1月13日
D館に立ち寄ったら、教務課長から、新年度のオフィスの備品について訊かれた。
あ、そうか。
四月から私は事務棟の中のオフィスに「出勤」する身になるのである。
瞬間的に四月をもって「サラリーマン」となることに決意する。
考えてみると、研究、教育活動「に加えて」、学内行政のもろもろの業務を「雑務」として負担させられる…という発想をするから「過労死寸前の教育研究者」というセルフイメージが浮かんで、それがつらいのであって、発想を転換すればよろしいのである。
自分のことを余暇に「研究、教育」をする「行政」職の人間と考えればいいんじゃないか。
そう考えると、学内管理職というのは「めちゃ暇なサラリーマン」である。
だって、適当な重役出勤だし、会議が多いといったって、せいぜい一日二回だし、書類を読んだり、はんこを押したりというような仕事だって、一日1時間もあれば終わってしまう。
それだけすればお給料がもらえて、あとの時間は「好きなこと」(学生を相手にヨタ話をしたり、オフィスのパソコンを使って有料原稿をこりこり書いたりして副業にいそしんだりすること)をしてよいのである。
なんてお気楽なサラリーマンなのであろう。
世のサラリーマン諸氏が聞けば、怒りの余り憤死されるであろうほどなお気楽稼業なのである。
実際にやっていることは「過労死寸前の大学教員」と「死ぬほど暇なサラリーマン」はまったく同じである。
それを「本務」である研究教育以外に一日数時間の「雑務」が過分に課される立場と考えるか、一日数時間「本務」をしたらあとは好きなだけ「趣味」の研究教育をして「遊んでもいい」身の上と考えるか、マインドセットを切り替えるだけで、「不幸な大学教員」は「幸福なサラリーマン」に転換する。
そう考えたら急に気楽になった。
「じゃあ、ノートパソコン買ってね」と教務課長にお願いする。
あと、液晶テレビとオーディオと冷蔵庫と昼寝用ソファーとコーヒーメーカーと観葉植物と青磁の壺とバカラのグラスとジノリのカップとかもね。
秘書もつけてくんないかな。
運転手も、できたら。
「火中の栗」を拾ったら、三砂先生から「やけど見舞い」メールが来た。
フェミニストからの三砂バッシングはなんだか壮絶な様相を呈してきたらしい。
私のように「アンチ・フェミニスト」を公称していて、どう考えてもフェミニズムにとって不愉快きわまりない人物をフェミニストは放置しているのに、三砂先生のような、女性の社会的地位の向上と女性性の意義の再評価を身を以て実践している人にむかって、フェミニストたちからほとんど感情的な攻撃がなされている。
ある研究会に「騙されて」招かれた三砂先生はそこで数名のフェミニストたちから十字砲火的な罵倒にさらされたそうである。
その顛末を語ったことばの中で、私が印象深かったのは、次の一節である。
「30代の若いフェミニストの教条的なやり方(5,6人はいたかな、みんな同じことをい
うので個体識別できない)に疲れました。
『フェミニズムの本にこう書いてあるから、オニババ本のここはおかしい』という反
論ばかりで、彼女たちの声が聞こえないのです。」
どのような政治的主張のものであっても(それが「正しい」政治的主張のものであっても)、私は「教条主義」を好まない。
それは三砂先生が言うとおり教条主義者が「個体識別」できないからである。
私は「個性」「唯一性」というものをたいへんに重んじる人間である。
それは別に理念的な理由からではなく、生物というのは適切な個体差を維持していないと、生存戦略上不利であると、私のDNAが告げるからである。
私がフェミニストに対して一貫して忠告しているのは、「構築主義的奪還論=能力主義的な社会の再編」のスキームでやっていると、最終的にすべての質的な個体差が消失し、ただ「均質なものの間の量的格差」だけが残ることになり、それは私たちのシステムにとって致命的に不利な選択であるということ、ほとんどそれ「だけ」である。
そのことを私は別に父権制や男権主義の立場から申し上げているのではなく、「一個体」として、「人類の延命」を求める立場から申し上げているのである。
しかし、私のこのような主張に対して、フェミニストからなされた唯一のリアクションは「あなたはバカなセクシストなのだから、フェミニストの本をもっと読んで勉強しなさい」というものである。
私が知る限りのフェミニストは「異口同音」にそう私に告げて、悲しげな目をして立ち去って行った(だから、個体識別できない)。
どうして彼女たちとうまく対話の回路がつながらないのか。
それは私の理想とする社会が、「すべての個体がそれぞれ適切に差異化されてエコロジカル・ニッチがばらけた社会」であるのに対して、彼女たちの理想が「全員が同じ目標にむかって邁進し、全員が同じ顔をして、全員が同じことばを唱和する無差異社会」の到来だからかもしれない。
投稿者 uchida : 2005年01月14日 10:33
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トラックバック時刻: 2005年07月27日 07:11
こんにちは。お邪魔いたします。
いつも楽しく拝見させていただいております。
三砂先生が批判されるようになっているというのは、
先生の主張が理解されている証拠でもあるように
思えますね。オスカーワイルドも「人が私に同意すると
いつも私は自分が間違っているように思える」なんて
発言をされてますし。
フェミニストは階級闘争的な視点でものを考えている
ようですので、自分たちが属する階級が優遇されるように
なる言説以外を廃する方針に立っているだけのような
気もいたします。生意気なことを申しますが。
これは自分たちが属する階級が差異化され、結果として
優遇されるようになる言説を性差として認識していない
という立場からもうかがえるように思います。
そういう立場では、男性は全て潜在的に差別者であり、
罪深き存在であるという意見もdefaultとして、意識され
ないんでしょうね。上野千鶴子さんによれば、女性に快感を
与えないコミュニケーション能力が不足した男性は全て
セクハラということだそうですから。(群像のインタビュー
でそう応えられていました)
長くなってしまいました。
でも、批判意見の一方で、私のような支持する立場の
人たちもたくさんいらっしゃると思いますよ。
三砂先生、頑張ってください!
それと内田先生もどうぞご無理はなさらず。
投稿者 (・∀・)
: 2005年01月14日 18:12
こんばんは。いつも楽しく拝読させていただいています。構築主義的奪還論=能力主義的な社会の再編」のスキームでやっていると、最終的にすべての質的な個体差が消失し、ただ「均質なものの間の量的格差」だけが残ることになるとは巧い言い方ですね。私も同じことを言いたかったのですが、質から量への転換とは見事に核心を射抜いています。今流行の(?)「ジェンダーフリー」教育は性差をなくすべく、努力しているのでしょうが、性差は消しゴムで消すように簡単に消える物ではないと思うのです。フェミニストと先生の間に対話が成立しないとお嘆きですが、そもそも彼らは対話を目論んでいるのではないのです。文化的な戦争を戦う戦士なので、個体レベルでの識別はできないというだけではないかと思います。戦争では戦死者が何人という形で個人個人の兵士が持つ質的な個性・相違が量的な多寡に還元されますから。多次元ベクトルがスカラーになってしまうようなものです。議論をしても、それはあくまでも戦争のための議論です。会話が通じる相手ではないのですね。そう言う上野千鶴子も、彼女の本を読んでファン(もしくは仇敵)になってくれる男がいなければ、存在価値など無いはずなのですが。
はじめてコメントさせていただきます。「負け犬」の「大独身」です。
「オニババ」本はまだ読んでいませんが、内田先生が初めてこのブログで本を紹介されたときのコメント、何回か読ませていただきました。どのコメントにも理解・共感できるものがあり、とても面白かったです。(まるで自分の意見がないようですが。)
私は難しい言葉は苦手です。でも、先日の「『オニババ論争』の火中に栗を拾う」を読んで、とてもスッキリしました。
私がどの意見にも「ふむ」と思えたのは、三砂先生の意見に共感する自分と、「敵」を必要としてしまうフェミニスト的な自分の両方があるから、のようです。
三砂先生、私も応援しています。
投稿者 ブロッコリ
: 2005年01月15日 12:38
はじめまして。どうも年始は知らず知らず内田先生とニアミスしていたらしい、相模原在住で自由が丘に勤めを持ち、正月は箱根に泊まっていたものです。
さて、「オニババ」にしても「負け犬」にしても、どうも言葉に踊らされている気がしてなりません。「ジェンダー・フリー」への某知事とその周辺の帝に戒められた方々の過剰ぶりも。
一時期の「ゆとり教育」や「偏差値」への批判と似たような感じがします。絶対的ではない一つの解釈に対し、確固たる存在であるかのように攻撃するといった点で。
どうでもいいことですが、先日久々にスティーヴン・キング原作の「ミザリー」のDVDを観直しましたが、あれってそのまんま安達が原なのですね。
キャシー・ベイツという女優さんは、まさにその「オニババ」な身体こそが身上で、「フライドグリーントマト」という作品では、「ドライビング・ミス・デイジー」のお婆さんに、あやうくオニババから救われる主婦を演じていましたが、あれも「ミザリー」の陽画としてとらえれば頷ける気がします。
投稿者 メカパンダ
: 2005年01月15日 15:59
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