だいぶ前に某誌から「人生の中で一度は読みたい未読の本」というアンケートが送られてきた。
なかなか面白い趣向のアンケートである。
「読まねばならぬ」と思いつつ、どうしても手に取ることや読み通すことのできなかった本のリストを示していただけると、その人の隠された心的傾向がうかがえるやもしれぬ。
どのような回答が寄せられるのだろうかと楽しみにしていた。
私の回答は中里介山の『大菩薩峠』。
白井喬二の『富士に立つ影』と並ぶ「めちゃめちゃ長い時代小説」の双璧であり、途中から主人公の机竜之助がどこかに消えてしまって、別人が主人公になるという構成上の破綻もものかは先般亡くなられた今村仁司先生が強く推奨していたので、いつかは読まねばと思っていた。
一巻の途中で挫折したままである。
それについてこんな文章を寄せた。
一生に一度は読んでみたいと思いつつ読んでいない本」という企画は、やってみたらあまり個性的なセレクションにならなかったのではないかと思う(編集者はちょっとがっかりしただろうけれど)。たぶん『失われた時を求めて』と『ユリシーズ』と『源氏物語』がトップ10にランクインしていると思う。もちろん『大菩薩峠』も。これはいずれも私自身未読でいつか読まないとなあと思っている本なのである。理由は「長い」というだけではなく、「一度読み始めたが、読み続けられなくて途中で断念した」という事実がトラウマ的経験としてあるからである。
いずれについても、途中下車した個人的にいちばん大きな理由は「焦点的人物に感情移入できない」ということではないかと思う。机竜之助について言えば、これほど共感できない主人公は珍しい(『悪霊』のスタブローギンの方がまだましである)。どうしてかというと、なんか「悪い」だけじゃなくて、「狭量」な感じがしたのである。もしかすると巻が進むと「正邪一如」的なスケールの人物に成長するのかも知れないけれど、そこにたどりつく以前に机くんに興味をなくしてしまった。私の器がもう少し大きくなって、「悪くて狭量」な主人公でも愛せるようになったら再度挑戦してみたい。
まあ、毒にも薬にもならないような文章である。
でも、他のアンケートがどんなラインナップかちょっと楽しみにしていた。
掲載号が送られてきたので、早速読んでみて仰天した。
タイトルが変わっているのである。
「死ぬまでに絶対読みたい本・読書家52人生涯の一冊」
そして、「未読の本」を回答したのは私一人で、あとの51人全員が「もうすでに読み、これからもぜひ読みたい本」を挙げていたのである。
私は顔面蒼白となり、あわててアンケートのメールを読み返してみた。
でも、そこにははっきりと「人生の中で一度は読みたい未読の本」と書いてある。
さて、いったい何が起きたのか。
考えられる可能性は次の二つしかない。
(1)某誌の編集者が私だけにこのアンケートを送り、他の51人には別の文面のアンケートを送った。
(2)私以外の51人はアンケート文面の「未読の」を(故意にか無意識にか)読み落とした。
編集部が私に悪意をもっている可能性は低い(絶無とは言えないが、ゲラが放置されているのは他部署の仕事である)。
となると、やはり考えられるのは、全員に同文のアンケートを送ったのであるが、私以外に「未読」の本を回答した人が一人もいなかったということである。
その結果、アンケートはタイトルを「死ぬまでに絶対読みたい本」に変更したのである。
しかし、ウチダ一人がまるでお門違いな回答をしているので、これだけ読んだ読者は「バカだぜ、こいつは」と思うことは必定である。
しかし、ウチダはアンケートの趣旨についてちゃんと確認のメールを送り、趣旨確認の上で回答をしているのであるからして、いまさら「あなたのアンケート回答は趣旨が違うので受理できません」と言うわけにはゆかない。
編集者の苦衷はいかばかりであったであろう。
暗鬱な編集会議の結論は、「申し訳ないが、これはウチダさんにひとり恥をかいてもらうしかないですね・・・」という苦しい結論に達したのである(想像ですけど)
いや、よろしいのだよ。私も常識ある社会人である。
これくらいのことで腹を立てるような狭量な人間ではない(そう誓ったばかりだし)。
それに、この事実から私は重要な知見をくみ出したのである。
それはどうやら日本のインテリゲンチャは「自分が知らないこと」を情報開示することの「意義」を理解できない人々によって構成されているらしいということである。
彼らは全員が期せずしてアンケート文中の「未読の」という形容詞を読み落とした。
これはきわめて徴候的なことである。
このアンケートはその意味で日本のインテリゲンチャが「おのれの知的限界を意識化することにつよい倦厭と忌避を抱いており、かつそのことを意識化できないでいる事実」を語る貴重な精神分析的=民族誌的資料として活用されうるのである。
それに「オールタイムベストワン」のブックガイドとしても読むことが出来るから、一石二鳥。
