田岡嶺雲の東夷論

2007-08-18 samedi

森銑三といっても知る人は少ないが、私の大好きな文士の一人である。
この人の『明治人物閑話』が私の座右の書の一つであるのは折に触れて書いている通りである。
手元にあるのは昭和63年の版のものであるから、おそらく私が30代の終わり頃か40代の始め頃に手に取ったものであろう。
それはポストモダンとかデコンストラクションとかジェンダースタディーズとかポストコロニアリズムとかやたらに新帰朝の理説が幅を利かせていた時代であった。
そういう時流がどうも気に染まず、家に籠もって森鴎外や夏目漱石や永井荷風や石川淳や中島敦や森銑三のような「明治の匂い」のするものばかり読んでいた。
森銑三を読んで成島柳北の存在を教えられ、それから柳北のものを読み始めたのである。
私が「日本のおじさんは偉い」という確信を得たのはこれらの明治人のおかげである。
中央公論社から復刻される森銑三著作集の解説を書くために、また本を取り出してはじめから読み出した。
もう何度も読んでいるので、内容は熟知していると思っていたが、久しぶりに読むと、「こんなことが・・・」というようなことが書いてあった。
田岡嶺雲という人(私は寡聞にしてこの人の事績を森銑三に教えてもらうまで知らなかった)のプロフィールを素描した文の中に、嶺雲の絶筆「無当語」が採録されている。
それが何と「日本属国論」なのである。
私の「日本属国論」はもしかすると田岡嶺雲に最初に「刷り込み」されたアイディアかもしれない。
嶺雲はこう書いている。

「万世一系の我が皇室を除いて、日本は果たして其誇るべき特有の何者かをか有する。試みに其文、其制度、其慣習の一切を仔細に検し視よ、其の孰れか果たして模倣踏襲に非ざるものぞ。国民が有する何物か果たして其の独創発明に出でしものぞ。已むを得ずして之に美名を被らしめて、同化力に富むといふ。而も如何なる国か他を模擬する説き、此に幾分の自個を加味せざるものや有るべき。若し之を同化といふべくは、一切の模擬は皆同化也。日本は過去に於て印度の文明、支那の文明を同化せりといふも、若し之を所謂同化したるものありとせば、其は其のあまりに大なるが為めに尽く之を受容する能はずして、之を自個の偏隘なる島国的小模型中に改修するの已むを得ざりし者のみ。其過去に於ると等しく、現在に於ても亦泰西の文明を活剥生呑す。(…)
日本は国に於て独立なり、然れども思想に於て事大主義也。事として毎に大国の後塵を拝せざること莫き也。人は物徂徠が自ら東夷と謂ひたるを誹れども、之を誹るものも亦事実の上に東夷たるを甘んずるもの也。今の思想界の人は、唯支那に対して東夷といふを恥づるのみ。泰西の思想に対して東夷たるを恥ぢざるのみならず、寧ろ此を以て誇とするのは、滔々皆是に非ずや。」

嶺雲がこの文を草したのは明治43年(1910年)のことである。
私の「日本属国論」は日本が「西の中華」(嶺雲のいう「印度」と「支那」)と「東の中華」(「泰西」)の間をゆれうごき、いずれを「模擬」すべきか逡巡している状を日本人の「生産的葛藤」として嘉する議論なのであるから、やや嶺雲とは趣向を異にする。
だが、それでも1980-90年代のニューアカとか脱構築とかいう言葉が喧しかった時世に、私が「泰西の思想に対して東夷たるを恥ぢざるのみならず、寧ろ此を以て誇とするのは、滔々皆是に非ずや」という一文を読んで溜飲を下げたことは想像に難くないのである。
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