恋愛と結婚のおはなし

2007-03-31 samedi

久しぶりのオフ。
三宅先生のところに行くと、待合室に甲南合気会の井上さんがいた。
診療室ではゑびす屋谷口さんが治療中で、「ウノ先生がいま帰りました」ということであった。
なんだ身内ばかりだなとつぶやいていたら、ゼミのタムラくんがお母さんといっしょに待合室に入ってきた。
身体症状というのは重篤な個人情報であるはずで、そのせいで病院では患者の名前さえ呼ばないというのだが、ここでは三宅先生が大きな声で患部の状況についてご説明くださるので、誰がどのような身体的問題を抱えておられるのか全員周知のこととなってしまう。
しかし、そのようにして他者の身体に起きている苦痛やこわばりや歪みに同期し、それがいまここで行われている治療によって緩解してゆく「体感」をリアルタイムで追体験すること、他の患者の治療に立ち会うということそのものがすでに治療行為となっているという点が三軸修正法のすぐれた特徴なのである。
私の身体の使い方が変わってきたことは使い込んでいる筋肉部位のずれから三宅先生にはわかるらしい。
「最近、合気道の動きが変わりましたね」と指摘される。「すごく速くなったでしょう」
そ、そうなんですよ。

午後は朝日新聞の取材。
恋愛と結婚について。
早婚志向・出産育児志向・カントリー回帰志向・共同体志向の徴候が20代前半の女性に現れてきていることを指摘する。
メディアが提供してきた「アーベインな20代女性」のロールモデルが「賞味期限切れ」となってきて、それより下の世代は誰もモデルを示してくれない中で「新しい生き方」を模索し始めている。
メディアは「メディアの提示する若者像」がそのつどつねに現実に遅れていることを認めたがらない。
でも、それはある意味でメディアの宿命である。
かまやつひろしさんが大瀧詠一さんとのラジオでの対談で、60 年代にご自身が吹き込んだトンデモ・レコード(「下町上等兵」とか「麻雀必勝法」とかそういうタイトルのやつ)について、「あれは、ディレクターたちが自分の戦争時代の失われた青春を回顧して、僕に歌わせていたんでしょうね」と分析していた。
メディアで若者論を書く人々は、無意識のうちに、「自分が若者だったときの自画像」を基準にとろうとする(「いまどきの若者」を批判するにしても、賞賛するにしても)。
それはしかたがないのだけれど、それだと「自画像」の度量衡になじまない種類の徴候は記号的に認識することができない。
けれども、ほんとうに重要な変化は「私たちが見たこともないもの」であり、それゆえその良否について判定する基準そのものが私たちの手元にないものなである。
若い女性の早婚志向・出産育児志向を、「やんきい」の早婚志向・出産育児志向(「できちゃった婚」)と同一カテゴリーでしかメディアは把握していない、
だが、実際には「あまりに幼稚なので、避妊の仕方も知らず、結婚や育児がどれほどの人間的能力を要求するかも知らず、もののはずみで結婚し子どもを産んでしまう人たち(そして、のちに家事放棄や児童虐待に向かうタイプ)」と、「結婚と育児が高い人間的能力を涵養する機会であることを感じ取って、自分自身の心身のパフォーマンスを高め、幸福な大人になるために結婚し、子どもを産もうとするタイプ」は形態的には似ているけれども、志向している方向がまるで違う。
私たちの社会の未来を担うのは後のタイプの女性たちである。
けれども、そのような生き方のロールモデルをメディアは提供することができない。
だって、実際にそんな生き方をしてきた「大人の女性」たちにメディアがこれまで注目したことはなかったからだ。
取材しようにも、そんな女性に「どこ」に行けば会えるか、編集部の誰も知らないからだ。
というような話をする(ちょっと違うけど)。

それから大急ぎで夕食(北京風餃子、蟹玉、ビーフン)の支度をする。
5年前のゼミの卒業生である “ぷー” のさっちゃんとウェスとナガモトくんが訪ねてくる。
ウェスが五月に結婚するので、そのご報告とさっちゃんの「コイバナ」を拝聴し、ナガモトくんの職場人間関係の苦悩を伺う。
ゼミ生・元ゼミ生たちから聴くこの「なま」の恋愛と仕事の話は私の貴重な情報源である。
彼女たちはレディメイドの「女性の生き方についてのガイドライン」では彼女たちが日々経験している具体的な出来事を説明することも、それに対処することもできないことを知っている。
そうである以上、自力でそれを構築しなくてはならない。
がんばるのだよ。
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