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2005年05月01日

美山再訪

毎年連休の一日は京都の美山町の「哲学する樵」小林直人さんとご令室の「おはぎ」のところを訪れるようになってかれこれ15年になる。
最初に美山町に行ったのは、るんちゃんが1歳のときだから83年の夏。
それからしばらく間があって、私たちが芦屋に引っ越してきてからは(父が危篤だった1年を除いて)毎年、山菜天ぷらを食べに新緑の美しい京都のこの深山を訪れている。
ウチダは「一度始めたことは止めない」という生活則を牢固として死守している。
反復を通じてしか味わえない「雅趣」というものがある。
それは「変化」である。
自然科学の追試と同じく、「それ以外のすべての条件を等しく」設定した場合にのみ「変化」は有意なものとして検知される。
私が22年前にはじめて美山町鶴ヶ岡の手前のコーナーを走り抜けて小さな滝に目をとめたとき、私が運転していたのは赤いホンダ・シティであり、横には妻がおり、後部シートでは1歳のるんちゃんがすやすや眠っていた。
しばらくして、私はレイバンのサングラスをかけて、小学生の陽気なるんちゃんを横にのせて、ビーチボーイズをふたりで歌いながら、黒いローバー・ミニで同じコーナーを駆け抜けた。
それから数年して、私は高校生の少し不機嫌なるんちゃんを横にのせて、おし黙ったままキャロル・キングを聴きながら、銀色のスバル・インプレッサで同じコーナーを走り抜けた。
今年、私はひとりでロッド・スチュアートの歌うThat old feeling に唱和しながら初夏のまぶしい光に目をしばたたかせてBMWで同じコーナーを走り抜けた。
「走馬燈のように」という修辞はもう死語だけれど、ほんとうにその瞬間に「走馬燈のように」過去の22年間が脳裏をよぎる。
あと何年かすると、私の車がそのコーナーを「もう」走り抜けない年が来る。
時間が可視的なものとなる瞬間。
そういう特権的な瞬間が私は好きだ。
そして、そういう特権的な瞬間を味わうためには、決して変らない美しい風景と何年経っても変ることのない歓待の笑顔への期待がぜひとも必要なのである。

投稿者 uchida : 2005年05月01日 20:46

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 月も変わったことですし、今度こそ日記をつけ始めるのです。    別にいいんですよね、ブログなんて。気負わなくても。 個人的なことをサクサク書いていけば。読みた... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2005年05月02日 00:08

コメント

ゴールデンウイークに芦屋から美山町へドライブ・・・・空気感が手にとれるようで、ホームシックになってしまいました。というのも、私は芦屋で生まれて育って、大学以降15年京都で暮らし、現在は、ベトナムのハノイ市在住だからです。自分の生まれ育った街というのは、有無を言わせぬ郷愁があるものだなあと、今日のブログを拝読しながら考えました。これからも、季節の芦屋便りを楽しみに読ませていただきます。

投稿者 vanilla [TypeKey Profile Page] : 2005年05月02日 18:04

訪れたことのない場所なのに、今日の文をお読みして、新緑と「時間」が目に染みるような気持になりました。とても美しい文章だと思いました。変わることのない美しい自然が、「不在」と「変化」を痛切に感じ取らせる、このような経験は、親や友人を先に送り、等する一定の年代になれば、誰にでもあることのように思います。

投稿者 よこよこ [TypeKey Profile Page] : 2005年05月02日 20:46

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