うちの平尾さん(と勝手に身内扱い)が毎日新聞に「平尾剛の身体観測」というコラムを連載している。
二週間前に始まった。
恥ずかしながら第一回は気がつかなかった。
というのは、「ヒラオさんの連載が始まりましたね」と教えられてその日の朝刊をばっと拡げたら、「平尾誠二」さんのドアップのラグビー記事が目に入ったからである。
なんだ「ヒラオ違い」じゃないか。粗忽なやつもいるもんだと、夕刊で連載が始まったことに気づかなかったのである。
粗忽なのは私の方である。
第二回は今夜の夕刊。
老祥記の豚饅を食べながらビールを飲んで新聞をめくっていたら、平尾さんの写真と目があった。
あら、平尾さん、こんなところで何を・・・と思ったら、連載第二回目であった。
今回はスクラムの話であるが、現場の人ならではのリアルで体感のゆたかな文章である。
その中で平尾さんはスクラムとタックルの違いについてこう書いている。
「例えば、タックルはボールを奪うためのプレーである以上、どうしても激しく攻撃的となる。しかし、そういった敵対心むき出しのコンタクトに終始するのではなく、スクラムのように、互いが協力し合って、最大限の力を発揮するために身体を接触させるプレーがラグビーには存在する。/傷つけるためではなく、高めるための身体接触という観点からすると、『ぶつけ合う』というよりは、『預け合う』という表現がしっくりとくる。見た目にの荒々しいイメージとは対照的に、スクラムには味方同士のこまやかな配慮が必要とされるのである。」
そうか、ラグビーでも、やっぱりそうなんだと深く納得する。
合気道では「敵を作るな」と教えられる。
敵であるかぎり、それがどれほど非力なものであっても、敵は私の可動域を制限し、私の運動の種類の選択可能性を限定する「マイナス」として機能する。
敵がいる限り、私の運動能力はつねに「一人でいるとき以下」に切り下げられる。
しかし、「一人でいるとき」が運動能力が最大で、少しでも別のファクターが介在するとその分だけ運動能力が下がるということであれば、運動の理想は「絶対的孤立」であるということになる。
誰もいないときがいちばん「自分らしく」、出会う人がふえるごとに「自分らしくなくなる」というのなら、それはたぶん「自分」というものの設定の仕方が間違っているのである。
他者と出会ったときに、その接点に生成する複素的な構造体を「私」と考えることはできないのか。
私はできると思う。
一昨日、「剣の通り道を邪魔しない」ということと、「構造的安定によって剣を止める」ということを書いた。
これは原理的には同じことである。
食物を咀嚼するときには、「舌は歯の通り道を邪魔しない」ということが求められる(歯の通り道に舌が残っていると、「がりり」と噛み切られてしまうからだ)。
剣の通り道を避けようと意識するということは、「私」は舌で、「剣」が歯であるような二項対立関係をつねに意識してご飯を食べるようなものである。
私たちはそんなことをしない。
噛まれれば舌なんか軽く噛み切れてしまうほど鋭利な刃物を口腔中を行き来させながら、私たちは気楽にご飯を食べている。
それは「舌」と「歯」をともに含む「口腔」という複素的構造体を動作の主体に擬しているからできることである。
身と剣の関係もそれと変わらない。
身が剣に切られないためには、身の立場に立って異物としての剣をよけようとするのではなく、身と剣をともにふくむ「人剣複合体」を動作の主体である「私」として動けばよろしいのである。
理屈としてはそういうことである。
剣を止めるのも同じである。
「剣を止める」というふうに言うと、「止める私」と「止められる剣」に身体が二極化してしまう。
これは「剣を止める」という他動詞態ではなく、「剣が止まる」という自動詞態で身体を使わないといけない。
人剣複合体において「剣が急激に停止することによって最良の安定が生じる」かたちがある。
そのかたちを到成するならば、局所的な筋肉を緊張させることなく、剣はぴたりと止まるはずである。
理屈ではそうである。
私にそれができるということではない。
できなくても、こうすればよいという方向性はわかる。
平尾さんのスクラムの文章を読んで、そのことを思い出した。
スクラムはそこに参加する人の数が増えるほど複雑な運動体になる。
その運動体を効果的に制御できるものがいるとしたら、それは、スクラムを「ファクターが多すぎて、たいへん操縦の仕方が複雑になっているが、ある種の構造法則と運動法則に従って運動する複素的構造体」とみなすことのできる人であろう。
そのための最初の段階として、まず味方の8人の身体を一種の「多細胞生物」のようなものに練り上げてゆくことが必要である、ということを平尾さんは書こうとしているのではないだろうか。
だとしたら、平尾さんが甲野先生に就いて学ぼうとしていることや合気道の稽古で会得しようとしていることは、ラグビーに深く通じるような気がする。
投稿者 uchida : 2006年05月23日 20:55
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トラックバック時刻: 2006年05月31日 21:31
サッカーでの切り返す時の一瞬のすばやい動き、などについてもいえるのかなと思いました。
体を使いこなす能力「コーディネーション」なんていうらしいですが、動きの素早い選手というのは体がホントの意味で”一体”となっているのでしょうね。
ウチダ先生はホントにいつも面白い事を考えていらっしゃいますね。頭の色んな部分が刺激されます。
この敵を作らずという話を書いていらっしゃる度、私は前職において心の通い合わなかった部下の事を考えてしまいます。良く上司は選べないといいますが、部下もまた選べないという点では同じですね。それまで学ぶ気のない(学ぶ必要のある事は学び終えたという心持ち)上司は沢山見て来ましたが、学ぶ気のない部下というのは、初めての経験でした。で、上司・部下の関係になってから3ヶ月後の私の判断は、使途無し+次回の査定で首切り(首切りのは上司の無能さの裏返しと常々思って来たにも関わらず)です。しかし、この「敵を作らず」の考え方で行くと、「使途無し」の判断に至った私の可動域が狭かったのだなぁと思います。アメーバでいる事、肝に銘じたいです。
投稿者 ニシタニ ノリコ
: 2006年05月26日 12:37
直感力の乏しい私には「案を叩く」とはいかない、難しい講義でした。「剣を止め」ようとする私が、「剣が止まる」ように身体をコントロールし、その結果安定した停止状態が実現される、ということでしょうか?おっしゃっている事は違いますよね?この考え方だと、ピタリと剣が止まるような身体-剣複合体の状態(解?)の存在は否定しませんが、その結果、身体が局部的に緊張しない、という充分条件は満たしていないような...。そこはそれ、本当にピタリと止めるわけではない、大リーグボール1号を鉄球特訓で打ち返した花形満のようにはならない、自己防衛本能が働いて、いきなり肘が逆に曲がるというようなことはないよ、ということとも違いますよね?もちろん、造物主から人が授かった僥倖によって云々...でもないと思います。...難しい。
スクラム論も然り。例えばおしくらまんじゅう。背中を中心に向けておしくらまんじゅうをしていて、前方に踏み出す人がいるでしょうか?スクラムはもちろん、もっと複雑な運動とは思いますが、あらぬ方向へ力をくわえれば、密集隊形が崩れる事は必定。味方の中心方向とタッチダウン方向、この2つの合成ベクトル(もちろん時々刻々と変化するでしょうが)の方向に圧すのでは?味方方向に圧す力が要るため、体を預けるという印象を生む(これは簡単な表現?なので学習しやすく、スクラムのコツの表現として刷り込まれる)、というのはあまりに単純すぎますよね?しかし、その先が想像できない...。難しい。
↑
多分、そんなに難しくないと思いますよ。
「言語化するのは難しい」のかもしれませんが、ご飯を食べるように構造化された事象として捉えることは可能かと。
えー、要は「合気道やってみれ」というのが理解への一番の早道かも。経験が認識を作りますのでね。
投稿者 nomad
: 2006年05月28日 14:01
nomadさん、コメントありがとうございました。また、返事が遅れ、済みませんでした。自家用車が壊れたり、親戚の不幸があったりと気忙しかったもので.....
私は、哲学者は世界を説明(言語化?)する人々であると思っていて、内田先生は哲学者であらせられるので、私の様な者にも理解できる説明がもしかしたら頂けるのかなと、期待したのでした。
ちょっと気になったのは「構造化」という表現が何を意味するのかが今ひとつ(私には)判然としない事と、断言はできませんが、「経験が認識を作る場合もあるが、得られた認識を過信してはいけない、経験は認識の検証の妨げに成り得る」のではないか、と云う事です。
話は違いますが、nomadさんのH.N.には親しみを覚えます。N♂MADが出所ではないですよね?
↑
えへへ、ども。
僕自身は、語れぬものについては語らぬが吉、と思います。その語れぬものについて語ろうと努力するのが哲学かもしれませんが、僕のような凡人は語らぬようにするのが世知でしょう。
経験は認識の検証の妨げに成り得るかもしれません。確かに。しかし、口の中の舌の動きを言語化することが果たして可能でしょうか。舌の動きの意味について言語化する…すなわち構造化、という言葉に言い換えることは可能かもしれません。しかし舌の動きそのものを言語化することは無理ではないでしょうか。
百足に、どの脚から歩き始めるのかと問うたところ、百足は迷って歩くことができなくなった、という童話もありました。
「構造化」という言い換えた言葉を検証し、疑い、さらに精緻にすることは可能ですけれども、舌の動きそのものを疑うことはできないのではないでしょうかね。
「構造化」という言葉の意味をいくら追求しても舌の動きそのものを追求したことにはならないのですから、「合気道やってみれ」としてしまうのも解決の方法ではないかと思います。こうした武道の中には、物理的な表現ではどうにも理解できない秘訣があることが実感できますので「難しい」と思わずに「そういう場面もありうる」と納得できます。言語化という意味では何一つ解決してませんが(笑)
えー、ハンドルについてはお察しの通りです。
雪風さんはフェアリィ空軍ですか?それとも海軍?
投稿者 nomad
: 2006年06月06日 01:54
nomad さん、今晩は。
虎仲間である事が判り、うれしい限りです。
また、これは不幸な事ではありませんが、認識に相違がある事も判りました。
私は言語化=構造化とは思っておりません。
酒を飲んで気持ちの良い酔いを「実感」する事と、「アルコールが脳障壁を突破して、脳神経に...」という説明を受ける事(情報収集...自ら解明するレベルには残念ながら到達していないので)のいずれにも興味があります。
また、演舞で実際に剣は止まるのでしょうが、実際にムカデに問うた人がいたとは思いません。更に、人間はムカデよりも遥かに高度な知性を持っていると確信しております。
舌が歯をかわす動作は構造ではなく、作用ですね。食事の際の舌の動きの意味(目的)は効率のよい咀嚼の補助ですよね。このとき、歯をかわさぬ事には痛くて堪らないでしょう。
舌の動作を規定する指令はもしかしたら構造を持っているかもしれません。あるいはインターラプト可能な逐次実行的手順であるかも知れません。この指令を追求する事は舌の動きを追求する一つの手段だと思います。
近い将来にこの指令について、言語化(ここで言語は数式、ダイヤグラム等を含む)された知見を得るかも知れません。(既に得ていたらごめんなさい。)
剣が止まることについて知るのに、鈍い私が十数年以上合気道の修行を積むより合理的な手段があってもよさそうなものです。
内田先生の助言は、精緻なものと云う印象はありませんでしたが、複数の人の剣の扱いが上達した、との記述があった事から、メタ言語とでもいうものなのでは?とすると...
おっと、なんだか独りよがりに流れそうなのでこの辺にしておきます。
これはもちろんコメントを強要する、あるいは拒絶する文ではありません。
お返事ありがとうございました。
なんだか危険な縁に近づいてるようです。おそるおそる。
僕の書き方が不正確でした。言語化=構造化ではありません。ある運動(他者に出会った接点での私、剣を振る者とその剣、舌の動き、演武をする二人、スクラムをする集団…)は<ひとつの>複素的構造体とみなせるのでは、という内田先生の言葉があるわけです。
複素的構造体を語ろうとすると、「言語的理解」のためにはひとつひとつの要素に分解して語らざるを得ないだろうと思うのです。スクラムという構造体を語ろうとして、一人一人の位置や体勢、力の入れ具合とその方向に分解して語る。しかしそれはスクラムを語っているのではなく、個々の人を語ることになる。
それは一見理解の助けになるようでいて、スクラムからは離れていきます。
逆に、剣の扱いについて一定の肉体的経験を共有している人たちに対しては「剣の通り道を邪魔しない」という言葉こそが理解の助けになるわけです。剣を持ったことの無い者にはとうてい理解できない言葉ですがね。
その「剣の通り道を邪魔しない」という言葉を理解しようとするには言葉を重ねるのではなく、肉体的経験を共有するしか無い…少なくとも近道、であろうと思うのですよ。
投稿者 nomad
: 2006年06月06日 23:52
nomadさん、こんばんは。
何かご心配を御掛けしてしまったようで済みません。
nomadさんがおっしゃる危険な縁、というのはどちらかが感情的になり、罵り合う等の事を指しておられるのですよね?
このような書き込みに不馴れな事と、自分の考えを誤解無く伝えた方が良いのではないかと云う考えで、不適切な表現があったのかも知れません。
nomadさんが「語れぬものは語らぬが吉」という立場を表明されておられたので「コメントを強要するものでも拒絶するものでも云々」という一文を挟みました。(やや挑発的かな、という意識はありましたが...)気が向いたらコメントしてね、程度の意味です。
というわけで、私のスタイルは取りようによっては(?)挑発的になってしまうため、nomadさんからのお誘いが無い限り、この議論はここで打ち切りたいと思います。ずるいやり方だ、という気もしますが、深読みせずに字面の通りとお考えください。
> 感情的
いえいえいえ。紳士的なお話ですのでお気をつかわず。
同じSFの沼の瘴気を浴びた仲じゃありませんか。(なおさらわるかったりしてww)
僕が「危険な縁」と言ったのは僕の身の丈を越えた領域に踏み込みそうだ、ということに過ぎません。
この先、「構造化されたものに対する言葉」について語ろうとすれば志向性とかアフォーダンスとかクオリアとか、認識は言語なのー?とかミラーニューロンは他者と自己との区別をするなら魚にだってデンデンムシにだってミラーニューロンはありそうだぞーとか他者との比較によって自己を認識するなら自己と他者の接触面に構造化された「意識」が芽生えるんじゃないのー?とかじゃあ比較ってことは自分を把握してるんだから論点先取りなんじゃないのー?とか
そういう妄想にはいりそげな感じがするのです。
そういう話は知ってはいますが、僕はそれを確かめる術はないし、思考実験をするほどのアイデアを持ってないのです。
なので「発話言語を使って考えるよりも肉体経験(≒言語?)を使って理解した方がいいんじゃね?」というこことになっちゃうんですよね。
投稿者 nomad
: 2006年06月08日 16:53
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