダメージ」を懸念するというのは「あと１０億年後に太陽が消滅するときに地球が受けるダメージ」についてくよくよ心配するのと本質的には変わらないことなのです。<br />
学校教育をはじめとして、今の世界ではあらゆるセクターで「グローバル資本主義の原理」と「国民国家の原理」がせめぎ合っています。それは「寿命の違う生物」のあいだのヘゲモニー闘争だと見なした方がよいでしょう。<br />
学ばない子どもたち、労働しない若者たちはグローバル資本主義の「寿命感覚」をかなり深く内面化した人たちだということができます。<br />
彼らはたぶん自分の寿命を５年程度に設定して、それに基づいて「学校に通うことの不合理」や「労働することの不条理」を判断している。その限りでは正しいのです。<br />
そして、問題は、彼らの生物としての寿命は５年では終わらないということなのです。</p>

<p>『下流志向』を書いているときに、私はまだそこまで問題が深刻なものだとは思っていませんでした。<br />
けれども、それ以後、とりあえず日本においては、問題の解決のための手がかりはまだ見つかっていません。<br />
もちろん、私と危機感を共有する人は少なくありません。<br />
彼らはどうにかして、「国民国家的なもの」、とりあえず「寿命の長い共同体」を想定して、そこに参加して、先行世代から「パス」を受け取り、後続世代に手渡すという「物語」を採用しないと子どもを成熟に導くことは困難であるということは理解しています。<br />
私としては、そういうつよい危機感をもった人たちが自然発生的に「学びと労働の拠点」を構築して、グローバル資本主義の放つ「圧倒的な合理性」に対抗するというかたちしか、短期的な戦略としては構想することができません。<br />
そして、そのような「学びと労働の拠点」はおそらく韓国でも自然発生的・同時多発的に形成されつつあるのではないかと思っています。<br />
もし、本書が韓国においてそのような運動を担っている人々、そのような運動に教育の未来を期待している人々にとって、多少とでも資するところがあったとすれば、私はたいへんうれしく思います。</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>体罰とブレークスルーについて</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/03/04_0909.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1373</id>
   
   <published>2013-03-04T00:09:25Z</published>
   <updated>2013-03-04T00:26:46Z</updated>
   
   <summary>『GQ』に毎月人生相談コーナーに寄稿している。 今月号は体罰についての質問だった...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>『GQ』に毎月人生相談コーナーに寄稿している。<br />
今月号は体罰についての質問だった。<br />
たいせつな話なので、ここに再録しておく。</p>

<p>Q:体罰が問題になっています。武道における鉄拳制裁、愛の鞭というのはないのでしょうか</p>

<p>A：武道ではありえないですね。人に向かって「努力がたりない」という理由で罰を与えるということは。<br />
処罰で脅すというのは、はっきりした到達目標とタイムリミットがある場合に限られます。<br />
能力の発現までのんびり待っていられないというときに、処罰の恐怖や、金や名誉といった利益による誘導や、マインドコントロールやドーピングが採用される。<br />
時間が迫っているので「背に腹はかえられない」というのがそのときの言い分です。<br />
でも、武道の修業というのは、いつ、どこで、どのような危機に遭遇するのか予見できない状態で、それに備えるものです。だから、「いついつまでに、これこれのことができなければ罰を与える」という論理形式自体ありえません。<br />
競技ではパフォーマンスを最大化すべき時間も場所もあらかじめ決まっています。その時点にピークをもって来られるなら、そのあと足腰立たなくなっても構わない。極端な話、廃人になっても構わない。<br />
武道の修業にはそういうタイムリミットがありません。というか、「リミット」という概念そのものがありません。<br />
自分の心身の能力を、与えられた生涯のうちにどこまで高められるかを追求するものです。だから、修業の途中の、まだろくに技術がない段階で生き死にの修羅場に遭遇したら、そのときには手持ちの資源を使える限り使ってなんとかするしかない。死ぬときは死ぬ。生き延びられたら修業を続ける。それだけのことです。</p>

<p>もう一つ、体罰をする指導者は全員が「メリトクラシー」の信奉者です。<br />
努力したものは報償を受け、努力を怠ったものは罰を受けるべきだという考え方のことです。<br />
彼らが暴力の行使を正当化するときの言い分はだいたい同じです。<br />
「これほど資質に恵まれていながら、努力を怠ることが許せない。もともと才能がないなら、叱りはしない」と。<br />
この主張の前提にあるのは、身体能力には人によって生得的な差があるが、「努力する能力」には差がないという信憑です。全員が等しく「努力する能力」を分有している。なのに、こいつはそれを出し惜しんでいる。能力がないことは咎めないが、能力の開発を自分で抑制している人間は罰を受けなければならない。そういうロジックです。<br />
でも、実際にはその前提が間違っている。<br />
自分の限界を突破したいという「努力するモチベーション」が起動する仕方は人によってまったく違うからです。<br />
「自分の限界」を設定しているのは本人です。「自分にはこれくらいしかできない。その範囲なら心身を制御可能である」という範囲に誰でも居着きます。自分の可能性を低めに設定して「心身に無理をさせない」というのは生物としては合理的な生存戦略だからです。<br />
でも、その「リミッター」を解除しないと身体的な「ブレークスルー」は起こらない。</p>

<p>リミッターを解除する方法は、単純化すれば二種類しかありません。<br />
「限界の外に出ると、いいことがある」と思わせるか、「限界の内にとどまっていると、ひどい目に遭う」と思わせるか、二つに一つです。<br />
体罰はもちろん後者です。<br />
自分で設定した限界内にとどまっていると「ひどい目に遭う」と信じ込ませれば、人はやむなく限界を超えます。「できるはずのないこと」を無理やりやろうとする。今、ここで使い切ってはいけない身体資源まで使い切ってしまう。<br />
それが可能なのは、リミッターの解除の代償に「時間制限」をかけているからです。「次のインターハイまで」とか「五輪強化選手選考会まで」とか「世界選手権まで」とか。数週間、せいぜい数ヶ月の時間制限を設ける。それまでは限界を超えるトレーニングに耐える。それを超えたら「壊れる」という身体への物理的負荷のリミットを「この日まで」という時間制限に置き換える。<br />
アスリートも「その日まで」我慢すれば「あとは休める」と思うから、本来であれば一生ゆっくり使い延ばさなければならない身体資源を短期的に費消するようなトレーニングに同意してしまう。<br />
少年野球で連投して、そのとき肩を壊してそのあと野球ができなくなった人とか、柔道で膝を傷めて、それから足を引きずっている人とか、ときどき見かけます。彼らは一生丁寧に使い延ばして使わなければならない身体資源を「先食い」してしまったわけです。<br />
長く使うべきものを短期的に費消したことの代償として、期間限定的にパフォーマンスを上げることは可能です。でも、それがどれほど「割りに合わない」バーゲンであることを自覚しているスポーツマンはごく少数です。ほとんどのアスリートは高いパフォーマンスが要求される「限定期間」が終わったあとの自分の身体がどうなってしまうかについて何も考えていません。</p>

<p>自分の身体能力を「一生かけて高めてゆくもの」だとは考えない。それは学校体育でも同じです。学校体育は、子どもたちの中に潜在している多様な身体資源を、ゆっくり時間をかけて、ていねいに吟味し、開花させるという仕事には、ほとんど興味を示しません。<br />
学校体育はその宿命として「成績をつける」ことを義務づけられています。そのためには他の条件を全部同じにして、数値的に比較考量可能な能力を見るしかない。タイムを計ったり、距離を測ったり、スコアを数えたり。<br />
でも、人間の蔵している身体能力のほとんどは数値化できません。少なくとも、学校で使えるような装置では測定不能です。<br />
武道的に言えば、「何でも食える能力」や「どこでも寝られる能力」や「誰とでも友だちになれる能力」や「正しい道案内人を見つける能力」は危機的状況を生き延びる上で、走る速さやボールをゴールに蹴り込む精度よりもはるかに有効です。でも、これらの能力は複雑すぎて計測不能・数値化不能です。そして、「数値化できない身体能力」は今の学校体育では「存在しない」ものとして扱われます。<br />
数値化できない身体能力は「ないもの」として扱う。それは競技会が終わった後のアスリートたちの心身については何も「考えない」スポーツ指導者のマインドと同質のものです。</p>

<p>体罰や成果主義に伏流しているのは、生き物としての強さを犠牲にして、今ここでデジタルに数値化できる身体能力を限定的に高めようとする傾向です。それは「身体資源をできるだけ長く使い延ばそうとする」人間の生物的本性に対する攻撃です。<br />
今のスポーツ界はそれを「リミッターを解除して、心身の限界を超えると『いいこと』がある」という利益誘導と、「言うとおりにしないと『ひどいめ』にあわせる」という恫喝を使い分けて行っています。<br />
「いいこと」というのは進学や就職や年収や名声であり、「ひどいめ」というのは体罰や屈辱のことです。</p>

<p>武道もブレークスルーを喜びとして経験することをめざしています。<br />
けれども、そのとき経験される「いいこと」というのは金とか名誉とかいう世界内部的な記号ではありません。<br />
それは「生きる力が満ちる」という細胞レベルでの出来事です。</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>「ポストグローバル社会」とナショナリズムについて</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/02/27_1227.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1371</id>
   
   <published>2013-02-27T03:27:08Z</published>
   <updated>2013-02-27T03:36:19Z</updated>
   
   <summary>中島岳志さん、平松邦夫さんとの「ポストグローバル社会の共同体」をめぐるシンポジウ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>中島岳志さん、平松邦夫さんとの「ポストグローバル社会の共同体」をめぐるシンポジウムの四回目が凱風館で行われた。<br />
第一回がこの三人プラス平川克美、小田嶋隆。第二回が小田嶋、平松、内田にイケダハヤト、高木新平という若者ふたり。第三回と第一回は同じメンバー、第四回が昨日である。<br />
四回全部に出たのは平松さんと私のふたり。<br />
このシンポジウムは公共政策ラボという平松さん率いる政策集団の主催のイベントであり、私はその発起人メンバーに加わっているので、ゲストじゃなくて主催者側なのである。<br />
四回かけて10時間近く議論をしたわけで、ずいぶん新たに学ぶことがあった。<br />
同時期に私は岡田斗司夫さんと連続対談をしていた（これは『評価と贈与の経済学』に収録された）。<br />
その対談で岡田さんからつよい影響を受けて、それがこのシンポジウムにも反映している（人間は本人がいない場でその人の意見を請け売りするときに、たいへん能弁になる。このシンポジウムで私がたいへん能弁であるときはしばしば岡田さんの請け売りを語っており、岡田さんとの対談で能弁であるときはイケダくんや高木くんの話を請け売りしていたのである）。<br />
第四回である今回のシンポジウムに際しては、いちばんつよい影響を受けたのは、直前に読んだ鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』からである。<br />
直接どういう意見に共感したということよりも、１００年射程で社会システムを設計しようとしている若い知性のスケールの大きさに感動したのである。<br />
光嶋裕介くんや森田真生くんや三島邦弘くんといったこれからの日本の知的ムーブメントを牽引できるだけの力量をもった人たちが続々と多田塾甲南合気会に入門してきて、彼らから持続的に刺激を受け続けたことも私の物の見方に大きな影響を与えている（鈴木健さんを凱風館に連れてきて引き合わせてくれたのは森田君である）。<br />
こういう若い人たちに続々と出会っているうちに、「なんか、日本の未来も大丈夫かも」という気がしてきた。<br />
これがひとつ。<br />
もうひとつは、近代日本政治史をもう一度勉強し直さなければならないという気分が醸成されたことである。<br />
直接には中島岳志さんや片山杜秀さんの近代ナショナリズム史の読み直しの仕事に触発されている。<br />
渡辺京二や松本健一がナショナリズムについて書く理由はわかる。あるいは半藤一利が司馬遼太郎の衣鉢を伝えようとする気持ちもわかる。<br />
でも、1960年、70年代生まれの若い研究者たちが玄洋社や農本主義や軍制史を研究する動機は、すぐにはわからない。<br />
でも、この領域の研究に緊急性があるということは、私にも直感されている。<br />
現に書棚を振り返ると、ここ数年のうちに北一輝、頭山満、大川周明、権藤成卿、宮崎滔天といった人たちについての研究書がにわかに増殖している。<br />
どうしてそういう思想家たちに興味がわいたのか、自分でもよくわからない。<br />
ツイッターにも少し書いたけれど、現代日本に瀰漫しているナショナリズムは「ナショナリズムとして空疎である」という印象が私にはある。<br />
ナショナリズムというのは、こんなに薄っぺらで、反知性的なものであるはずがない。<br />
１８世紀以降の政治史上の事件には「人間とはどこまで愚劣で邪悪になることができるのか」と絶望的な気分にさせられるものだけでなく、「人間はここまで英雄的になることができるのか」と感動させられるものもあった。そして、後者のほとんどはナショナリズムに駆動されたものである。<br />
そのことはマルクスも認めている。<br />
アメリカの独立戦争も、フランス革命も、多くの人々が祖国と同胞のために、おのれの命も財産も自由も捧げた苛烈な闘争の成果として得られた。これらの英雄的・非利己的な献身によって近代市民社会は基礎づけられたのである。<br />
そして、私利や自己実現と同じくらいの熱意を以て公益を配慮するような人間をマルクスは「類的存在」と呼んだ。<br />
そのような人間は革命闘争や独立戦争のさなかに「英雄的市民」というかたちにおいて一過的に存在することはあるが、安定的・恒常的に存在したことはない。<br />
いわば、ある種の幻想的な「消失点」として措定された概念である。<br />
だが、それなしではいかなる革命闘争も実現しない。<br />
そのことをマルクスは知っていた。<br />
近代日本のナショナリストたちのうちにも、遠く「類的存在」を望見した思想家がいたのではないか。<br />
勝海舟から坂本龍馬、中江兆民を経由して幸徳秋水に至る「反骨の系譜」というものが存在するのではないかという仮説に以前言及したことがある。<br />
坂本龍馬がクロポトキンを読んだら、たぶん深い共感を覚えただろうと思う。<br />
私にとって古典的な「左右」の思想区分は、本質的なものには見えない。<br />
本質的な壁は、私利の確保や全能感の獲得のために政治行動をする人間と「類的」な動機に駆動されて政治実践をする人間たちのあいだにある。<br />
私はそう考えている。<br />
そして、政治史が教えてくれるのは、18世紀以来、「類的」という政治的概念がナショナルな政治単位を超えて「受肉」した事例は存在しないということである。<br />
アメリカ独立戦争・フランス革命以後のすべての英雄的な「解放闘争」は「民族解放闘争」として行われた（残念ながら、成功した革命の闘士たちは必ずしも統治者としても類的であり続けたわけではないが）。<br />
そして、民族の枠を超えたスケールの「セミ・グローバルな政治闘争」として私たちはスターリン主義とアメリカ帝国主義というふたつの頽落形態しか知らない。<br />
近代の政治的経験から私たちが導き出すのは、「ナショナリズムと類的存在を架橋する」細い道以外に、政治的選択肢として可能性のあるものはなさそうだということである。<br />
そして、その場合、「誰を信じるべきか、誰についてゆくべきか」のぎりぎりの基準は、政策コンテンツの綱領的な整合性や「政治的正しさ」ではなく、その政治思想家の「生身」だということである。<br />
明治大正の政治思想家たちは、左右を問わず、身体を持っていた。<br />
vulnerable な身体を持っていた。<br />
「人間は壊れる」ということを熟知していた。<br />
その壊れやすい人間を基準にして、政治的プロジェクトの適否を思量していた。<br />
テロリズムというのは、思想の力は身体に担保されているので、身体を物理的に破壊してしまえば、思想も同時に力を失うという信憑なしには成立しない。<br />
「思想は属人的なものだ」という確信、生身の人間の担保ぬきの政治思想など無力であり無価値であるという確信がテロリズムを可能にしている。<br />
この確信には危険な半真理が含まれていることを私は認めざるを得ない。<br />
思想は身体に基づいて存在する。<br />
それゆえに、テロリズムの論理を反転させるならば、人間の生身としての脆弱性について深い理解をもつ人間しか、人間的な社会システムを作り出すことができないということである。<br />
アンチ・テロリズムの思想もまた、「思想は属人的なものだ」という公理に基づくことになる。<br />
私にはそれくらいしかまだわからない。<br />
いずれ機会があれば、中島岳志さんや片山杜秀さんの話をもっと聴いてみたい。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>私の紙面批評</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/02/26_1232.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1370</id>
   
   <published>2013-02-26T03:32:21Z</published>
   <updated>2013-02-26T03:47:48Z</updated>
   
   <summary>朝日新聞の「私の紙面批評」に体罰とスポーツについて書いた。 掲載時には紙面用にす...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>朝日新聞の「私の紙面批評」に体罰とスポーツについて書いた。<br />
掲載時には紙面用にすこし添削が要請されたので、これがオリジナル。</p>

<p><br />
大阪市立桜宮高校の体罰自殺事件に続いて、女子柔道園田監督の暴力に対する選手たちからの告発報道があり、紙面はこの話題が続いた。この件について2月19日付け本紙の片山杜秀氏のコメントが、私が読んだ範囲では、もっとも射程の長い考察だったと思う。<br />
片山氏によれば、体罰による身体能力操作の悪習は日露戦争に淵源を持つ。「持たざる国」日本は火砲に乏しく、「大和魂」に駆動された歩兵の絶望的な突撃と悲劇的な損耗によって薄氷の勝利を収めた。このとき火力の不足は精神力を以て補いうるのだと軍人たちは信じ、その結果、大正末期から一般学校にも軍事教練が課された。以来「しごき」によって戦闘能力は短期間のうちに向上させられるという信憑は広く日本社会に根づいた。今日の学校体育やスポーツ界に蔓延する暴力はその伝統を受け継いでいると見る片山氏の指摘は正鵠を射ていると私は思う。<br />
日露戦争より前、西南の役において、農民出身の鎮台兵を短期の訓練で前線に投じる「速成」プログラムの整備が陸軍の喫緊事であると説いたのは山縣有朋であった。「速成」が要請されるのはいつでも同じ理由からである。「ゆっくり育てている時間がない」というのだ。短期で精兵を仕上げるためには、青少年の心身の自然な成長を待つ暇がない。「負けてもいいのか」という血走った一言がすべてを合理化する。<br />
私はひそかにこれを「待ったなし主義」と名づけている。近代日本の組織的愚行の多くは「待ったなし」という一語を以て合理的な反論を遮り、押しつぶし、断行されてきた。今もそれは変わらない。<br />
スポーツにおける体罰を正当化する指導者たちもまた例外なく「待ったなし主義者」である。「次のインターハイまで」、「次の選考会まで」、「次の五輪まで」という時間的リミットから逆算する思考習慣をもつ人にとって、つねに時間は絶対的に足りない。だから、アスリートの心身に長期的には致命的なダメージを与えかねない危険な「速成プログラム」が合理化される。<br />
その一方で、「待ったなし」主義はアスリート自身にも不条理な指導を受け容れるための心理的根拠を提供する。というのは、「あそこまで我慢すれば、この苦しみも終わる」という「苦しみの期限」があらかじめ開示されているからである。<br />
私が大学入試の面接官をしていた頃、推薦入試の自己アピール欄に高校でのスポーツでの実績を掲げていた受験生に幾人も出会った。「大学でも続けますか？」という私の問いにほとんどの受験生は気まずそうな表情で応じた。「まさか」と苦笑するものもいた。そのときわかった。彼らにとって、競技での好成績は「苦しみの代価」として手に入れた高校時代の誇るべき達成だったのである。ようやくその「苦しみ」から解放されたのに、どうして大学に入ってまで・・・という高校生の素直な驚きのうちに私は現代の学校体育の歪みを見た思いがした。<br />
体罰と暴力によって身体能力は一時的に向上する。これは経験的にはたしかなことである。そうでなければ、暴力的な指導がここまではびこってくるはずはない。恫喝をかければ、人間は死ぬ気になる。けれども、それは一生かかってたいせつに使い延ばすべき身体資源を「先食い」することで得られたみかけの利得に過ぎない。<br />
「待ったなしだ」という脅し文句で、手をつけてはいけない資源を「先食い」する。気鬱なことだが、この風儀は今やスポーツ界だけでなく日本全体を覆っている。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>『なめらかな社会とその敵』を読む</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/02/13_0755.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1368</id>
   
   <published>2013-02-12T22:55:49Z</published>
   <updated>2013-04-02T04:09:04Z</updated>
   
   <summary>鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』を読み終わる。 発売当日から読み出したけれ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』を読み終わる。<br />
発売当日から読み出したけれど、いろいろ締め切りや講演やらイベントが立て込んで、ようやく読了。<br />
名著だと思う。<br />
タイトルを借用したカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』に手触りが似ている。<br />
数理的な思考による社会システム論であるが、「ロジカルに正しいことを言っていれば、いずれ真理は全体化するのだから、読みやすさなどというものは考慮しない」というタイプの科学的厳密主義とは無縁である。<br />
とにかく読んで、理解して、同意して、一緒に「なめらかな社会」を創り出さないか、という著者からの「懇請」がじわじわと伝わってくる。<br />
数式がぞろぞろと続くページも、著者は私の袖を握ってはなさない。<br />
「意味わかんないよ」<br />
と私が愚痴っても、<br />
「あとちょっとでまた数式のないページにたどり着くから、読むのやめないで！」<br />
とフレンドリーな笑顔を絶やさない。<br />
「苦労人なんだな」<br />
と思う。<br />
サルガッソーというのがどんな会社か知らないし、そこで働いていたはずの森田真生君から聞いた話でも、やっぱり何やってる会社かよく分からなかったけれど、「こういうこと」をしたいとビジネスマンたちに説き聞かせていたのだとしたら、そりゃたいへんご苦労されただろうと思う。<br />
「素人相手に自分のプランを説明して、納得させる」<br />
という修業を長くされてきたことが行間ににじんでいる。<br />
素人は専門的な話の中身は理解できない。<br />
でも、「今こうやって必死にしゃべっている青年は、私利私欲のためにそうしているのか、功名心とかルサンチマンに駆られてやっているのか、それとも本気で『住みやすい世の中』を世のため人のために創り出そうと思ってそうしているのか」なら非専門家でもわかる。<br />
この青年は本気だ。<br />
素晴らしいことだと思う。<br />
これだけの知力と馬力があれば、個人資産を増やすことも、世俗的な名声を勝ち得ることもむずかしいことではなかったはずだ。<br />
でも、鈴木さんはそういうことには力を用いなかった。<br />
その知恵と力を「この世界を、手堅い方法で、住みやすいものにする」という事業に注いだのである。<br />
偉いものである。<br />
「青年」という存在が地を払って久しいけれど、乱世になるとこうやってちゃんと出現してくるのである。</p>

<p>この本がどういうことを扱っているか、それを要約するのは私の手に余るし、実物を手にとった方が早いので、印象だけを申し上げる。<br />
上に書いたとおり、本書のタイトルはポパーをふまえているが、ふまえているのは題名だけではなく、アプローチも近い。<br />
ポパーの長大な書物に伏流しているのは<br />
「世界を一気に人間的なものにしようとする企ては、必ず非人間的な手段を迂回する」<br />
という人間の度しがたい愚かさに対するポパーの怒りと悲しみである。<br />
「できるところからこつこつと」<br />
「企ての成功を数え上げる暇があったら、企ての失敗したところを探し出して、そこを手直しする」<br />
というのが、ポパーの社会改革の方法であり、彼はこれを「piecemeal」と形容した。<br />
「ピースミール」というのは、「一個ずつ」とか「パーツごと」とか「漸進的」という意味である。<br />
「一気に」とか「根底から」とか「徹底的に」というやり方がどれほど多くの破壊をもたらすかポパーは骨身にしみていたからである。<br />
オーストリアのウィーン育ちのユダヤ人であったポパーは、ヒトラーによるオーストリア併合を逃れてニュージーランドに渡り、そこで大戦中にこの本を書いた。<br />
彼が置かれた歴史的状況が「多様なものとの共生、理解も共感も絶した他者への開放」を学的に基礎づけることを要求したのである。</p>

<p>鈴木健さん『なめらかな社会とその敵』もまた、その説くところは、あえて倫理的な言葉遣いをするなら、「多様なものの共生、他者への寛容」である。<br />
けれども彼はこれを数理的に厳密な手続きで基礎づけようとする。<br />
人の善意とか意志のようなものを根拠にすることはできない。<br />
善意や意志が根拠とするにはあまりに脆弱であるからではない。<br />
それがあまりに頑なだからである。<br />
そのようなリジッドなものによっては「なめらかな社会」は実現できない。<br />
ここに私は鈴木さんの洞察のきわだった深さを感じるのである。</p>

<p>人によってこの書物から読み出すものは違うだろう。<br />
もちろん違ってよいのである。<br />
私が最も深く共感したのは、「分人民主主義(divicracy)」について述べた章で、「首尾一貫した自己、統合された自己」なるものは近代の発明であり、もともと人間は複数の声が内部に輻輳する「分心」の状態にあるという指摘である。<br />
著者も引いているとおり、ジュリアン・ジェインズの「二分心」というのはそういうアイディアであった。<br />
『神々の沈黙』で、ジェインズは、古代ギリシャまで人類はいわゆる「意識」なるものを持っておらず、心は二つに分かれて、左脳は右脳から響く「神々の声」に従っていたという驚くべき説を唱えた。<br />
『イーリアス』や『オデュッセイア』において、神々は勇士たちにことあるごとに語りかけ、その行動を導き、決断を促したが、その「神々の声」は、実は当時のギリシャ人たちには「ほんとうに聴こえていた」、というのがジェインズの説である。<br />
古代ユダヤでも同じ。<br />
預言者や族長のもとに神はしばしば「声」として臨んだ。<br />
視覚像として神を表象することへの厳しい禁忌は「神は声として顕現するのであって、形象としてではない」という古代人の「実感」を映し出している。<br />
そう考えると、いろいろなことが腑に落ちる。<br />
時代が下って、ディズニーアニメでも、「財布を拾ったグーフィー」の頭の上で、「ネコババしちゃえよ」という「悪魔的グーフィー」と「持ち主を探して返しなさい」という「天使的グーフィー」が激しい争いを演じている。<br />
このマンガを見て、幼児でもその意味するところがわかるのは、それがおそらく人間の意識の古層にわだかまっているニ分心の「実感」だからである。<br />
ジェインズによれば、右脳の発する「神々の声」は人間のうちにあるさまざまな思念な感情のうち、より公共性の高い部分を代表していた。<br />
「公私」のうちの「公」である。<br />
忠誠心とか責任感とか使命感という言葉を使うときに、私たちがいまでも「心」とか「感」という名詞を接尾辞のようにつけるのは、それとは違う、ときにそれとは背馳する「心」や「感」もまた自分の中に存在することを知っているからである。<br />
私たちはそういう意味では全員が「程度の差があるだけの統合失調症患者」であると言ってよい。<br />
少なくともフロイトはそう考えていた。<br />
意識は分裂しているのが常態なのである。<br />
それを無理やり統合し、足元のおぼつかない「一貫した自己」なるものを立て、その擬制に基づいて社会制度を設計したせいで、さまざまな対立や暴力や収奪が起きた。<br />
それが「とげとげした社会」である。<br />
鈴木さんの言う「なめらかな社会」とは未決定のうちに絶えず引き裂かれてある人間のありようを「デフォルト」として、それに基づいて設計された社会のことである（多分、そういう理解でよろしいかと思う）。</p>

<p>鈴木さんはこう書いている。<br />
「自由意志をもった一貫した自己というイメージは、他者から責任を追求されることによって強化される。(…) <br />
頭の中をかけめぐる複数の異なる声、これこそが分人たちの声である。これらの声は矛盾し、会話し、ときに溶け合うこともある。ちょうど自分の腕を他人の腕だと信じて疑わない自己身体失認と同様に、自分の脳の中の声も他人の声として聞こえてしまうのが統合失調症によくある幻聴の症状である。それらは宇宙人の声や神の声として解釈されることさえある。<br />
自分の体で起きることを身体の所有感覚としてもてないことがあるのと同様に、自分のまわりで起きる社会的出来事を所有感覚としてもてるかどうかは自明ではない。ときに家族は家族として感じられなくなったり、国を国として感じられなくなる。家族愛や愛国心は自明ではない。だが、責任を要求することによって、自己は統合され、自らを合理化して制御し、それを通じて組織や国家に尽くすことができるようになる。こうして、社会的責任を通じて一貫した自己が生まれる。<br />
分人民主主義が否定するのはこうした自己の結晶化である。身体が生み出す矛盾した声を、矛盾したまま吐き出すことができれば、分人たちの新しい民主主義の可能性が顕在化する。」(鈴木健、『なめらかな社会とその敵』、勁草書房、2013年、174頁)</p>

<p>私自身は分人民主主義のかたちや機能のしかたについて、鈴木さんほどにクリアーカットなイメージをもつことができずにいる。<br />
けれども、私がエマニュエル・レヴィナス先生から学んだのは、「同一的な自己に居着かず、つねに引き裂かれてあることを常態とすることができるかどうか、それが人間的成熟の指標である」ということであった。<br />
多田宏先生から学んだのは、「対立的にではなく、同化的に身体を使うことによって居着きを去ることが武道の要諦である」ということであった。<br />
私もまた鈴木さんとは違うしかたで、「矛盾したものを矛盾したまま共生させるための原理論とその技法」についてひさしく考えてきた。<br />
そして、この本を読んで、自分とは違う声が、まるで自分自身の声のように間近から聴こえてきたことに驚愕したのである。</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>メディアの劣化について</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/02/01_1011.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1363</id>
   
   <published>2013-02-01T01:11:31Z</published>
   <updated>2013-02-01T01:47:03Z</updated>
   
   <summary>あるフランスの媒体から去年の２月に「３／１１以降の日本のメディアについて」の寄稿...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>あるフランスの媒体から去年の２月に「３／１１以降の日本のメディアについて」の寄稿を依頼された。<br />
送稿したまま忘れていたら、それをまた再掲したいというメールが来た。<br />
何を書いたか忘れていたので、掘り出して読み返したみた。<br />
なるほどね、そういう考え方もあるのかと思った（自分の書いたことをすぐに忘れてしまう男なのであります）。<br />
というわけでブログに再録。</p>

<p><br />
２０１１年３月１１日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを国民の前にあきらかにした。日本のシステムが決して世界一流のものではないことを人々は知らないわけではなかったが、まさかこれほどまでに劣悪なものだとは思っていなかった。そのことに国民は驚き、それから後、長く深い抑鬱状態のうちに落ち込んでいる。<br />
政府の危機管理体制がほとんど機能していなかったこと、原子力工学の専門家たちが「根拠なき楽観主義」に安住して、自然災害のもたらすリスクを過小評価していたことが災害の拡大をもたらした。それと同時に、私たちはメディアがそれに負託された機能を十分に果たしてこなかったし、いまも果たしていないことを知らされた。それが私たちの気鬱のあるいは最大の理由であるかも知れない。<br />
メディアは官邸や東電やいわゆる「原子力ムラ」の過失をきびしく咎め立てているが、メディア自身の瑕疵については何も語らない。だから、私たちは政治家や官僚やビジネスマンの機能不全についてはいくらでも語れるのに、メディアについて語ろうとすると言葉に詰まる。というのは、ある社会事象を語るための基礎的な語彙や、価値判断の枠組みそのものを提供するのがメディアだからである。メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準をメディア自身は提供しない。「メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準を提供することができない」という不能が現在のメディアの劣化の本質なのだと私は思う。<br />
メディアはいわば私たちの社会の「自己意識」であり、「私小説」である。<br />
そこで語られる言葉が深く、厚みがあり、手触りが複雑で、響きのよいものならば、また、できごとの意味や価値を考量するときの判断基準がひろびろとして風通しがよく、多様な解釈に開かれたものであるならば、私たちの知性は賦活され、感情は豊かになるだろう。だが、いまマスメディアから、ネットメディアに至るまで、メディアの繰り出す語彙は貧しく、提示される分析は単純で浅く、支配的な感情は「敵」に対する怒りと痙攣的な笑いと定型的な哀しみの三種類（あるいはその混淆態）に限定されている。<br />
メディアが社会そのものの「自己意識」や「私小説」であるなら、それが単純なものであってよいはずがない。「私は・・・な人間である。世界は・・・のように成り立ってる（以上、終わり）」というような単純で一意的な理解の上に生身の人間は生きられない。そのような単純なスキームを現実にあてはめた人は、死活的に重要な情報－想定外で、ラディカルな社会構造の変化についての情報－をシステマティックに見落とすことになるからだ。<br />
生き延びるためには複雑な生体でなければならない。変化に応じられるためには、生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで構造化されていなければならない。ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態である。私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。私たちはそのような複雑な構造物としてのおのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせ、共生をはかろうと努めている。そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人のことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。社会制度もその点では生物と変わらない。変化に応じられるためには複雑な構成を保っていなければならない。だから、メディアの成熟度にも私は人間と同じ基準をあてはめて考えている。その基準に照らすならば、日本のメディアの成熟度は低い。<br />
全国紙は「立派なこと」「政治的に正しいこと」「誰からも文句をつけられそうもないこと」だけを選択的に報道し、テレビと週刊誌はもっぱら「どうでもいいこと」「言わない方がいいこと」「人を怒らせ、不快にさせること」を選択的に報道している。メディアの仕事が「分業」されているのだ。それがメディアの劣化を招いているのだが、そのことにメディアの送り手たちは気づいていない。<br />
ジキル博士とハイド氏の没落の理由は、知性と獣性、欲望の抑制と解放をひとりの人間が引き受けるという困難な人間的課題を忌避して、知性と獣性に人格分裂することで内的葛藤を解決しようとしたことにある。彼が罰を受けるのは、両立しがたいものを両立させようという人間的義務を拒んだからである。<br />
その困難な義務を引き受けることによってしか人間は人間的になることはできない。面倒な仕事だが、その面倒な仕事を忌避したものは「人格解離」という病態に誘い込まれる。私たちの国のメディアで起きているのは、まさにそれである。メディアが人格解離しているのである。解離したそれぞれの人格は純化し、奇形化し、自然界ではありえないような異様な形状と不必要な機能を備得始めている。<br />
メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。<br />
「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。<br />
「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。<br />
この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちを（多少とでも）明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方について（多少とでも）倫理的な指示を示すことができる。<br />
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。ある媒体はひたすら「デタッチメント」的であり、ある媒体はひたすら「コミットメント的」である。同一媒体の中でもある記事や番組は「デタッチメント」的であり、別の記事や番組は「コミットメント」的である。<br />
「生の出来事」に対して、「デタッチメント」報道は過剰に非関与的にふるまうことで、「コミットメント」報道は過剰に関与的にふるまうことで、いずれも、出来事を適切に観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いでしまっている。<br />
私たちの国のメディアの病態は人格解離的である。それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。<br />
だから、いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。<br />
同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>陸軍というキャリアパスについて</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/01/30_1204.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1362</id>
   
   <published>2013-01-30T03:04:41Z</published>
   <updated>2013-01-30T08:39:29Z</updated>
   
   <summary>寺子屋ゼミでは１９３６年の二・二六事件と現在の「空気」の近さが話題になった。 統...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>寺子屋ゼミでは１９３６年の二・二六事件と現在の「空気」の近さが話題になった。<br />
統制派と皇道派の対立の賭け金は何だったのか？<br />
なにが蜂起した青年将校たちの「政治的正しさ」を主観的には根拠づけていたのか？<br />
資料的なことは私は知らないが、大筋はわかる。<br />
二･二六はテロリズムだから、皇道派の「求めたもの」が浪漫的に脚色されすぎて、見えにくくなっているものがある。<br />
このテロ事件にはもっとリアルなものが伏流していた。<br />
ポストである。<br />
その前年に相沢事件というものがあった。<br />
統制派の首魁、永田鉄山陸軍少将が皇道派の相沢三郎中佐に軍務局長室で斬殺された事件である。<br />
陸軍内部に二つの勢力があり、そのポスト争いは平時に軍人同士が殺し合うほど深刻なものだったというのは冷静に考えるとかなり異常なことである。<br />
ふつうの組織でも、派閥はあるし、ポスト争いもある。<br />
でも、人は殺さない。<br />
軍内部の人事異動（直接には真崎甚三郎教育総監の更迭）の「黒幕」だという風説を信じて相沢は永田を殺した。<br />
これを説明するためには、「教育総監」というポストが軍内部でどれほどの意味を持っていたのかを考えなければならない。<br />
統帥権というものがある。<br />
陸海軍への統帥権で大日本帝国憲法では天皇に属していた。<br />
戦略の決定、軍事作戦の立案、指揮命令、陸海軍の組織編制・人事職務の決定にかかわる権限である。<br />
形式的には天皇に属するけれども、まさか天皇が軍内部の人事異動まで起案できるはずがない。そういうものは軍で作って、「こんな案でいかがですか？」と上奏する。<br />
通常はそのまま裁可される。<br />
この権限を「帷幄上奏権」という。<br />
この権限を持つのが陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、陸海軍大臣、そして陸軍教育総監であった。<br />
帷幄上奏によって軍事にかかわるすべての勅令は下るわけであるが、政府や帝国議会はこれに介入することができなかった。<br />
軍縮条約への調印とか、軍事予算の審議まで、政府が行うことを「統帥権の侵犯」と言って、軍部がクレームをつけることがしばしば行われた。<br />
1930年のロンドン海軍軍縮条約は兵力編制にかかわる決定であるが、浜口雄幸総理大臣は海軍軍令部からの「統帥権干犯」という抗議を抑えて議決し、天皇の裁可を得た。これは当時国論を二分する論争となり、そのために浜口はテロに遭った。<br />
その後、西園寺公望の推挽で総理になった犬養毅も軍縮に手をつけようとして五・一五事件で殺害された。<br />
以後、政府や議会による統帥権干犯は絶対の禁忌となった。<br />
軍事費が毎年の国家予算の５０～７０％を占めるような国家において、帷幄上奏権をもつものはもはや総理大臣よりも大きな権力を行使できたのである。<br />
そのような強大な権力の座に、軍内部での「出世競争」を勝ち抜きさえすれば、手が届いたのである。<br />
これほど狭い集団内部での競争で国家権力の中枢までの「キャリアパス」が通ったことは歴史上希有のことである。<br />
この時期のとくに陸軍に関する記述を読んだ人は陸軍軍人たちの「略歴」に必ず「陸軍士官学校の成績順位」と「陸軍大学での成績順位」が記載されていることに気づいたはずである。<br />
日本の近代史に登場する無数の人々のうちで、「学校の成績順位」がその人の最も重要な属性の一つであり、その人の行動の意味を説明する重要な根拠となっているような人物は陸軍軍人の他にない。<br />
略歴に「陸大を首席で卒業」と書いてあれば、私たちは「なるほど」と思う。<br />
それは彼が順調に出世すれば、いずれ参謀総長か陸軍大臣か教育総監か、帷幄上奏権の保持者になることを高い確率で意味していたからである。<br />
「勉強がめっぽうできる」ということが「天皇の君側で総理大臣以上の権限をふるう」ことに直結するような職業は戦前の日本には陸軍しかなかった。<br />
私たちは「軍隊」という言葉から、つい「武略」とか「士魂」というような浪漫的な気質を想像するが、戦前の日本について言えば、陸軍こそは「勉強ができること」がそのまま国家中枢への道に直接つながる、「すばらしくコスト･パフォーマンスのよいキャリアパス」だったのである。<br />
そして、その「合理的なキャリアパス」の合理性を阻んでいるのが、陸軍の「長州閥」、海軍の「薩州閥」であった。<br />
統制派も皇道派も、いずれも藩閥によるポスト独占にははげしく批判的であった。<br />
皇道派の重鎮荒木貞夫は旧一橋家の出、真崎甚三郎は佐賀、相沢は仙台藩、前出の永田は信州諏訪、統制派の東条英機は岩手。どれも藩閥の恩恵に浴する立場にない。<br />
1921年に永田ら陸軍１６期の秀才たちがひそかに合意した「バーデンバーデン密約」は軍制の近代化をめざしたものだが、人事的には「陸軍における長州閥打倒」ということに尽くされた。<br />
その長州閥は1922年の山縣有朋の死で後ろ盾を失い、1929年、田中義一の死によって途絶えた。<br />
このときに、陸軍内部にはある種の「人事上のエアポケット」が生じた（のだと思う。専門家じゃないから資料的な根拠はないので、以下は私の暴走的思弁である）。<br />
その中で人事上のヘゲモニーをめぐって統制派と皇道派の対立が急速に過激化する。<br />
だから、両派はイデオロギー上の違いによって截然と分かたれたゲマインシャフトというよりはむしろ「パイの分配」をめぐってアドホックに形成されたゲゼルシャフトだったと考えることができる。<br />
現に、林銑十郎のように、皇道派と統制派の間に立って、どちらの派閥についたら「有利か」を考えていた軍人は少なくなかった。<br />
この推理にどれほど妥当性があるのか、わからない。<br />
でも、一般論として、「強大な権限にアクセスするための『ショートカット』が存在する」という場合に、人間はだいたいろくなことはしないというのは経験的に真である。<br />
強大な権限にアクセスする資格は、いくつもの「修羅場」を生き残り、その人格識見のたしかさについてたかい評価を得てきた人に限定する方が国は安全である。<br />
私たちがとりあえず覚えておくべきなのは、統帥権という擬制によって、軍内部での人事異動という「内輪のパワーゲーム」に勝ち残りさえすれば、一般国民がその人物についてほとんど知るところのない軍人たちが帷幄上奏権を保持して、国政を左右できるというシステムが1930年頃に成立して、わずかな15年でそのシステムが国を滅ぼしたという事実である。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>教育について思うこと</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/01/29_0925.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1361</id>
   
   <published>2013-01-29T00:25:52Z</published>
   <updated>2013-01-29T05:22:31Z</updated>
   
   <summary>先週末に日教組の教育研究全国集会で基調講演をした。 何度か依頼されていたのだが、...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>先週末に日教組の教育研究全国集会で基調講演をした。<br />
何度か依頼されていたのだが、在職中は入試のハイシーズンで都合がつかず、今回はじめて登壇することになった。<br />
日教組は現在組合員２７万人、組織率３０％を切るまで力を失ったが、依然として国内最大の教職員組合である（ほかに共産党系の全教、自民党系の全日教連がある。全教が組合員７万人、全日教連はさらに少ない）。<br />
私が子どもの頃、日教組の組織率は９０％近かったから、高校生の私でも宮之原貞光の名は知っていた。<br />
加藤良輔委員長に槇枝元文以降の委員長名を訊いてみたが、私は誰の名も知らなかった。<br />
槇枝が委員長を辞めたのが83年。バブルの始まる頃である。おそらく、その頃から日教組の社会的影響力は急激に低下することになったのだろう。<br />
私自身は1982年から90年まで日教組大学部の組合員だった。<br />
都立大学の組合は代々木系の人たちが仕切っていたので、私は同期の助手たちと「助手会」という自主的な組織をつくって、研究室横断的に情報交換ネットワークをつくってはいたが、組合費を納めていただけで、組合活動には何もコミットしなかった。<br />
神戸女学院大学では管理職になるまで１５年間組合員で、執行委員長を２期つとめた。<br />
神戸女学院大学は私の就任したころには、山口光朔先生のような反骨のエートスを持った方たちが学風を形成していたし、歴代の大学執行部の多くも組合経験者で占められていたから、労使間の不信や対立というようなことを私は経験しないですんだ。<br />
それが私のさしたる波乱のない「組合員」キャリアの全部である。</p>

<p>日教組については「日本の教育をダメにした諸悪の根源」というタイプの言説が行き交っている。<br />
その人たちがどういう根拠でそういうことを言っているのか、私にはよくわからない。<br />
前にテレビで「日教組の偏向教育のせいで、日本はダメになった」ということを三人の論客が口角泡を飛ばして述べ立てていた。<br />
私が不思議に思ったのは、そういう彼ら自身年齢的にはあきらかに「日教組の偏向教育」なるものを受けて育った人のはずだったからである。<br />
イデオロギー教育のバイアスが彼らの言うとおり強い力を持つものなら、彼らは今もそのイデオロギーの支配下になければならない。<br />
もし、彼らがその支配を無事に脱することに成功したのだとしたら、イデオロギー教育のバイアスは彼らが言うほど強いものではなかったことになる。<br />
ひとによって教育から受ける影響はさまざまであり、どんな影響を受けるかは最終的には人によって異なるということであれば、「教職員組合が諸悪の根源である」という説明はあまり説得力を持たないだろう。<br />
日教組の教育理念や方法が「間違っている」ということと、それが「強力な社会的影響力を有している」ということは別の次元の話である。<br />
この二つのことは個別に論証しなければならない。<br />
だが、日教組批判者は「間違っていること」の証明には熱心だが、「強力な社会的影響力の存否」についてはそれほど証明に熱心ではない。<br />
「諸悪の根源」が存在し、それがすべての悪を分泌している。だから、それを除去しさえすれば、社会は浄化されるという話形にすがりつきたい人の気持ちは私にもわからないではない。<br />
そういう説明で話が済むなら、社会問題を考察する上での知的負荷は劇的に軽減するからである。<br />
だから、複雑な知的操作が苦手な人は「諸悪の根源」仮説を好む。<br />
残念ながら、今日の学校教育が直面している危機は無数の行為の複合的効果である。<br />
そして、たぶんそのほとんどの行為は「善意」に基づいて行われている。<br />
日本の教育をダメにしてやろうと陰謀を画策している好都合な「張本人」はどこにもいない。<br />
文教族も、文科省の官僚も、教育委員会も、自治体の首長も、現場の教師も、保護者も、メディアも、教育学者も、もちろん子どもたちも・・・全員が「日本の教育を良くしたい」と思ってさまざまなことを行ってきた、その集積が今日のこのありさまなのである。<br />
私たちが目の前にしているのは「問題」ではなく、「答え」である。<br />
私たちの誰かの悪意や怠惰の結果ではなく、私たち全員の勤勉なる努力の結果なのである。<br />
戦後６８年間、私たちは教育現場に有形無形さまざまな干渉を行い、その算術的総和として、教育の現状を現出させたのである。<br />
単一の「有責者」を名指して、それを排除すれば話が終わると言うような知性の怠惰が許される場面ではない。<br />
その簡単な話がなかなか通じない。<br />
国家や自治体が管理し、教育行政が箸の上げ下ろしまで指示し、政治家がそれぞれの教育理念をかざして介入し、メディアが口やかましくコメントし、保護者や地域社会がそれぞれ注文をつけてきた結果、教育の現場は「こんなふう」になった。<br />
今の教育はあまりに多くの人々の要求を受け容れたせいで、「誰の要求も満たしていないもの」になったのである。<br />
教育に関係している人間の誰一人として教育の現状を「私の要求が実現した結果だ」と思っていない。<br />
だから全員が教育の現状に対して腹を立てている。<br />
でも、これは「みなさんの要求」が無文脈的・断片的に実現した結果なのである。<br />
現状がご不満であることはよくわかる。<br />
でも、だからといって、また「みなさん」がそれぞれの立場からこれまでの要求をさらにエスカレートさせても、それは混乱をより深める結果をしかもたらさない。<br />
最終的には、全員が「オレ以外の全員を黙らせろ」ということになる。<br />
「オレ以外のものの教育への干渉が教育を悪くしているのである。みんなひっこんで、オレひとりで仕切れば、教育はよくなる」とみなさんおっしゃっている。<br />
なるほど。論理的には筋が通っている。<br />
でも、それはできない相談である。<br />
考えればわかる。<br />
安倍さんは日本の教育にたいそうご不満のようだが、そうはいっても、今ある学校を全部廃校にして、教員を全部解雇して、まったく新しい学校システムを作り出すことはできない。<br />
その理想の教育が実現するまでの数年間、日本の子どもたちは事実上の「無学校状態」に放置されることになるからである。<br />
財界はうるさく「グローバル人材育成」というようなことを要求しているが、自分で教育コストを負担する気はない。<br />
企業の収益を高める人材を求めることには熱心だが、身銭を切って、自力で日本の子どもを教育する気はない。そんな無駄なことをするくらいなら社内公用語を英語にして、東アジアから頭のいい若者を雇用する方がはるかに安上がりだし、効率的だからだ。<br />
マスメディアも「教育はこれでいいのか」というようなことを毎日のように書いているが、それほどご不満なら、「朝日新聞大学」でも「フジテレビ高校」でも作って「これが教育の理想の姿だ」と世間にお示しすればよいと私は思う。<br />
たいして金のかかることではないのだし。<br />
でも、どなたもやらない。<br />
たぶん、「朝日新聞大学」で科研費の流用があったり、「フジテレビ高校」でいじめや体罰があったりしたら、もう新聞もテレビも、教育についてはひとことも偉そうなことがいえなくなるからであろう。<br />
どなたもそうなのである。<br />
教育について文句は言うが、「私の作った学校」ではこんなふうにして成功したという話はしない。<br />
成功しなかったら、黙るしかないからである。<br />
教育についての発言権を確保するためにはできるだけ教育実践は自分では行わない方がよいということをみなさんご存じなのである。<br />
できることなら、石原慎太郎閣下にはぜひ「体罰塾」を作って、物理的暴力と心理的恫喝がいかにすばらしい若者を育ててみせるか、それを世に問うて欲しいと私は思っている。<br />
安倍晋三総理には「愛国塾」を作って、彼の愛国心教育を思う存分実施されて、どれほどすばらしい愛国的若者が育つかを満天下に明らかにすればよろしいかと思っている。<br />
グローバル企業の経営者たちには、彼らの新人研修がどれくらいすばらしい若者を生み出しているか、離職者や鬱病罹患者や自殺者についてのデータも添えて全面公開して頂きたいと思っている。<br />
「オレ以外のやつを黙らせろ」という言い分は申し訳ないがどこでももう通らない。<br />
誰も黙らないからである。<br />
そうである以上、「誰からも干渉されず、１００％自分のやりたいようにできる教育機関」を自分で身銭を切って作り、その教育成果を世に問う以外に、自分の教育理論と実践の有効性を証明する方法はない。<br />
私はそう思う。<br />
実際に私と同じように思っている人がたくさんいる。<br />
そうでなければ、「なんとか塾」という名前の教育機関が「雨後の竹の子のごとく」全国津々浦々に生まれているはずがない。<br />
もう口説はいい、と。<br />
実際に自分で教育をやってみて、自分の仮説を検証するしか方法がない、と。<br />
そう思っている人が増えている。<br />
私はこれは現状に対する健全なリアクションだと思う。<br />
「船頭多くして舟山に登っている」なら、「船頭ひとりで」漕いでみせるしか、海に出る手立てはない。<br />
合理的な推論である。<br />
本務がお忙しくて「そんなことをしている暇はない」という方たちにはそこまで面倒なことは要求しない。<br />
その代わり、そういう方たちは教育について発言する際には「机上の空論だが」という断り書きをまずしてからご意見を述べて頂きたいと思う。<br />
いかがだろう。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>
<entry>
   <title>江弘毅さんの新刊書評</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.tatsuru.com/2013/01/28_1348.php" />
   <id>tag:blog.tatsuru.com,2013://1.1360</id>
   
   <published>2013-01-28T04:48:27Z</published>
   <updated>2013-02-13T00:42:04Z</updated>
   
   <summary>江さんの新刊『飲み食い世界一の大阪』（ミシマ社）の書評を週刊現代に寄稿した。 こ...</summary>
   <author>
      <name></name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
      <![CDATA[<p>江さんの新刊『飲み食い世界一の大阪』（ミシマ社）の書評を週刊現代に寄稿した。<br />
こんなの。</p>

<p>前に大学の授業で、ふと思いついて、小説の任意の一節から「視覚情報」に依拠して書かれている箇所だけ抜くと、文章はどう変わるかを実験したことがある。<br />
ほとんどの小説は文章の態をなさないものに変じた。だが、中に一つだけ「目に見えるもの」についての描写を削り落としても、骨格が揺るがない小説があった。その文章は音と匂いと味と肌触りについての記述だけで満たされていたのである。<br />
村上龍の『限りなく透明に近いブルー』である。<br />
江さんのこの本から「視覚情報」を抜いても、たぶん文章の魅力はほとんど減じることがないだろう。文章をぐいぐいと前に進めているのは、江さんのがっちりとした筋肉と太い骨と消化力旺盛な内臓である。<br />
例えば元町の餃子店の話。<br />
「席に着くや二人前あるいは三人前とビールを注文して、早速『でへへ』とばかりに『マイたれ』を調合しだすのだが、箸でかき混ぜて味を見て、『お、もうちょっと味噌やなあ』とか『今日は酢多めの方がうまい』とか、餃子が焼き上がってくる前に、すでに箸を舐めながらビールを飲んでいる」（１４３頁）<br />
こういう文章を書ける人は今の日本には江さんしかいない。<br />
「後味」という言葉はあるが「前味」という言葉はない。でも、ここで「箸を舐めながらビールを飲んでいる」江さんは、あきらかにこのあと出てくる、カリッと焼き上がり、じわっと脂のしみ出した餃子の「前味」を想像的に先食いしている。食べ始める前に「これから食べるもの」への期待で身体が前のめりになっている状態（かつて椎名誠が「胃袋がカツ丼のかたちに凹んでいる」と称した状態）こそ私たちが経験できる美味の極致だと私は思っている。<br />
グルメの美味自慢が面白くないのは、それが所詮「食べたあとの感想」だからである。<br />
ほんとうの美味は「食べる前」に、これから匂いを嗅ぎ、舌に載せ、歯茎を押しつけ、奥歯で噛み砕き、喉を嚥下する「もの」への期待で身体が小刻みに震えているときに経験される。<br />
幾千もの夜と昼を街場の風にさらして歩き続けてきた「生身」だけが「これから食べるもの」をその細部に至るまで先駆的に想像して、美味の極致を経験できるのだということを江さんに教えてもらった。<br />
</p>]]>
      
   </content>
</entry>

</feed>
