花の御影を見る

2008-05-09 vendredi

打ち合わせを三つ、授業を二つ、稽古を一つしてから走って肥後橋へ。
朝日カルチャーセンターで名越康文先生と釈徹宗先生と鼎談をするのである。
お題は「顔と人格」。
親鸞の御影を題材にして、「親鸞というのはどういう人だったのか」ということを、「顔を見ただけで診断を下す」精神科医と、篤学の宗教学者が語り合うのを私が「へ〜」と驚く・・・という結構のものである。
私はただ「へ〜」と言っていればよいのであるからお気楽である。
しかし、ご存じのように私は「自分が知らないことについても自説を言い立てる」タイプの人間であるので、お二人の話を黙って聴いていることができずに、よせばいいのに話に割り込んで、思いついたことをうるさく申し述べる。
私が興味をもったのは親鸞の御影三点のうち、鏡の御影、花の御影の輪郭がはっきりしないことである。
二つとも服や持ち物ははっきりしているが、顔の輪郭線がほとんど見えない。
これは単に絵が長い時間のあいだに物理的に劣化したのか、あるいは絵師の技術が足りずに肖像をまともに描けなかったのか。
それでは話がつまらない。
私の仮説は親鸞の顔が「マイクロ・スリップ」していた、というものである。
マイクロ・スリップというのはこれまでに何度もご紹介しているが、未知の入力に臨機応変に対応できるように、動きの決定をぎりぎりまで遅延させることである。
例えば、野球のバット・スイングにおいて、体軸は十分に旋回し、バットに十分なエネルギーは備給されているが、バットはボールと接触する最適のタイミングと空間座標を求めて、ぎりぎりまで「ためらっている」打者は、「えいや」とヤマを張って、バットをぶん回している打者より打率が高いであろう。
すぐれたアスリートは「環境との接触面は最後まで、環境の変化に注意を向けている」というしかたで身体を操作することができる。
未知のものが不断に入力してくるような状況では、リジッドなシステムよりも、環境的与件の不意の変化に即時対応できるファジーなシステムの方が有利である。
マイクロ・スリップとは語義的には「エラー」にまでは至らなかった行為のわずかな「言い淀み」のことである。
日常のなんでもない行為(コーヒーをカップに注いだり、箸でものを摘んだりすること)でも、私たちの手は一瞬停滞したり、ほんの少し接触したあとに軌道を修正したり、角度を変えたりしている。
このわずかな「運動上の吃音」が実は複雑な行為を先に進めるために必須のものであることを指摘したのはエドワード・S・リードである。
リードのマイクロ・スリップ理論の意義について、佐々木正人はこう書いている。

「行為についての伝統的概念化は、行為のプランとその実行を峻別している。『プランが実行を監視する』という考え方が一般的である。しかし何かをしはじめた後で、行為が淀んだり、部分的に小さく変更しつづけることはふつうである。いったん淀んで、またもともとしていたことを続けるというようなこともよくある。つまりどの行為も『吃り』の部分を含んでいる。手は『手自体で考えながら』動いている。プランが行為の起こるところとは別にあるとする考え方、プランと実行を分離する枠組みでは、こういう事実を説明できない。プランは部分的には、手が『吃っている』ところにもある。手の動きは他ではなく、手が動くところでつくられていく、というわけだ。」(佐々木正人、『ダーウィン的方法』、岩波書店、2005年、61-62頁)

私は「花の御影」を見ているうちに、ふとマイクロ・スリップは表情の形成にも適用できるのではないかと思ったのである。
表情は先日ご紹介した月本洋さんの仮想身体運動理論によれば、「他人の思考と同調するためのシミュレーション」である。
さまざまな他者の思考の深部とダイレクトに同調できるような広大な知性においては、「顔が吃る」ということだってあるのではないか。
はじめて会う人と対面したときに、「表情が決まらない」ということがある。
おそらくそれはコミュニケーション戦略上のオプションの一つでありえるだろう。
こわばった顔、硬直した表情、定型的な言葉遣いで未知の入力に対応することはむずかしい。
むしろ、顔の筋肉が動き続け、表情が固定せず、言葉遣いが揺らぎ、「ぎりぎりまで決定を先送りする」能力のある人の方が、状況対応能力は高い。
岡田山に長くいると「輪郭がぼやける」という話をこれまで何度かしてきたので、ふとそのことを思い出したのである。
点描やキュビスムのような画法が創出されたのは、あるいはその運動する輪郭を画布に定着させるための技術的な要請に応えたものかもしれない・・・
というようなことを考えた。
この場に山本浩二がいたら、ずいぶん面白い話になったのにね。
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