またまたインタビュー
今度は『月刊PHP』
お題は「幸せって何?」
そんなこと訊かれても。
とはいえ、そのようなことを訊く為にわざわざ遠く東国から御影までおいでになったわけであるから、にべもなく「知りません」とは言えない(つい先週、同じPHPの連載のオッファーを遠く東京から来た編集者に向かって「やりません」と五秒で断ったばかりである)。
知恵を絞って考える。
幸せって何だろう。
ふだん、そんなことはあまり(というかぜんぜん)考えたことがないので、困ってしまう。
でも、人はどういうふうに「不幸せ」になるかは、わかる。
というのはその前に『歎異抄』を読んでいたからである(朝カルの予習である。私でもたまにはそういう殊勝なことをするのである)。
人を不幸にするのは「自力」である。
自力というのは、私の解釈では「無時間モデル」のことである。
自力には「時間」が入る余地がない。
「他者」にも入る余地がない。
「未知」にも入る余地がない。
「悪人正機」の説というのがある。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
人間が悪行をなすのは「さあ、これから悪事をやるぞ」という自己決定によるわけではない。
仮に「悪人になるぞ」と自己決定したとしても、そういう非倫理的な自己決定ができるということ自体、ご本人の人間のつくりが相当歪んでいるということであり、そういう「根本的に歪んだ人間」に自己決定によってなることはできない。
おおかたは遺伝子のせいか、育成環境のせいである。
気がついたらいつのまにか悪事を働いていた。悪人になる気はなかったのに、気がつけば極悪非道・・・というのが悪人である。
つまり、悪人というのは「文脈依存的」な存在なのである。
どうして自分がこんな人間であるのか、どうして自分はこんな言動をしてしまうのか、自分では説明することができないという根源的な被投性(レヴィナスのいう「始原の遅れ」initial après-coup)が悪人の「悪人性」を根源的に規定している。
悪人自身もそのことはわかっているので、自分が悪人である所以をしばしば「自分以外のもののせい」にする。
「こんな私に誰がした」
というわけである。
しかるに、善人は自分が善良であることを「他人のせい」にあまりしない。
「親に愛され、友人に恵まれ、同僚から信頼され、弟子たちから敬慕されているので、『こんな善い人』になりました」というような文脈依存的善人をカムアウトするひとに私は会ったことがない。
たいていの善人は「私が善人であるのは、自己努力の成果である」と言う。
言わないまでもそう思っている。
「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」と『歎異抄』にはあるが、私はその条をそう解釈したい。
自分自身の善性をおのれ自身で基礎づけたと思っている人は「おのれの理解を超えた文脈」を必要としない。
なにしろ「善い人」なんだから。
これが善人の陥りがちな「自力作善」というピットフォールである。
「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
宗教学の専門家はどうおっしゃるか知らないけれど、私は勝手にそう思っている。
どうして自分がそんなことを思ってしまうのか、私自身には説明ができない。
しかたがないので、その説明の方は「ひとへに他力をたのむ」他ないのである。

コメント (19)
>その説明の方は「ひとへに他力をたのむ」他ない
なるほど、少しだけわかってきました。親鸞さんがいった「縁」も、悪人が依存する「文脈」でした?
そろそろ仕事の準備。明日の朝まで東京都内を走り回ります。「縁」ですね。これが私の生きる道――あ、Puffyだ!(笑)
お後はよろしく。
投稿者: 誤読しらず
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2008年05月09日 17:02
日時: 2008年05月09日 17:02
私が一番やっかいだな、と思うのは「自己愛」に満ちた人ですね。本人はとても幸福なんでしょうが、ハタからすると非常に不幸な存在だったりする。そんな彼らが集まると誰もが目を輝かせて超和気あいあいなんですが、それを見ているこっちは超たまらんのです。仏様には是非彼らを「悪人正機」でもって救済して頂きたい(うそ)
私の親の世代などは「しあわせに感謝しよう」なんて言ったものですが、「感謝しよう」って「誰に?」と思ってたボンクラ小僧は勿論私です。ほんと、幸せってなんでしょうね。
投稿者: raincoatcrowd
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2008年05月09日 17:24
日時: 2008年05月09日 17:24
>おおかたは遺伝子のせいか、育成環境のせいである。
人の悪行は生まれつきの遺伝子や環境のせいですか?w
これまた明快な「優生思想」をご披瀝くださいますな。
ところで悪人になる「遺伝子」とか、悪人になる「環境」ってどのようなものなんでしょう?
ぜひ、ご披露願いたいものです。
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 18:21
日時: 2008年05月09日 18:21
>「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
その前に「邪悪なるありよう」なるものとはいったいどのようなものなんですか? 先生。w
先生には「邪悪」についてすでに決定事項がある。
>レヴィナスのいう「始原の遅れ」initial après-coup)が悪人の「悪人性」を根源的に規定している。
として「悪人」「邪悪」というものが何であるのか、はっきりさせてくださいませんか? 先生。
まさか、キリスト教と仏教をごっちゃに論じているのではありますまいな。先生。w
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 18:28
日時: 2008年05月09日 18:28
>「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」
だから、
>しかたがないので、その説明の方は「ひとへに他力をたのむ」他ないのである。
なるほど!
ポン!(膝を打つ音)
いつもながら、お見事です。
投稿者: 湧泉堂
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2008年05月09日 19:29
日時: 2008年05月09日 19:29
幸せですか、と英国にいたころよく尋ねられ、しばらくたって、わかってきました。それは、その日前後、他人が何か手助けして、解決できるようなことがあるか、ということでした。つまり、尋ねられて、自分の状況が明晰に、わかっていますか、という意味でした。
とてもよいブログ、いつもありがとうございます。
日本語はマイクロスリップを余儀なくされている言語なのでしょうか、考えています。ロボットは動詞が先に来る方が反応し良いでしょうね。
投稿者: ふれむで
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2008年05月09日 19:30
日時: 2008年05月09日 19:30
>たいていの善人は「私が善人であるのは、自己努力の成果である」と言う。
言わないまでもそう思っている。
それじゃ「善人」じゃなくてたんなる「善人意識」じゃないですか。
先生の従来からのお考えでは「善人」かどうかは他者が決める、ではなかったのですか?
自力作善はありえないと従来からそうおっしゃっていた。
つまりここで先生のいう善人とは「わたしは善人」という意識である。
客観的に善人であるかどうかではない。
ならば親鸞のいう悪人とは「悪人という自意識」であることがわかる。
自分で自分を悪人と自省する意識の操作は、実際の行為、行動が悪行であるかどうかとは関係ない。
人をたすけても、あれでよかったのか、あのまま結局最後まで看取ってやれなかったのならむしろ悪いことをしたのではないかと自省する意識の持ち主が「悪人」ということになる。
しかしこれではあたりまえすぎて面白くない。
面白くないけど、そういうことになる。
ならば先生のそれ以後の説明は根底からひっくり返るわけですよ。
>「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
なんですか? これは。w
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 19:41
日時: 2008年05月09日 19:41
連続投稿お赦しください。読み損なってました。
>「悪人正機」とは悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
あ、…。肯定的に評価?
オドロキました。以上です。
投稿者: 湧泉堂
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2008年05月09日 19:51
日時: 2008年05月09日 19:51
三度目失礼。
言わずもがなのことですが、二度目のコメントは、賞賛のオドロキです。以上。
投稿者: 湧泉堂
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2008年05月09日 19:59
日時: 2008年05月09日 19:59
善行であれ悪行であれ他の人間がなす行為は、自分が人間である限り、同一条件下にあれば、自分もなし得る。そのような態度で他者の内に自分をみるとき、誰もが未然形の悪を抱えているのではないでしょうか。
どうしてこんな私でも赦されて救われるのかという問いは、自分の中の悪が必然にせよ偶然にせよ実現してはじめて生まれるのだと思います。
善悪という人間の思考が作り出す観念を離れ、私たちが既に与えられているものを思い出すために、以下の文章を読み返しました。
筋肉や脂肪などの組成はお金で買った食糧の変形でもあるので、自分の所有する物質だと主張はできても、食物摂取を通じて循環する再生的な宇宙のパーツが、構成と分解を繰り返しながら維持される機能は、平均80年間宇宙がわれわれに無償でレンタルリースしてくれているのである。髪の毛や筋肉や脂肪のそれぞれ果たす機能には、誰もローンを支払っていない。
クリティカル・パス(R.バックミンスターフラー著、梶川泰司訳)
投稿者: knobuki
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2008年05月09日 21:25
日時: 2008年05月09日 21:25
あのー、内田先生。
浄土真宗では「悪業」はみとめても「悪人」なる存在は認めていないのですが。w
悪人なる人間がいるのではなく悪業をなす人間がいる。
親鸞の教えでは、人間はすべて「煩悩具足の凡夫」です。
そこがキリスト教と根本的に違うところです。
先生のいう仏教でいうところの「悪人」てなんですかねえ?
そんな「優生思想」はキリスト教ならともかく仏教にはそもそも存在しませんよ。
仏教においては、すべて生きとし生けるものは「仏」(ほとけ)さんになる資格をそなえたものです。
キリスト教のように一部の選ばれた人だけが天国にめされるのでもなければ、
キリスト教のように悪魔と天使がいるわけでもない。
内田さんが聖書を大事にしているように、仏教徒は仏典を大事している。
お坊さんがキリスト教の聖典を勉強もしないで勝手に解釈したりはしないのと同じように
内田さんも仏教をなめてかかってはいけないのじゃないですか?
仏教の人間観についていの基本的な認識すらないのに手軽に歎異抄をひねくりまわす。
あきれてものもいえない。
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 21:34
日時: 2008年05月09日 21:34
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
単純な一文のようでいて、中々難しい文章ですね(ひょっとして、生き残ってきた古典って大概そういうもの?)
ぼくはあまり親鸞さんや浄土真宗を解するものではありませんが、この一文は以下のように解釈していました。
「善人」=自分を幸せだと思っている人。自分は救われている人間と思っている人。
「悪人」=自分を幸せだと思えない人。自分は救われていない人間だと思っている人。
「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
=自分のことを幸せだと思えている人はほうっておいても大丈夫、自分のことを幸せだと思えていない人にこそ、救いのための手助けが必要なのである。
……善人・悪人の定義を含め、恣意にすぎる解釈であるかもしれません。しかし、こう解釈したとき、ぼくは何となく腑に落ちる思いがいたしました。
投稿者: いつの日かのあなた
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2008年05月10日 00:13
日時: 2008年05月10日 00:13
↑なるほどね。
この受け取りかたはわたしにも素直に腑に落ちました。
浄土真宗の教えは頭で解したものより実感で語られたもののほうが数段いいですね。
その典型のようなものに感じられました。
投稿者: イカフライ
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2008年05月10日 06:05
日時: 2008年05月10日 06:05
>>おおかたは遺伝子のせいか、育成環境のせいである。
つまり「全ての場合」だと老師はおっしゃっているのだ。
投稿者: ポール
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2008年05月10日 19:49
日時: 2008年05月10日 19:49
攻撃を捌くのも堂に入ってきましたね・・・・。
これが剣戟なら達人級だ。
投稿者: Mr.変
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2008年05月11日 19:37
日時: 2008年05月11日 19:37
「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころのかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」なのですから、「自分のことを幸せだと思えている人はほうっておいても大丈夫」ではないと思いますよ。
私は賦に落ちませんが。
投稿者: gizza
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2008年05月11日 23:08
日時: 2008年05月11日 23:08
失礼。 賦→腑でした。
投稿者: gizza
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2008年05月11日 23:48
日時: 2008年05月11日 23:48
>「悪人正機」とは、悪人は自分の邪悪なるありようを自分では基礎づけることができない(というか「したくない」)という傾向を肯定的に評価したものである。
他人の庭先で、「俺がこんなに不幸なのは、お前が幸せに暮らしているせいだ!」と言って、喚き暴れる悪人。
俺が悪人なのは、お前のせいだ。
と、
私が善人なのは、他人様のお蔭様でございます。
この相似形に気がつけ。
悪人を見て、おのれが善の、他者のお蔭様に気づけよ。
悪人に感謝せよ。
自力作善の独善に陥らないために、悪人を見よ。
…。申し訳ない。今までのこと陳謝。謝ります。ひたすら、平身低頭あるのみにて。
私が、間違っていました。ご迷惑をおかけいたしました。
投稿者: 湧泉堂
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2008年05月11日 23:48
日時: 2008年05月11日 23:48
自分と他人の関係性に着目し、そこに生起する善と悪を比較しながらこういうことが真実である、と親鸞は説いたわけではない。そういう小さな枠を越えた、もっと大きな、生きとし生けるものすべてを照らす光のことを「他」で表現した。これは他者のことではない。自分と他人を含めた人間、動植物、さらに大きな自然界、それらすべての背後にある大きな力の働きのことである。自力を為せば、どんな人でもそれに執着して大きな力を忘れる。光を見失う。そのような悪人だからこそ、自力を捨てたときに他力への道か開ける。このような仏性の目覚めが何よりも尊いのであるから、「いわんや、悪人をや」となるわけである。チェスタトンは「キリスト教徒は世界を逃れて宇宙に入るのであるが、仏教徒は世界からというよりはむしろ宇宙から逃れることを願うのである」と言っている。先生の考えは多分に西欧哲学的で、この言い方を借りればキリスト教に過ぎる。
投稿者: ねんねこ飯店
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2008年05月12日 22:00
日時: 2008年05月12日 22:00