ブロフェルド効果

2007-03-04 dimanche

「講演はもうやりません」と宣言したので、これが一般公開される最後の講演となった高槻のお仕事にでかける(まだあと3つ約束が残っているが、すべてクローズドのイベントである)。
主宰されたのはリゾナンスという高槻の市民団体。
京都造形大での講演で「絶句」してから、講演恐怖症となっていたが、それ以来のピンの講演である。
病み上がりで体調も思わしくないし、依然として頭がぼおっとしている。
どうもろくなことになりそうもない。
何を話すか何も決めずに(というよりは決まらずに)、よろよろと高槻まで行く。
壇上でとりあえずマイクをにぎって、適当に話を始める。
30分くらい話してネタが尽きたら、勝手に会場からの質疑応答に切り換えて1時間くらいでお茶を濁してソッコーで逃げ出そうと思って、かなり投げやりな気分で始めたのであるが、話し始めると「話しやすい」ことに気がついた。
この「話しやすい」というのはひじょうにデリケートな条件であって、なかなかひとことでは言えないのであるが、とりあえずは「最初のひとこと」で決まる。
最大の条件は「音」である。
音響のよいところは「話しやすい」。
当たり前だと思うかもしれないけれど、自分の声を最初に聴くのは自分自身である。
自分の声が「うすっぺら」に聞こえるというのと、「重厚」に聞こえるというのでは主観的な印象はまるで違う。
「みなさん、こんにちは」だけでも、それが「きいきい声」なのか「深みのあるバリトン」なのかでは天地の差がある。
「きいきいした声でしゃべっている自分」の声が聞こえると、とたんにしゃべる気がしなくなる。
そんな声でしゃべるやつの話なんか、まず私自身が聞きたくないからである。
できるだけ早く話を終わらせたくなる。
話を早く終わらせようとすると、接続詞は飛ばされ、比喩は省略され、繰り返しは忌避されるので、短いだけで何を言っているのか意味不明の話になる。
自分の話していることが「意味不明である」ということは本人にもわかるので、さらに話を短く切り上げねばと焦燥に駆られ、ますます事態は破滅的になるのである。
この音響の差の50%はマイクの感度やホールの反響性など物理的な条件で決まる(残り50%は聴衆の身体の「共鳴度」の高さ)。
多少会場の音質が悪くても、オーディエンスの「のり」がよければ、声の響きはよくなる(聴衆の身体を通過した私の声がそこで共振を起こすと、倍音が出てくるのである)。
しかし、たまにすぐれた音響環境に出くわすこともある。
そういうところで話を始めると「こんばんは」と言っただけで、最後の「は」の音が余韻を残してゆったり流れ、それが消えてゆくまで私の声がその場を支配するような感じになる。
スペクターの幹部会議のときにブロフェルトだけが別室からマイクで会議に参加して、やたらリバーブのかかった声で「この中に裏切り者がいる・・・」と告げたりするのは舞台装置としてはたいへん理にかなっているのである。
ホテルの宴会場というのは私が知る限り音響についての配慮がほとんどない環境である。
ホテルの宴会場の壇上でしゃべると誰でも3割方知性が失われるのはそのせいである。
考えてもみたまえ。ホテルの宴会場でマイクを握ったら、自分でも自分の声とは思えぬほどに深みのある豊かなバリトンが流れ出たらどうなるか。みんなマイクを離さなくなる。それでは宴会の進行上(次の宴会も入っていてケツカッチンであるから)妨げとなるので、マイクを握った人間ができるだけ早くそれを手放したくなるようにホテル側の深慮遠謀として「バカ声」にしか聞こえないように音響設計がなされているのである。
スペクターの幹部会をホテルの宴会場で行った場合には、エルンスト・ブロフェルドの恐怖支配も長くは続くまい。
大学でもそうである。
本学では築70年ヴォーリズ設計の文学館の教室(特にL-13)がたいへん声の通りがよい。
ここでゼミをしていると、学生諸君がみんな賢く見えるので、点数が2割方アップするのである(知って驚いたねゼミ生諸君)。
救いがたい「バカ声」になるのはLAIIの全教室で、小教室は「きいきい声」、大教室は「われ鐘のようなばりばり音」になる。ここで講義をすると、講義をしている当の私でさえも「ウチダの話はもう聞きたくない」という気分になる。
そういえば本学はいま教育棟というのを建設中であるが、教室における音響の問題について注文をつけるのを忘れていた。
設計についての議論は建物の外観と面積や遮音壁の話ばかりで、授業をする上でもっとも重要な「その教室内ではどのように快い響きの声が聞こえるか」ということはついぞ一度も問題にならなかった。
そんなことは数量的に示せないのであるから、言ってもしかたがないのであるが、ヴォーリズ博士はちゃんとそういうところにまで配慮していたのである。
当今の建築家たちは「オーディオルームの壁材の質」などには配慮するが、そこで暮らす人たちの声がその室内ではどれほど穏やかに通りよく響くかというようなことには興味を示さない。
まあ、文句をいってもしかたがない。
私は文学館の教室さえゼミで使わせてもらえるなら文句は言わない。
えーと、話が遠くへ行ってしまったが、要するに昨日の高槻市の市民センターのホールは思いがけなく、ブロフェルド効果が高かったのである。
最初の「こんばんは、ウチダです」のひとことで、私は「お、いい声じゃんか、オレ」と思ってしまったのである。
ホールの音質も悪くなかったし、聴衆の方々の共鳴度もたいへん高かったのであろう。
音質のよい環境で、かつ「公開講演はこれが最後・・・」というアナウンスを信じて(信じてもらってよろしいのですが)、遠隔地からもたくさんのお客さんが来てくださり、「ウチダタツルさよなら公演・長い間ありがとう。これからはふつうのおじさんに戻りますショー」を見物するようなウォームハーテッドな雰囲気だったので、柏原高校以来ひさしぶりに憑依してしまったのである。
ネタは共身体とスキャニングと武術と『ワルシャワ労働歌』。
お招きいただいた市民団体の方々は「あの60年代」に青年たちだった方らしく、革命歌とデモと共身体のネタは「ツボ」にはまったようで、多くのかたが深々と同意のうなずきを示しておられた。
何も知らずに壇に立たされて、思いつきで「新相馬節」を歌ったら、たまたま会場の人が会津出身者ばかりだったというような状況を想定していただければよろしいであろう。
というわけで、「ウチダタツルさよなら講演」は無事に終了したのでした。
知り合いは誰も来てないだろうと思っていたら、渡邊仁さんと高取さんが遊びに来てくれた。
打ち上げにも付き合ってもらって、三人でおしゃべりしながら帰る。
リゾナンスのみなさま、どうもありがとうございました。
オーディエンスのみなさま、また機会があったら(あるかしら)お目にかかりましょう。
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