お茶と合気道

2008-04-13 dimanche

芦屋のお稽古に行ったら、また新しい人が3人来ていた。見学者が2人。
木曜の大学の合気道の稽古も新人が(舞踊の村越先生と、舞踊専攻学生たち3人を入れて)7人。
ウッキーが担当している合気道の授業も受講希望者が30人いたそうである。
合気道をやってみたいという人は確実に増えている。
別にメディアがそういう風説を流しているので、それにアオられたということではない。
それぞれ自発的に、なんか「こういう感じのこと」がやりたいな・・・と思っていて、たまさか「合気道」という文字にフックしたのである。
こういうのはほんとうにネーミングの勝利である。
なにしろ、「合」と「気」と「道」である。
「道」が二翻なら、これだけで満貫である。
「合気する」というのは古くからある武術用語で、「同期する」ということである。
同期されるということは相手のいいように扱われるということである。
だから、武道修業プログラムには「どうやって合気されないか」という技術的課題が必ずビルトインされている。
「あはぬ拍子をよしとす」ということは『兵法家伝書』や『五輪書』にも書いてある。
拍子が合ってはならない。
それを転倒させて、「合気すること/合気されること」を表裏一体の技術ととらえたのが合気道である。
「弛す(はずす)」とか「賺す(すかす)」とか「躱す(かわす)」というのはいずれも拍子をはずすための技法である。
これらはいずれも高度な技術なのであるが、マインドに瑕疵がある。
いずれの動詞も「私」という主語を取ってしまうことである。
それでは「主体-敵」という二元論フレームから出ることができない。
それでは「天下無敵」にならない。
「天下無敵」とは「天下に並び立つものがいない」ということである。
別に敵対するやつを全部殺してしまったとか、そういうことではない。
みんな「私」なので、「敵」がいないということである。
天下無敵とは「敵」をどうこうする他動詞的所作のことではなく、「私」の概念を書き換えるということである。
世界と他者を「『私』を主語とする他動詞的なフレームワークの中で思量しない」ということである。
合気道の動きでは申し上げたとおり、「合気する/される」が表裏一体となっているので、術者は原理的には「私」という主語を取ることができない。
ふつう武道的動きは「私は敵を・・・・する」という他動詞的な構文で語られる。
合気道はそうではない。
文法用語を使って言えば、合気道というのは「再帰的な身体運用」である。
「私たちは、私たちを・・・する」という再帰的なしかたで身体を運用するのである。
動作の主語は「私」ではなく、「私たち」である。
とりあえず頭が二つ、体幹部が二つ、手が四本、足が四本ある「複素的身体」がここに現出している。
単体のものに比べて、操作方法が複雑ではあるが、まあ所詮は人間の身体である。
そこには当然「理」というものがある。
その理に従えば、この複素的身体は操作可能である。
合気道の稽古とはこの複素的身体運用のテクニカルな法則性を探すことである。
その法則性を発見すれば、一人でお箸を使ってご飯を食べたり、筆で字を書いたりするのと同じように、二人から成る複素的でご飯を食べたり、手紙を書いたりすることができる(はずである。原理的には。私はまだできない。せいぜい床に落ちているものを拾うくらいである)。
この技術は人を投げ飛ばしたり、関節を折ったりする技術よりもはるかに汎用性が高い。
私たちはたしかに相手を投げ飛ばし、関節を極めるというようなことを稽古しているが、それは「それをするため」ではない。
そのような技術はできることなら一生涯に一度も使わずに済ませたいものである。
ではどうして「一生涯に一度も使わない方がよい技術」の洗練を稽古するかというと、そういう稽古が「それとは違う、それよりもはるかに汎用性の高い能力」の開発に効果的であることが経験的にわかっているからである。
だから、ときどき「合気道って強いですか?」と訊かれると、私はぽかんとしてしまう。
「漢字が読めると喧嘩に強くなりますか?」とか「お風呂に入るとお金が儲かりますか?」とか質問されるのといっしょで、答えようがないのである。

お稽古のあと、中之島のリーガロイヤルのリーチバーで千宗屋さんと対談。東京から橋本麻里さんと足立真穂さんの「スーパー・エディター・シスターズ」が来ている。
この方々を前にすると、私たちは「飛んで火に入る夏の虫」というか「自家薬籠中のもの」というか、とにかく「活殺自在にされちゃった状態」である。
『考える人』のために先日の麻布の重窓での茶事を「総括」する。
この初体験茶事についてはあらたに発見したことが山のようにあったので、千さんに素人の所見を縷々述べる。
述べたのは考えてみたら、いずれも上に述べたようなことであった。
茶道では「賓主互換・賓主歴然」ということばがあるそうである。
そこから、主客が自在に入れ替わり、混じり合い、また分離し・・・という共身体形成プロセスこそが茶事の人類学的本質ではないかという「いつもの話」になる。
茶事では「躙り口」で四足歩行を強いられ、そのあと無言で炉の火を見つめ、共同で飲食し、濃茶の点前では強烈な体感統御力をもつ亭主の「コンダクト」で身体的同期を経験する。そして、同期から緩やかに解放されたところで「民主的」な薄茶が提供される。
これって、人類史そのものじゃないですか・・・という「トンデモ話」になる。
たいへん面白い話であったが、詳細は『考える人』の次号をご覧くだされ。
そのあと四人でブザンソンという名前のフレンチレストランへ繰り出し、シャンペン、ワインなどをじゃんじゃん頂き、さらに談論風発、深更に至る。
しかし、千宗屋さんという人は恐るべき人物である。
まだ32歳。
この人が50代になって武者小路千家の家元になるころ、どれほどの貫禄になるのか、ちょっと想像できない。
私もぜひあと20年ほどは長生きして、立派なイジワル爺さんとなり、官休庵で千さんに濃茶を点てていただきながら清談を楽しみたいものである。
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