『風立ちぬ』

2013-08-07 mercredi

宮崎駿の新作『風立ちぬ』を観てきた。
宮崎駿は「どういう映画」を作ろうとしたのだろう。
もちろん、フィルムメーカーに向かって、「どういう映画を作りたいのですか?」とか「この映画を通じて何を伝えたいのですか?」というような質問をするのは意味のないことである(「言葉ですらすら言えるくらいなら映画なんか手間暇かけて作りませんよ」という答えが返ってくるに決まっている)。
でも、映画の感想を述べる立場からすると、このような問いを自問自答してみるというのは、決して無意味なことではない。
映画というのは、それについて語られた無数の言葉を「込み」で成り立っているものだからだ。
お門違いなものであれ、正鵠を射たものであれ、「それについて語る言葉」が多ければ多いほど、多様であればあるほど、賛否いずれにせよ解釈や評価が一つにまとまらないものであるほど、作品としては出来がよい。
私はそう判断することにしている。
「それについて語らずにいられない」という印象を残すのは間違いなくよい映画である。
それはその反対の映画を想像すればよくわかる。
よい映画の対極にあるのは「その映画を観たことをできるだけ早く忘れたくなる映画」ではない。「その映画を観たことを忘れるためにいかなる努力も要さない映画」である。
小津安二郎の映画や、ジョン・ウォーターズの映画や、デヴィッド・リンチの映画を観たあと、私たちはじっと黙っていることができない。
何か言わずにいられない。
とりあえず何か言っておかないと、自分が何を観たのかわからないまま宙づりにされていて、気持ちが片づかないのである。
何かを言っても、それで映画を説明したことには少しもならないのだが、それでも、とりあえず一言でも言っておかないと気が済まない。
そのあと自分がその映画についてもう一度語るときに「取りつく島」がない。
その「取りつく島」をあとになって「あれは勘違いだった」と否認しても少しも構わない。
とりあえず、それを否認することで、その映画について私たちは二度語るチャンスを手に入れるからである。
「取りつく島」はひとりひとり違っている。
ある映画について語っているときに、あの場面、あの台詞が忘れられない・・・とひとりひとりが思い出す場面がすべて違うような映画はよい映画である。
その点で、映画批評は「通夜の客の思い出話」に似ている。
通夜の席で参列者ひとりひとりが語る故人の思い出はそれぞれにばらばらである。
ある人が「忘れがたい思い出」として語り出す故人の言葉やふるまいは、しばしば他の誰も知らなかったものである。
全員がまったく別々の思い出を語り、そのせいで、故人の全体像が混沌としてくるような死者がいたとしたら、その死者はずいぶん人間として厚みと奥行きのある人だったのだろうと私は思う。
映画についても同じである。
以下は私の「取りつく島」である。
せっかく語る以上は「他の人が言いそうもないこと」を書こうと思う。
他の人がまず言いそうもないこと、同意してくれそう人があまりいそうもない話なのだから、それが「解釈として正しい」ということはありえない。
でも、それでよいのである。
別に私は「正しい解釈」を述べたいわけではないからだ。
石蹴りをする子どもが最初の石をできるだけ遠くに蹴り飛ばすように、できるだけ遠くまで解釈の射程を拡げてみたい。

『風立ちぬ』にはさまざまな映画的断片がちりばめられている。
それのどれかが決定的な「主題」であるということはないと思う。
むしろ、プロットがその上に展開する「地」の部分を丹念に描き込むことに宮崎駿は持つ限りの技術を捧げたのではないだろうか。
「地」というのは「図」の後ろに引き下がって、主題的に前景化しないものである。
宮崎駿が描きたかったのは、この「前景化しないもの」ではないかというのが私の仮説である。
物語としては前景化しないにもかかわらず、ある時代とその時代に生きた人々がまるごと呼吸し、全身で享受していたもの。
それは「戦前の日本の風土と、人々がその中で生きていた時間」である。
宮崎が描きたかったのは、私たち現代人がもう感知することのできない、あのゆったりとした「時間の流れ」そのものではなかったのか。
映画は明治末年の群馬県の農村の風景から始まって、関東大震災復興後の深川、三菱重工業の名古屋の社屋と工場、二郎たちが離れに住む黒川課長の旧家、各務原飛行場、二郎と菜緒子が出会う軽井沢村、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所・・・を次々と細密に描き出す。
そのどれを見ても、私たちはため息をつかずにはいられない。
そうだ、日本はかつてこのように美しい国だったのだ。人々はこのようにゆったりと語っていたのだ。
それらの風景のひとつひとつを図像的に再生するとき、宮崎はアニメーターたちに例外的なまでの精密さを要求した。
自作自注の中で宮崎は風景についてこう書いている。
「大正から昭和前期にかけて、みどりの多い日本の風土を最大限美しく描きたい。空はまだ濁らず白雲生じ、水は澄み、田園にはゴミひとつ落ちていなかった。一方、町はまずしかった。建築物についてセピアにくすませたくない、モダニズムの東アジア的色彩の氾濫をあえてする。道はでこぼこ、看板は無秩序に立ちならび、木の電柱が乱立している。」(http://kazetachinu.jp/message.html
「みどりの多い日本の風土」こそは、私たちが近代化することで(とりわけ戦争に負けたことによって)決定的に失ったものの一つである。
でも、厳密に言うと、私たちは「風土そのもの」を失ったわけではない。
国破れて山河あり。里山の風景は戦争に負けてもそれほどには傷つかなかった。
けれども、深く傷つけられたものがある。
それはそのような「みどりの多い日本の風土」の中でゆったりと生きていた日本人たちの生活時間である。
人々はかつてこの風土に生きる植物が成長し、繁茂し、枯死してゆく時間を基準にしておのれの生活時間を律していた。
植物的な時間に準拠して、それを度量衡に、人々は生活時間を数え、ものの価値を量り、ふるまいの適否を判断した。
でも、戦争が終わったときに、日本人はその生活時間を決定的なしかたで失っていた。
日本人は1945年にある種の「時間の数え方」を亡くした自分を発見したのである。
それは一度なくしたら、もう取り返すことのできないものだった。
農村の上空を飛翔する飛行機の風にゆらぐ稲や、軽井沢に吹き渡る風にゆらぐ草を宮崎は恐るべき精密さを以て描いた。
どうして、「風が吹く」ということを示すためだけに、ここまでの労力をかけるのか、怪訝に思う人がいるだろう(私は思った)。
「風が吹く」ということを記号的に処理する方法はいくらでもある。
マンガなら、何本か斜線を引いて「ひゅー」と擬音を描き込めば、それで済ませることだってできる。
でも、宮崎はそれをしなかった。
「風が吹く」というひとつの自然現象を記号的に処理しないこと、かけられるだけの手間をかけてその自然現象を描写し、その風の肌触りを観客の身体に実際に感じさせること、その効果に宮崎駿はこだわった。
おそらく、それが「失われた時」を感知させる唯一の方法だと宮崎が信じたからだろう。
植物は、ただの記号でもないし、舞台装置でもない。
芽生え、育ち、生き、死ぬものである。
そのようなものとしての植物に身を添わせるようにして、かつて人々は生きていた。
植物的な時間。
これは宮崎駿の選好する主題の一つである。
『ナウシカ』の腐海の植物も、『ラピュタ』で天空の城を埋め尽くす樹木も、『もののけ姫』の森も、人間たちの生き死にとはまったく無縁な悠久の時間を生きていた。
かつて人々はそのようにゆったりと流れる植物的な時間と共に生きる術を知っていた。
その知恵が失われた。
私たちは時間とは、どの時代でも、地球上のどこでも、「私たちが今感じているような仕方で流れている」と信じて疑わない。
でも、そうではない。
時間は場所によって、時代によって、文化の違いによって、そのつど違う流れ方をする。
でも、そのことの実感は言葉ではうまく表すことができない。
宮崎駿はその作家的天才を以て、「少し前まで人々がその中で生きていたけれど、いつしか失われてしまった時間」を図像的に表象するという困難な課題に挑んだ。
大正から昭和前期の日本で流れていた、私たちが今知っているのとは違う時間の流れを図像的に表象すること。
その企てを支援するかのように、物語の副旋律として、映画の中には「時間の速度」にかかわる言葉が何度か出てくる。
それはいずれも「時間の流れが早くなっている」かあるいは「早めなければならない」という切迫感を語る。
二郎の妹加代は越中島から花川戸までの蒸気船から夕方の帝都を望んで「こんなに早く復興しているとは思わなかった」と言う。
同僚の本庄は欧米に大きなビハインドを負っているがゆえに、日本の航空技術は「二十年を五年で追いつかなければならない」と二郎に告げる。
そのときに本庄が引く「アキレスと亀」の喩え話について、二郎は「どうして亀の時間で生きてはいけないのか」とぼんやりとつぶやく。
物語の後半で、菜緒子の病状が悪化し、日本の戦況が悪化する中で、二郎は「僕たちにはもう時間が残されていないのです」と絞り出すように語る。
美しい飛行機を設計することを夢見た一人の青年が穏やかな少年時代から妻を失うまでの間に、最も大きく変わってしまったものは、何よりも時間の速度だった。
そして、まことに皮肉なことに、ゆったりとした時間の流れに身を浸し、その中で植物的時間を享受することをおそらく望んでいた青年は、その半生を航空テクノロジーに捧げることによって、「時間の流れを爆発的に速める」という人類史的事業に深く加担してしまったのである。
ゆるやかに大空を舞うように飛んでいた二郎の足踏みの「夢の飛行機」が、空気の壁を切り裂くように飛行する零戦に変容するまでの十数年の間に、彼は顕在的な夢を実現しつつ、彼自身の潜在的な夢を破壊していたのである。
宮崎は主人公の造形についてこう書いている。
「私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。」
そのように簡単に言葉にできることを述べたくて宮崎駿はわざわざ映画を作ったわけではない。
「映画でなければ表現できないこと」を描きたくて、宮崎はこの映画を作ったのだと私は思う。
「失われた時間」を求めて。
これは「風立ちぬ」という美しい詩編を残した詩人と奇しくも同年に生まれた別のフランス人の作家が自作のために撰した題名である。