テクノロジカルな付喪神たち

2012-05-28 lundi

「テクノロジカルな付喪神たち」という文章を書きました。
凱風館の設計をしてくれた光嶋裕介くんのドローイング集のための帯文です。
不思議な絵を描くひとなんですよね、彼は。
僕は美術についてはまったくの門外漢なのですが、「不思議な絵だな」と思った所以について書きました。
光嶋くんのたいへんアクティブな日々の活動についてはこちらhttp://www.ykas.jp/jp_2books.htmをご覧ください。

では、帯文どうぞ。

光嶋裕介くんは「絵に描いたような好青年」である。快活で、ほれぼれするほど健康で、その知性感性のセンサーにヒットするあらゆることに興味を示し、寸暇を惜しんで本を読み、音楽を聴き、展覧会に通い、劇場を訪れる。「若い人は元気でいいね」と私は眩しいような眼で彼を見上げるけれど、この銅版画を見ると、そのような簡単な形容詞で片付けるには、この青年の感受性の構造はいささか複雑であることが知れる。
二年近く前、建築家と施主という関係において光嶋君と最初に会ったとき、彼はこれまでの作品として「自分で建てた家」というものをまだ持っていなかった。だから、彼の美的感覚がどういうものかを私に伝えるために、彼はこれまでに描いた何点かの絵を見せてくれた。この銅版画と同系列の作品である。
一見して不思議な絵だと思った。「ゆらぎ」はあるが「隙」がない。「流れ」はあるが「粘りけ」がない。運動性はあるが数理的な秩序に対するつよい志向に領されている。彼の経歴から考えて、「ヨーロッパ的」ということなのかなとも思ったが、それでは説明が尽くされない。
彼の年齢と、その「生物としての強靱さ」を勘案すると、もっと、明るく、不遜で、奔放な絵を描いてよいはずなのに、これらの作品は思いがけなく、静かで、整然としていて、そして暗い。これは彼の設計した家から私が受ける印象に近い。
これは光嶋裕介というひとのきわだった個性なのか、あるいはいくぶんか同世代の集合的感性を代表しているのか。私にはわからなかった。わかるのは、ここに描かれたのが彼の脳内に存在する、ある「ユートピア」の諸相らしいということだけである。
それにしても、不思議なユートピアの風景ではある。
彼のユートピアには、人間が工学的に作りだしたものしかない。ビルや橋梁や道路や港湾施設や電線はあるが、人間の姿は見られない。獣や鳥や魚の影もない。ところどころにはなやかな彩りはあるが、それはケミカルな合成物の効果のように見えて、花や葉のようには見えない。では、この世界には生命がないのかというと、それがあるのだ。
わが国には「付喪神(つくもがみ)」というものがある。家具什器であっても、長く生きるとついには神霊が宿り、荒ぶれば禍をもたらし、和めば幸いをなすと言い伝えられている。光嶋君のユートピアでは、おそらく橋や煙突のような無生物も、長く働いているうちに、いつしか神霊の宿りとなり、固有の生命を持ち始め、ついには固有の美を生み出すに至ったかのようである。
そう思って眺めると、これらの作品からは不思議な安らぎが伝わってくる。たとえ人間たちが死に絶えても、美しいものは美しいことを止めるわけではないのだ。なるほど、「人間が存在しなくても、美しいことを止めない建造物」に惹きつけられるのは建築家としてはあるいは自然なことかも知れない。
けれども、その前段に「人間がいなくなっても」という健康な青年が口にするにはあまりに突き放した仮定が置かれていることに私は胸を衝かれるのである。私が上に「複雑」と記したのはそのためである。